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人生は自動運転の旅

運命か宿命か

運命は変えられて、宿命は変えられない…などと、そんなことを耳にしたことは誰でも一度はあるだろう。

かといって、今日何を食べるかは自分で決められるし、どちらの道を通って目的地に向かうかも自由に選択できる。恋愛も自由にできるし、今日の服だって自分で選んだはずだ。私たちは自由の世界に生きている。そして、自由があるからこそ、迷う。

…と、私も思っていた。もちろんその時々で自由にできないことは多々あったし、成長の過程で様々な抑制はあったものの、大人になってからは、一応すべて自分で選んでいると思っていた。義理やしがらみで自由でない感じがすると、とても不自由に思って抑圧や葛藤を感じたりもするし、家族のことや自分の選択にも、迷ったり頭を悩ませたこともある。今だって、超個人的な話だが、子どもの目の矯正をどの方法でさせるか迷っているし、ひび割れてしまった洗面所の入れ替えをどのタイミングでするかを迷っている。

しかし、分かっているのだ。こんな迷う時間はまったく意味のないことなのだと。

そこへ運ばれることは決まっている

実は私たちの人生は、自動運転の車のようなものだ。異論や疑問はあるだろうが、とりあえず話を聞いていただきたい。実は私たちは自動運転の車に乗っている。車に乗っていて、その車は完全にオートマチックで動くが、私たちはハンドルを持っていて、自分が運転していると信じ込んでいる。

思考はあれやこれやと考えて、この先の角で曲がろうか、スピードをもう少し出そうかと選択していると、「思っている」。まあ実のところ、私たちのハンドルを持つ手に、多少は影響力はある。1つ前のブロックで曲がるか、その先で曲がるかの差だったり、ここでスピードを出して、後で信号で捕まるか、くらいの自由度だったりするが、残念なことに、そういう些細なことが大きく影響することなく、結局は予定されていた時間に、予定されていた場所へ到着する。

車は自動運転で、どういう景色を見て目的地へ着くかはもう設定済みなのだ。


努力しても望む目的地にたどり着かない経験

宿命なんてなんていうものは、ドラマや映画のものだと常々思っていた。人生をドラマチックにしたい人がそう考えたいのだと。だから、ハンドルから手を離したり、アクセルやブレーキから足を離したりは決してしなかった。第一、生きるために、私たちは運転し続けなくてはいけないと思っていた。そうしないと目的地にはつけないと強く信じて疑わなかった。私が運転しなければ、誰が私を目的地に連れて行ってくれるというのだろう?

ただ、どんなに頑張っても、望んでいた目的地に着かないことがあることを不思議には思っていた。どんなに努力しても、望みのものが手に入らなかったり、思った状況にならないといったことは、人生の中でたくさん経験した。私に何かが足らなかったからなのか? 何か落ち度があったのか? その度に落ち込んだり自分を責めたりした。

一方で、一切頑張らなくても、自分が想定していなかった場所に到着することもあった。一方の努力と比べたら、不思議なくらい、何の努力もせずに、引き寄せられるようにそれを手にした時は、首をかしげて、一体どういうシステムになっているのかと考えたりした。

手に入ったり、手にできなかったりという、努力と相関しないことが続くので、ある時、私は試しに、ハンドルから手を、ペダルから足を離してみることにしたのだ。簡単に言うと、努力をやめた。自分で何とかしようとするのもやめてみた。そうすると、どうなったか。

私の人生は、別段変わった様子もなく、あっけないほど通常運転で運行した。

自分の意思とは関係なく進む人生

これは、本当に不思議な感覚だった。だって、これまで、私が動かしていたと思っていたものが、私なしで、これまで通りの動きを見せるのだ。

ちょっと待てよ。あんなに前のめりでハンドルを握り、次の角を曲がろうかどうか迷っていたのは何だったんだ。しかも、曲がった後も、「ここを曲がって良かったんだろうか」とか、「思った目的地に着かなかったのは私があそこでまっすぐ行ってしまったからではないか」とか、自分を責めたり落ち込んでいたのは何だったんだ。私の意思は関係なかったではないか。良くも悪くも、私の思考システムはほぼ影響力を持たず、結局は計画通りになるようになっていたというわけか。

これは本当に衝撃的だった。実はまだ自動運転に慣れていないので、前述したように、些細なことをまだ迷ったりする私もいる。迷ったりせずとも、この時期にこうなるというゴールはすでに決まっているのに、まだハンドルを動かそうかと悩む馴染みの私もたまに出てくる。その時はまるで、「私がその自由と責任を持っている」と思っている。自分の意思次第で世界は変えられると思っている時、私は迷っているのだと理解できるようになった。

責任のない気楽な旅

自動運転の人生はとても気楽だ。だって、自分にはどうしようもないから。その責任を問われても、私には責任がないと分かったからこそ、もう任せるしかない。出会う時には出会う。事故を起こすことになっていたら事故するようになっている。まだ起こっていないそれを危惧して不安に駆られたり、自分でコントロールできないことに怒っても、結果は変わらないことに気がつき始めた。

自動車の中で、「思った場所に着かないじゃないの!」とキーキー言ってても、「どこに着くのかなあ~」などとのんびりしていても、結局は同じところに着く。車の中で、どんな風に過ごすかは私たちの自由みたいだ。私たちがもし実践する課題があるとすれば、現状を受け入れ、赦すという課題だけだ。

私たちがどう過ごすか、そのスタンスは自由だが、目的地はすでにいつも設定済みだ。たどり着いたら、その先の目的地も決まっているから、私たちは布石を踏むように計画的に進んでいる。今の私たちに全体像は見えないが、私たちには理解ができない大きな意図があると思うしかないし、それを理解しようとするのは無駄な労力でしかないことも分かった。

自動運転の車から見える景色や到着地を面白がって生きる

その性質を理解したら、いちいちたどり着いた場所やルートに腹を立てることもなくなる。「ほほう、ここに来てこれと出会うようになってましたか」と妙に感心したり、「なるほど、これを体験することで、こうなるようになっているんだな」と納得したりはするけれど、自分を責めることはない。そこへ連れてきてくれた何者かを責めることもない。私にその責任はないし、私の計り知れない何かの計画がここにはあるのだろうとしか分からない。なるようになっているだけで、誰も悪くないし、同様に私も悪くない。自分を責めたりしなくていいということは、とっても心が解放されることだ。

私たちがすることは、車の中から「許せない」と思うようなことに出会っても、「赦していく」「受け止める」というシンプルなことだけだ。頑張ることも、責任を負うことも、迷うことも、落ち込むことも、力を出すことも、一喜一憂することも、ただ意味がないからこそ、別にしなくていい。私は動かされ、ただ体験するようにルートをあらかじめ決められているのだから。

リラックスしたしあわせな旅

それが本当かどうかは、ぜひそれぞれが自分の人生で試してみるといいと思う。手放すことは最初、あまりに慣れていなくて勇気がいることだろう。だから、少しずつ実験するつもりで、思い出すたびに試してみればいいのだ。手応えを感じたり、そこに何らかのヒントを感じた時、またちょうどいいアドバイスがやってくるので、ちょっと注意深く辺りを見回し、耳を澄ましてキャッチしてみるといい。不思議な話だが、本当だ。私はそうやって、ここまできたのだ。

リラックスすることは人生を諦める、ということではない。心を追い立てたり、奮い立たせたり、刺激を求めたり、義務をこなしたりせずに済むことがどんなことなのか、私たちのほとんどはこれまでの人生では味わってきていない。本当のリラックスとそこに付随する本当のしあわせについての手がかりをつかむために、何度となく取り組んでみるといいと思う。中にはそこに答えがあることを感じて、逆に近づけない人もいるが、それもそれぞれのプロセスだ。私たちはいつそのことに取り組むかの自由を与えられている。いざ取り組み始めると、自分が信じて疑わなかった前提が意味を失い、再構築が始まる。

今、私は運命にも宿命にも意味を感じない。そんな概念は自分が運転していると思っている時に発想した概念だと感じている。私たちを満たしてくれるのは、そんな討論ではなくて、真理がどんなシステムで動いていて、私たちがしあわせを感じ続ける状態がどれか、ということだと思っているし、この一点こそが、実はとても重要だ。


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