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【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 5. 日曜日


 マルチェロが目を覚ましたとき、椅子に座ったままのエドアルドとクリスティーナはまだ眠っているようだった。
 むくりと身体を起こすと、窓辺から差し込んでくる日の光の眩しさにマルチェロは目を細めた。光というものはこれほどまでに美しいものだったのか。これまで特に気にしていなかったが、ピオンボの暗闇を経験したマルチェロにはこの光がとても貴重なものに思えた。
 マルチェロは目を閉じ息を吐いた。

 さて。考えなければならないことは山ほどある。事態は解決したわけではない。自分は脱走した身、公の場に姿を表せない。それに一文無しで、自分の屋敷にも帰れない、おまけにアンナ=ソフィアの正体も居場所もわかっていない。
 だが、あの監獄に囚われていたときと比べれば自由の身である今は天と地の差だ。それに少なくともここには味方が二人いる。それならばできることは多い。

「ん……もう朝……?」

 クリスティーナがぽやんとした声を出して、もそりと身体を起こし、あくびをした。
 その声にエドアルドも目覚めたようで、うーんと伸びをしている。

「いてて……首が」

 ずっと俯いて眠っていたせいか首を痛めたエドアルドは、表情を歪めて首の後ろを揉んだ。

「おはよう、諸君」

 マルチェロのかしこまった言い方に、二人は寝ぼけた顔で何事だと彼を見た。

「昨夜は私のために尽力いただき感謝する。今後も諸君の活躍に大いに期待する」

 クリスティーナは半分開いた目をぼうっとさせたまま隣のエドアルドに言った。

「朝からなんなの」

「ベッドで寝たからすっきり目覚めたんだろ……こっちが首を痛めた代わりにな」

 二人の気の抜けるような言葉に、マルチェロは咳払いをしてから言った。

「おかげ様でよく考えることができた。今日は日曜日だ。私はこれからミサに行こうと思う。そこで父上と接触してみるつもりだ」

「「えっ!?」」

 クリスティーナとエドアルドは驚きの声を漏らした。二人とも一気に目が覚めたようだ。

「ミサに行くって言った?」

「フォスカリーニ様にお会いしてどうするつもりだ」

 マルチェロは腕を組んで答えた。

「状況を聞く。今アンナ=ソフィアがどこにいるのか情報が掴めたのか、この国の貴族たちと十人委員会がどうなっているのか少しでも聞き出そうと思う。ダンドロ様は常に密偵に見張られているはずだ。父上の方が接触しやすいだろう。聖体を配るときが一番の狙い目だ」

「そううまくいくかな」

 エドアルドは口を挟んだ。

「そりゃそのときは騒がしいだろうけどさ、フォスカリーニ様がそんな大それた秘密をわずかな時間に、しかも教会で教えてくださるとは思えない。お前が直接接触するのは危険過ぎる」

 クリスティーナが言った。

「ね、それなら手紙を渡したらどうかしら。向こうから聞き出すことはできなくても、こっちからのメッセージを伝えることはできるわ」

 マルチェロが首を振った。

「だめだ、それは危ない。万一落として人に知られでもしたらそれこそ命とりだ」

 三人はふうむと息を漏らした。エドアルドが肩をすくめて言った。

「とりあえず朝の支度をしようか。考えるのはそれからだ」

 その後三人は女将のラウラが持ってきてくれた桶で顔を洗い身支度をした。一階へ下りると、果物売りの女と牛乳売りの少年が来ていたので、ひとまずそれで腹を満たす。支払いに関してはエドアルドが“ギーシ邸に取りに来てくれ”と頼んでくれた。
 そうしているうちに夜じゅう外で遊んでいた娼婦たちがわらわらと邸に帰ってきたので、三人は慌てて仮面の一式を身に着けてランパーネ邸を後にした。


 街中のあちこちから教会の鐘が鳴る音が聞こえる。ミサが始まったらしい。小さく開けた広場の前で、三人は立ち止まった。
 エドアルドは仮面越しにくぐもった声を出した。

「ひとまず俺は屋敷に戻ろうと思う。父上が戻られているかもしれないし、財布がないから金も調達したいし、朝ごはんの支払いも残ってる。マルチェロは当然来るだろ、クリスティーナはどうする、一緒に来るか?」

 友人の言葉に、マルチェロはほんとうのところどうするべきかわからなかった。屋敷へ帰りたいが、兄のジュリオがいたら監獄へ逆戻りだ。かといって密偵のはびこる町を動き回るのは賢明とは言えない。
 マルチェロがそんなことを考えていると、クリスティーナが言った。

「私は――フォスカリーニ邸の様子を見てくるわ」

「なんだと!」

 マルチェロは思わず声を上げた。

「それなら私が……」

「お前はだめだと言ったろ」

 エドアルドが厳しい声を出した。仮面の奥から覗いている目もマルチェロを睨んでいる。

「まだ身の安全が保証されていないんだ。ここはクリスティーナに任せよう」

 むっと黙りこくったマルチェロに、クリスティーナは真面目な顔で言った。

「大丈夫よ、マルチェロ。慎重に動くから。後で私もギーシ邸に行くわ、あなたはエドアルドと一緒にいて。何かあってからでは遅いでしょ」

 マルチェロは仮面越しにクリスティーナの仮面を見つめていたが、やがて無言で頷いた。
 その様子にクリスティーナは小さく笑みを漏らすと「それじゃ、また後でね」と言って広場の向こうへと行ってしまった。

 その後ろ姿を二人はしばらく見送っていたが、エドアルドがぽつりと「いい子だな」と呟くと、マルチェロは鼻を鳴らした。

「所詮は娼婦、卑しい身分の女だ」

「……そんな彼女の一夜を守った誇り高き貴族はどこの誰だったかな」

「あれはっ、べ、別に、仮を返しただけで、私は……」

 マルチェロが慌ててそう言ったのに、エドアルドは「わかったわかった、ほら行くぞ」と肩をすくめて歩き出した。マルチェロも「お、おい待て、聞いているのか」と友人の後を追った。


 広場を過ぎ、橋を渡り、また広場に出る。街中には紙の切れ端やリボン、酒瓶のかけらなどがあちこちに落ちていた。昨日はカーニヴァル最後の土曜だ。盛り上がったに違いない。騒ぐ声だけは牢にいても聞こえたなとマルチェロが思い出していた。
 それからしばらく歩いていたが、二人がある広場に出たとき鐘が鳴った。ミサが終わったらしい。教会から人が出てきて、町はまた賑やかになり始める。

「きゃあああああっ」

 突如すぐ後ろで悲鳴が響いた。マルチェロもエドアルドも肩をびくりとさせ、何事だと悲鳴がした方を振り向く。

 先ほど二人が通り過ぎた教会前の階段の下で、一人のバウタ姿の男がうつ伏せのまま倒れていた。
 男の背中には刺された痕があり、黒いタバッロからは血が滲み出て地面に流れている。彼の一番近くにいた夫婦の妻の方が悲鳴をあげたらしい。夫の方はすぐさま駆け寄り、倒れている男を助け起こした。
「何が起きた」「刺されたらしいぞ」「誰か医者を」と人々はざわめいた。その場にいた船頭たちも駆け寄って男の容態を伺う。マルチェロたちを含めた野次馬もその周りに群がった。
「しっかりしろ」と声をかけられながら、ぐったりしている人物の帽子と仮面が外された。
 表れたのはいくらか若い男で、顔はすっかり血の気がなかった。それを見て、もう彼が虫の息のようだということを皆が悟った。

「おい……司祭を呼んできた方がいいんじゃないか」

「そうだな」

 そう言った呼びかけに、人の輪の一番後ろにいた果物売りの男が頷いて教会の中へ駆け込んでいった。それを見送った後で、瀕死の男の傍らにいた船頭の一人が「あれ、こいつ短剣を持ってるぞ」と言ったのがマルチェロの耳に入った。

 短剣だと?
「これで刺されたの?」「ばか、血がついてないだろ。これで身を守ろうとしたのかもしれねえ」と人々が口々に話す声が聞こえる。
 マルチェロは人と人の間から船頭が確認している手元を見ようと、身を乗り出した。
 短剣は鞘から抜かれていた状態だったようで、刃先は陽に反射して光っていた。野次馬が口々に言う通り、全く汚れていない。それから柄の部分に目を移してーーマルチェロは目を見開いた。

 あの紋章。

 同時にエドアルドが緊張した声でマルチェロの肩を叩いた。

「お、おいマルチェロ、タバッロを見ろ」

 言われるままに視線を向けた。
 タバッロの表面は黒、しかし男たちに助け起こされて仰向けになってあらわになったタバッロの内側は、一面赤胴色だったのである。
 まさかこの男。

 マルチェロは突然入り込んだ複雑な情報に衝撃を受け、ふらふらと野次馬の輪から外れた。エドアルドも抜け出して友人の肩を支える。

「だ、大丈夫か、マルチェロ」

 マルチェロは、エドアルドの肩を掴んで「まずいぞ、エド」と仮面越しにくぐもった声を出した。

「これは単なる私情の揉め事ではない……国家間に関わる問題だ」

******************

 クリスティーナは、鐘が鳴っているカルミニ教会の前に立ち、中から人々がわらわらと出てくるのをじっと見ていた。ある男性が一際上等なタバッロで出てきた。仮面をつけていないその中年の男性はどことなくマルチェロに似ている。彼は運河に浮かぶゴンドラの船頭と何やら話してていた。クリスティーナはじっくりゴンドラを観察した。あった、フォスカリーニ家の紋章だわ。

 クリスティーナの確信通り、彼はまぎれもなくマルチェロの父ダニエレ・フォスカリーニであった。
 彼の後ろから黒の細かいレースのヴェールを被った女が「お父様!」と追いかけてきた。あの方がマルチェロのお姉さんかしら。
 クリスティーナは岸辺に近いところで親子二人が話しているのにじりじり近づくと、川に視線を向けつつ耳をすませる。

「まあ、では一緒に帰りませんの?」

「私は……の屋敷へ……お前は先に帰りなさい」

 フォスカリーニ氏の声は低く、雑踏の中では聞き取りづらかったが、貴族の屋敷へ向かうということはわかった。彼は娘が頷いたのを確認すると、彼女をフェルツェ(客室)付きのゴンドラに乗せた。そうして自分は自家用のゴンドラに乗って行き先を伝えるのをクリスティーナはしっかりと聞き取った。

 クリスティーナはフェルツェ付きのゴンドラの方へ視線を向けた。ゆっくりと川を進んでいくのが見える。
 彼女はゴンドラの後を追った。

 行き止まりばかりになるこの街の道筋は、クリスティーナの頭の中にしっかりと叩き込まれていた。
 回り道、ぬけ道を駆使して、クリスティーナは人のいない岸に出た。
 櫂を進めている船頭が一瞬目を離した隙をねらい、クリスティーナはゴンドラのフェルツェの中に飛び込んだ。

「……っ!」

 突然目の前に転がり込んだ闖入者に、ゴンドラに乗っていたマルチェロの姉ルイーザは息をのんだ。そして彼女が状況を理解しゆっくり目が開かれていくのをみて、クリスティーナは叫ばれてはまずいと思い、被っていた帽子もバウタも仮面も全て剥ぎ取った。
 素顔を見せたのが若い女であることに、ルイーザは驚いたように目を瞬かせた。

「突然ごめんなさい!」

 クリスティーナが船頭に聞こえないような、囁くほどの小さな声で言った。

「どうしてもあなたとお話ししたくてこのような真似をしました。どうか人を呼ばないで、お願い」

 懇願するように手を握り合わせて頭を下げた闖入者に、ルイーザは眉をひそめた。

「……誰なの?」

「私はクリスティーナ、マルチェロの友人です。彼のことについてご家族のどなたかに伝えたいことがあります、あなたはマルチェロのお姉様とお見受けします」

「マルチェロの友人ですって?」

 ルイーザは驚きの声を上げた。その高い声に、船頭が扉の向こうから「シニョーラ、どうかなさいましたか」と尋ねた。
 ルイーザはすぐに「なんでもないの」と答えた。

「その、お気に入りの芝居の台詞よ。気にしないで櫂を進めて」

 ルイーザは声を張ってそう言うと、ほっと胸を撫で下ろしているクリスティーナを見て、にやりと笑みを浮かべた。

「いいわ、おもしろそうだから聞いてあげる……あなた、もしかして金曜の正午に弟を呼び出した子?」

 クリスティーナは目を丸くさせた。

「お嬢様はご存知だったんですか?」

「お嬢様なんてやめてちょうだい、ルイーザよ……ええ、少しね。手紙を読んでもあいつが呼び出しに応じようとしなかったから尻を叩いてやったのよ」

「……金曜日にマルチェロが来てくれたのは、ルイーザ様のおかげだったんですね」

「そういうこと」

 得意げに言ってから、ルイーザは興味深々な顔でクリスティーナに言った。

「それで? 話ってなに?」

 クリスティーナは咳払いすると、今までよりも一層小さな声で言った。

「マルチェロは金曜日も昨夜もお屋敷に帰らなかったはずです」

「そうね。でもお祭りなんだもの、毎年のことよ」

 クリスティーナは真剣な顔で続けた。

「彼は金曜日の夕方、お屋敷に戻られたでしょう」

 ルイーザは「ああ……そういえばそうだったかしら」と記憶を辿るように顎に手を当てた。
 クリスティーナは言った。

「その、信じていただけるかわかりませんが、これから申し上げることは全て真実で、嘘はありません。金曜の夕方、ある外国人の女性がマルチェロを訪ねてフォスカリーニ邸に来たんです。ほんとうはマルチェロのご友人エドアルドと三人で会うはずでした」

「エドアルド……ギーシ家のとこの子ね」

 クリスティーナは頷いて続けた。

「ところがエドアルドが来る前に……お役人が来ました」

「……役人?」

「はい。マルチェロも女性の方も彼らに捕らえられました。女性はそのまま行方知れずなのですが、マルチェロはピオンボの囚人となりました」

「ピオンボですって!?」

 ルイーザ驚いて口に手を当てた。

「そ、それで……なに、あの子はずっと捕われてるってわけ?」

「いいえ。その、看守の話では、そのまま捕らわれていればお命が危ないとのことでしたので、彼の脱獄のお手伝いさせていただきました。私は……昔亡くなった父が看守でしたので、ピオンボの勝手をしておりました」

「そ、それで脱獄したの」

「はい、昨日の夜ふけのことです。今はエドアルドと一緒にギーシ邸に身を潜ませているはずです」

「あらま、そう……!」

 ルイーザは少しほっとした表情を浮かべてから首を傾げた。

「でも……どうして屋敷の者たちは何も言わなかったのかしら。確かに一昨日の夜、あの子がいないから私もおかしいと思ったのよ、もう外出しないって言ってたのに。使用人たちは出かけましたとしか言わなかったわ」

 クリスティーナは眉をぐっと寄せて「そのことなのですが」と小さな声で言った。

「マルチェロの話によると、屋敷に来たお役人の中には……その、マルチェロのお兄さんもいらしたとのことでした。おそらく口止めされていたのかもしれません」

 ルイーザは目を見開いた。

「ジュリオお兄様ですって?」

 クリスティーナは続きを話そうとして口を閉じた。岸辺のすぐ目の前にがやがやと人の波が通ったからである。
 やがてそれが通り過ぎると、ルイーザは息を吐いた。

「……全く。にわかには信じがたい話ね」

 そう言われて、クリスティーナは俯いた。

「ほんとうはフォスカリーニ家のご当主様にお伝えしようと思っていたのですが、その、私は一介の娼婦なので、信用していただけないかと思いまして……」

 その眉尻を下げた表情に、ルイーザは目を細めた。この子娼婦だったの。まだ若いわ、私よりいくつか歳下……苦労してきたのね。
 ルイーザはそうまでは言わず、次のように言った。

「それで? 私は今の話をお父様に伝えればいいの?」

「できればそうしていただけると……あと、その、マルチェロのお兄さんが何をお考えなのかご存知ならでしょうか。このままではマルチェロはずっと役人から追われる身です」

 クリスティーナは哀れっぽく言ったが、ルイーザはふっと笑みを浮かべた。

「いいのよ、あんな子。いつまでたっても役人から追われ続けていればいいんだわ。今までのつけがまわってきたんだから放っておきましょ」

「えっ」

 ぎょっとした顔になったクリスティーナに、ルイーザは笑い声をあげた。

「冗談よ。全く、いつか女に刺されるとは思っていたけど、男に殴られた上に今度はピオンボとはねえ」

 そのときゴンドラのスピードがゆっくりになった。屋敷に近づいてきたようだ。
 ルイーザが言った。

「それよりも、その外国から来た女性の行方が気になるわね。お兄様や役人が絡んでいるとなると、事は結構大きいのかもしれないわ。あの人については何も知らない。私はずっとお会いしていないの、ごめんなさいね」

「そうですか……」

 クリスティーナはやはりと頷いた。彼らの兄は謎が多い。一体何を考えているのだろうか。
 ルイーザが「それにしても」と言った。

「よく私に話してくれたわね。私がジュリオお兄様と組んでいたらどうするつもりだったの?」

 クリスティーナは肩をすくめた。

「その可能性も考えましたが、さっきのミサはご当主様と一緒にいらっしゃっていたようですし、マルチェロはルイーザ様のことを信頼されてらっしゃるようでしたので……」

 そう言われたのにルイーザはきょとんとしたが、すぐに口の端をあげて「そう」とだけ言った。
 ゴンドラが止まった。

「到着しました」

外から船頭の声がかかる。

 ルイーザが「ありがとう、ちょっとまって」と答えたとき、屋敷の方から「ルイーザが帰ったのか?」と使用人に尋ねている声が聞こえてきた。その途端、彼女の顔に緊張が走る。
 その表情にクリスティーナは、この声が彼女の兄のものであると察した。まずいわ、急いで逃げないと!
 しかしルイーザは降りようとしたクリスティーナの両肩に手を置くとフェルツェの椅子に座らせる。そしてひっそりとした声で言った。

「いい? このままゴンドラはギーシ邸の近くまで向かわせるわ。直接邸に向かってしまっては足がついてしまう可能性があるから、あくまで“近く”にするわよ。それからねーー」

 ルイーザは鞄から絹の巾着のような物をクリスティーナに差し出した。

「これを預けておくわ。マルチェロに渡してあげて……あの子、どうせ一文なしでしょ。ギーシ家の子に借金ばっかりさせるのもなんだしね。まあそれもおもしろいけど」

 受け取ったまま驚いた表情で見上げるクリスティーナに、ルイーザは涼しい笑みを浮かべた。

「ろくな弟じゃないけど、気が向いたら助けてあげて……安心して、私は厄介ごとは嫌いだから深入りはしないわ。お父様に伝えることは伝えておく」

 そのとき再び「ルイーザ!」と呼ぶ声が聞こえてきたので、「はい、今行きます」と返事をした。
 クリスティーナはフォスカリーニ家の令嬢から渡された財布を手にしたまま、「あ、ありがとうございます、ルイーザ様のご厚意、必ずマルチェロに伝えますわ」と早口で言う。
 ルイーザは服装を整えてフェルツェの扉を開けてから振り返った。

「いいのよ、そんなことより次にあなたと会ったときは、様はなしよ。ルイーザって呼んで。じゃあね」

 彼女はそう言うとゴンドラを降り、船頭に次の行き先を指示してくれているようだった。行き先はギーシ邸に近いサン・フェリーチェ広場のようだ。
 クリスティーナはふうと息を吐いた。なんだか想像していた貴族令嬢とは違ったわね。
 しかしクリスティーナの話は信用してくれたようだ。それに軽口を叩いていたがマルチェロの事は気にかけているようだ。そしてこの財布。

「素敵なお姉様」

 クリスティーナはぽつりと呟いて小さくなっていくフォスカリーニ邸を、フェルツェの窓から眺めた。

***************

 ギーシ邸にたどり着いたエドアルドとマルチェロは、ふうと息を吐いて仮面やバウタを外した。マルチェロは仮面の下に冷や汗をかいていたことに気づいた。

「お帰りなさいませ」

 よくできた召使いが帽子やタバッロなどを受け取ってくれる。エドアルドが「父上は?」と尋ねると、召使いは「今朝早く教会へ向かわれました。その後はサン・マルコへ行くとおっしゃっておられましたよ」と答えた。
 エドアルドはマルチェロと一瞬顔を見合わせて言った。

「そうか……客間にコーヒーを用意してくれ。たぶんもうすぐクリスティーナという名前の女性が来るから客間に案内してほしい……マルチェロ、俺はちょっと着替えてくるよ」

 ああ、私も自分の屋敷にいたらすぐに着替えるのに。
 マルチェロは羨ましげに友人を見送ってから案内された客間に入ると上等そうな長椅子に腰掛けた。まもなくして召使いが飲み物を持ってきた。
 マルチェロは先ほど起きた出来事に動揺していた気持ちを落ち着かせようとカップを口に運んだ。
 おいしい。昨日飲んでいなかっただけで、もう何年も口にしていなかったように感じた。おまけに緊張もほぐれている。コーヒーは素晴らしいな。

 ほどなくして着替えを終えたエドアルドが戻ってきた。さっぱりした表情をしている。どうせ新しい財布も懐に入れたのだろう。
 エドアルドはマルチェロの向かいに座り、同じようにコーヒーを飲んでから息を吐くと口を開いた。

「父上が行った場所がサン・マルコということは、宮殿かダンドロ邸だな」

「……日曜に宮殿は開かない。十中八九ダンドロ邸だろう」

「ということは、まだソフィアは見つかっていないのか。ああ、一体どこにいるんだ」

 絶望的な声を上げる友人を尻目に、マルチェロは再びカップに口をつけようとして「そういえば」と思い出したように言った。

「あの女、コーヒーは苦手だと言っていた。それにうちの邸で出した紅茶を知っていると。あの紅茶の輸入先は……」

 その時、扉がトントンと鳴った。

「クリスティーナ様がお見えになりました」

 エドアルドが「入ってくれ」と言うと扉が開かれ、緊張した顔のクリスティーナが入ってきた。
 エドアルドが立ち上がって「やあいらっしゃい」と笑顔で迎えると、彼女は少しほっとしたような表情になった。
 マルチェロは腰を上げずにちらと彼女を見上げる。屋敷に行けなかったので不貞腐れたような態度であったが、内心は彼女が自分の屋敷で何か情報を得ることはできたのか気になっていた。

 扉がパタリと閉まると、エドアルドが「座って。コーヒーは飲むかい?」と声をかけた。

「もらうわ、ありがとう」

 クリスティーナはエドアルドの隣の椅子に腰かけて、差し出されたコーヒーを飲むと、やはり落ち着いた顔になった。

「それで?」

 マルチェロがクリスティーナを睨むようにして言った。

「何か収穫はあったのか」

 そう言われて、クリスティーナは「マルチェロ」と言ってカップを置くと、目をきらきらさせてマルチェロを見た。

「あんたのお姉様、とっても素敵じゃないの!」

 マルチェロはぽかんとした表情を浮かべてから、眉を寄せた。

「あ、姉上? お前、姉上に会ったのか?」

 クリスティーナはうっとりとした目で頷いた。

「ええ! かっこ良くって、気が利いて、お優しくて、聡明な方。いかにもお姉様っていう雰囲気で、私もうぼうっとしちゃった……」

 エドアルドは「ええと」と口を挟む。

「確認するけど、お前の姉さんってあのルイーザ様だよな? まさかとは思うけど、十人委員会の連中と組んでたりは……」

「「まさか!」」

 マルチェロとクリスティーナが声を揃えて言った。

「あの姉上に限ってそれはあり得ない。第一そんなに大志を抱いているような女じゃない」

「まあ失礼な言い方。ルイーザ様は厄介ごとには関わりたくないだけじゃない」

「なんだお前、妙に姉上に肩入れするじゃないか。そもそもなんで姉上と話す機会があったんだ」

 マルチェロの問いに、クリスティーナは椅子に座り直した。

「ミサが終わった後、教会からあなたのお父様とお姉様が出てきたのを見つけたの。フォスカリーニ様は誰かのお屋敷に行くと言っていたわ。ルイーザ様は屋敷に帰るようだったから、彼女の乗ったゴンドラに飛び乗って話をしたの」

 エドアルドが目を瞬かせた。

「と、飛び乗って?」

「お前、また無茶を……!」

 マルチェロが眉を寄せたのに、クリスティーナは肩をすくめた。

「だってそうするしかなかったんだもの。それにルイーザ様は驚いていたけど、マルチェロの身に起こったことをよくよく聞いてくれたの。今回の件にお兄さんが関わっているかもしれないということもお話ししたわ。顔を曇らせてた……それからあんたのお父さんにこっそりお伝えしてほしいと頼んだの。このままじゃマルチェロはずっと日陰の身だから助けてくださいって」

「それで……姉上はなんと?」

「いつまでも役人に追われていればいいって言ってたわ。今までのつけがまわってきたって」

 マルチェロがむっとした表情を浮かべた一方で、エドアルドは「ぶっ」と吹き出した後で口に手を当てた。
 クリスティーナは続けた。

「でも口ではそう言っていたけど、心ではマルチェロをとても心配しているようだったわ。その証拠にほら」

 クリスティーナは向かいに座るマルチェロに緑色の絹の巾着を差し出した。マルチェロがきょとんとそれを見つめてから手に取る。

「これは?」

「ルイーザ様のお財布よ。いつまでもエドアルドに借金させるわけにはいかないって」

 マルチェロは目を丸くして、口を真一文字に結んだ。嬉しさと恥ずかしさを感じている顔だ。彼は無言であったが、大事そうに財布を懐に入れた。
 その様子にクリスティーナは小さく笑みを浮かべていたが、すっと真面目な顔になって続けた。

「実はゴンドラがお屋敷に着いたとき、フォスカリーニ邸にはマルチェロのお兄さんがいたの、きっと今もまだいるわ」

「なんだって!?」

 その言葉にエドアルドとマルチェロは驚きの声を上げた。

「お前、顔を見られたのか?」

「いいえ」

 クリスティーナは肩をすくめたのに、二人は揃ってほっと胸を撫で下ろした。

「ルイーザ様は私をゴンドラに乗せたまま逃してくれたの。きっと彼には私があの場にいたことも知られていないはず。でも彼がいる限り、ルイーザ様がフォスカリーニ様にすぐにお伝えするのは難しいと思うわ」

 確かに。だが、姉上が知っていればそのうち父にも伝わるだろう。なんらかの手は打ってくれるかもしれない。それよりも大きな問題がある。

「クリスティーナ、実はこちらにも良い知らせと悪い知らせがある」

「嫌な言い方ね、一体なんなの」

 マルチェロは咳払いをして言った。

「まず良い知らせだがーーまあ良い知らせかどうかはわからないが、赤胴色のタバッロの男が殺された」

「嘘っ!?」

 クリスティーナは驚きのあまり立ち上がった。

「ど、どうして? 誰によ!? ほんとうにその男なの!?」

 マルチェロは肩をすくめた。

「わからん。もちろん彼が私たちの警戒していた人物だったとは限らないが、とにかく私たちが歩いていたすぐ後ろで突然悲鳴が上がったから何事かと思ったら、奴が教会の前で倒れていた」

「歩いていたすぐ後ろで……? 妙ね」

 エドアルドが詳しく説明した。

「見たところ、どうも後ろから誰かに短剣で刺されたみたいだった。武器は落ちてなかった。本人も短剣を隠し持っていたようだけど、抵抗もできないくらい一瞬だったらしい。それに誰も犯人を見ていないんだ。逃げる後ろ姿もなかったから、俺は駆け寄った野次馬の中に紛れたんじゃないかと思うんだけど……」

「私は教会裏にある川のゴンドラに乗り込んだんじゃないかとふんでいる……まあ、とにかく座れ」

 クリスティーナはマルチェロに言われた通り椅子に座ったが、わけがわからないというように首を振った。

「で、でもどうして……? こんなカーニヴァルのときに、誰かに殺されるなんて……彼は何者なの」

「それだ」

 マルチェロは深刻そうな表情で言った。

「私たちはそもそもその男が何者だったかもよくわかっていなかった。私は彼が十人委員会に仕える秘密警察だとばかり思っていた……この地にすむヴェネツィアの住民だと。だが今朝、彼が持っていた短剣を見て、その考えが全くの間違いであったことがわかった」

 クリスティーナは「全くの間違い?」と眉を寄せた。マルチェロは頷くと声を潜めて言った。

「それが悪い知らせだ。奴が手に持っていた短剣には、ゆりの紋章があった」

「ゆりの紋章……えっ、う、嘘!?」

 クリスティーナは目を見開いた。マルチェロはこくりと頷いた。

「そうだ、見間違いじゃない。あれは確かにゆりの紋章……フランス王家の印だ」

 ゆりの紋章は、ゆりの花を断片を様式化した形をした権力者の用いる印で、昔からあちらこちらで使用されているが、今であればフランスの王族を象徴させるものだ。

「フランス……王家」

 クリスティーナの顔がみるみるうちに青ざめていく。

 それもそのはず、かの国では現在、革命が起きている。
 最初は民衆が暴動を起こしただけかと思われていた。しかし今では国王一家が幽閉され、逃げ遅れた貴族や役人がところかまわず惨殺されているという話は、この町でも有名であった。
 クリスティーナが自身を落ち着かせるように額に手を当てて言った。

「ちょ、ちょっとまって。それじゃあ殺された密偵は、フランス王家に携わる人間だったかもしれないということ……? そんな大それた人が日曜の朝、ヴェネツィアの公共の広場で刺されたっていうの!?」

「クリスティーナ、声が大きい」

 マルチェロの指摘に彼女は「あ、ごめんなさい」と言って口にに手を当てた。
 エドアルドが「俺が思うに」と唸るように言った。

「彼がフランス王家の人間だと決めつけるのは早合点だ。国王の顔を見たことがないような兵士だって紋章の入った短剣くらいは持ってるだろ?」

「だとしてもヴェネツィア人ではない可能性の方が高い。だからダンドロ様が目をつけていたのだ」

 マルチェロは苦い顔でそう言うと、カップに残っているぬるくなったコーヒーをぐっと飲み干した。

 クリスティーナは混乱した頭をどうにかすっきりさせようと思考したが、やはりわからないことだらけなので「きいてもいいかしら」と手を上げた。

「アンナ=ソフィアが何らかの事情を抱えた人物だったから例のフランス人の密偵が彼女を見張っていたのよね? 彼女とマルチェロを捕らえたのはこの国のお役人でしょう。そして密偵はおそらくマルチェロが捕われたことを知っていた……つまりお役人たちはフランス人の密偵と組んでいたということ?」

 マルチェロは自慢の表情を歪めた。

「わからない、だがそう考えてもおかしくない。十人委員会はすべてこの国のために動く。これまでも国を脅かす可能性があるものは一切排除してきた。それほどアンナ=ソフィアは要注意人物なんだろう」

「ダンドロのご主人はそれを知っていて、彼女を保護していたのね」

 クリスティーナの言葉にマルチェロは頷いた。

「彼女の外出にはいつも護衛をつけていたのかもしれない。だが、金曜の夜はダンドロ様を含めたヴェネツィア貴族の皆が宮殿に召集がかけられた。その間を見計らってアンナ=ソフィアは無断で屋敷を抜け出してきたから、そこを狙われたのだろう」

「……やっぱり行こう」

 エドアルドが勢いよく立ち上がった。

「ソフィアは俺と話をするために屋敷を抜け出して、捕われてしまったんだ。早く探してやらないと。きっと不安でいっぱいに違いない」

 マルチェロは目を瞬かせて言った。

「待つんだエド、これはお前一人にどうにかできる話じゃない」

「けど、死人が一人出ているんだぞ? しかも彼女を見張っていた人物だ……じっとしていられるわけがないだろう!」

 エドアルドは歯がゆそうに言った。今にも屋敷を飛び出しそうな彼に、クリスティーナは「エドアルド」と冷静な声で呼びかけた。

「私が言えた義理じゃないけど、下手に動けばマルチェロの二の舞よ。ピオンボに入れられるだけじゃなく、あなたが殺される可能性だってあるわ。それに、アンナ=ソフィアを捕らえたのは仮にもこの国の役人でしょう? 殺されるなんてことはないと思うわ」

 エドアルドは「で、でも彼女に危険が迫ってるかもしれないじゃないか」と言いながら拳をぎゅっと握った。
 クリスティーナは苦い顔で続けた。

「そうね……かといってやみくもに探しても時間の無駄だし、私たちの身も危ないわ。たぶん、ダンドロ様たちだって探してるのよ……私たちは今ここで目星をつける。作戦を立てるのよ。三人もいるんだから何かしら思いつくわ、さあ座って」

 クリスティーナがそう言うと、エドアルドはつらそうな顔をしていたが、小さく頷いて再び椅子に座った。
 
 こうして三人は考えに考えたが、良い案は浮かばなかった。
そのうちに召使いが気を利かせてパンの上に葉や肉、魚を乗せて持ってきてくれた。それらに合うように、飲み物はコーヒーではなく今度はワインと紅茶が運ばれてきた。
 マルチェロはおいしいワインを口にして『牢獄より、娼館より、やはり貴族の屋敷で出されるワインが一番だ』とひとりごちた。
 エドアルドがクリスティーナにもワインを勧めてくれたが、彼女は断った。

「ありがとう。苦手じゃないんだけど、飲んでしまうとちゃんと考えられないと思うから。私は紅茶にするわ」

 カップに注がれた紅茶の香りを嗅いで飲むその様子を、マルチェロは目の前でぼんやりと見ていたが、「そういえば」と思い出したように言った。

「アンナ=ソフィアはコーヒーは苦手で紅茶の方が好きだと、エドには言ったよな」

「聞いてない! 彼女の情報を隠してたなんて、まさかお前も彼女に……」

 エドアルドが口に手を当てて顔を青ざめさせたのに、マルチェロは「ばか、いいから聞け」と遮った。

「金曜日にアンナ=ソフィアがうちの屋敷へ来たとき、彼女は紅茶を飲んだ。そしてその香りを懐かしいと言ったのだ」

「懐かしい?」

 クリスティーナが眉を寄せて反復したのにマルチェロは頷いた。

「うちの屋敷は常に高級を取り揃えているが、彼女に出したものは――フランスの輸入品だ。それを彼女は言い当てた……彼女はフランス人かもしれない」

 エドアルドとクリスティーナは目を丸くさせた。
 マルチェロは言葉に出してみてしっくりくるのを感じた。そうだ。木曜の夜にカフェで話したとき、彼女はこの国には来たばかりと言っていたではないか。
 続けてクリスティーナは「そっか」と呟くように言った。

「水曜日にダンドロ邸のリドットで、八の間を覗いたときに見えた劇場のプリマドンナ……あのとき彼女が着ていた服は、ものすごく豪華な装飾品の付いたドレスだったって話はしたわね。あのときはお金持ちだからだって思ってたけど、ヴェルサイユにいた人だったら納得だわ。あんなのこの国じゃ総督夫人だって手に入らないもの」

「ま、待ってくれ。それじゃ彼女はなんだ、フランスの貴族だっていうのか? 何を目的としてこの国に来たっていうんだよ……」

 エドアルドが呟いた後三人は顔を見合わせた。
 豪華なドレスを着るような高貴な生まれのフランスが公にすることなく我が国に来ているーーその意味がわからないほど、三人とも無知ではなかった。彼らの頭には“亡命”の文字が浮かんでいた。

 そのときだ。

「それ以上の詮索は控えた方がよかろう」

 突然客間の扉が開いて、入ってきた男が言った。その人物に、マルチェロは思わず腰を上げた。

「ち、父上っ!?」

 マルチェロの父、ダニエレ・フォスカリーニが、灰色の眉を気難しげに寄せて三人を見ていた。仮面やバウタは身につけず、上等な帽子とタバッロを身につけている。
 彼は客間にずかずかと入ってきて仁王立ちした。彼の後ろにはこの屋敷の主人ーーエドアルドの父ウンベルト・ギーシも続いていた。彼は鷹のように鋭い目つきで息子を睨みつけたので、エドアルドはばつが悪そうに下を向いた。
 マルチェロは父親似ではなく母親似、エドアルドは父親似ね。ちらと二人の顔を見たクリスティーナはこっそり心の中で呟いた。

 マルチェロが慌てたように言った。

「一体いつからそこに……ダンドロ屋敷に居たのでは?」

 フォスカリーニ氏は息子が自分の行動を知っていることに不服そうな表情を浮かべて言った。

「とうに解散している。それよりもルイーザから話を聞いた」

 マルチェロは口を結んだ。私が役人に捕らわれ、ピオンボに入れられたことを言っているのだ。“父上がなんとおっしゃるか”と兄が軽蔑するように言った言葉が頭をよぎる。
 しかし、フォスカリーニ氏は言った。

「全く、ピオンボを抜け出すとは……とんでもない奴だ。よくもそんなことができたな」

 おや? マルチェロは目を瞬かせた。叱るというよりは、呆れたような口調だ。

「てっきり役人に捕まったことでお叱りを受けるものと思っておりましたが……」

 フォスカリーニは息子から目を逸らした。

「それはもういい」

「で、でもなぜ閉じ込められたのか、わからないのです。尋問をされることもなかったので……」

「お前が知る必要はないということだ。とにかく騒ぎが収まるまでここで身を潜めておれ。ギーシ邸の世話になるが、それに関してはウンベルトに了承してもらった。私が連絡をよこすまでは決してこの屋敷を出るな」

 フォスカリーニはあしらうように言って客間を去ろうとする。マルチェロは慌てて「お待ちください!」と声をあげた。

「私は巻き込まれたのです、知る権利はあるはず。一体何が起こっているのですか、騒ぎとは一体なんですか、ご存知なら教えてくださ……」

「お前が知る必要はない、二度も言わせるな」

 フォスカリーニはギロリと息子を睨みつけた。その言い方は有無を言わさず、マルチェロは口をつぐんだが、引かずに父親と対峙して睨み合った。
 しばらく沈黙が続いたが、やがて屋敷の主人ギーシ氏が咳ばらいをした。

「まあ……そういうことだ。マルチェロ君、この屋敷内であれば自由に過ごしてくれてかまわない。エドアルド、密偵まがいのことをするならお前も当分外出禁止にするぞ」

「えっ」

 不意に言われてエドアルドは目を丸くさせた。

「で、でも、俺は……」

 ギーシ氏は首を振った。

「お前の出る幕はない。諦めろ」

 エドアルドが「父上……」と泣きそうな声で呟いたが、ギーシ氏はもうフォスカリーニ氏を追って客間を出ていこうとした。

しかし、それと同時に女の声が響いた。

「アンナ=ソフィアは見つかりましたか」

 突然降ってきた名前に、二人の貴族は驚いたように振り返った。ずっと椅子に座ったままだったクリスティーナがすっと立ち上がって、彼らを見つめた。

「皆さんで必死に探していらっしゃるのは彼女なのでしょう。まさか見つからないふりをしているわけではありませんわよね」

 クリスティーナの挑発するような言い方に、マルチェロはぎょっとした。殺されはしないかと焦る気持ちで、マルチェロはおそるおそる父親の方を見る。
 しかしダニエレ・フォスカリーニは無表情のまま口を開いた。

「お前が知る必要はないことだ」

 鋭い視線を向けられているにもかかわらず、クリスティーナは「そうですわね」と涼し気な顔で肩をすくめた。

「人が一人居なくなっているのですから、落ち着いてなどいられませんわよね。大事なご子息を閉じ込めておかなければ、何が起こるかわかりませんもの……ああ、私のことはどうぞお気になさらず。もうでしゃばったりしませんわ、修道女のように静かに過ごしますので」

 クリスティーナの笑顔に、フォスカリーニ氏はふんと鼻を鳴らすと今度こそ客間を出ていった。

 客間の扉がパタリと閉まると同時に、残された若者三人は息を吐きながらゆるゆると椅子に座り込んだ。

「……驚いたな、まさかフォスカリーニ様がいらしていたとは」

 エドアルドが力が抜けたように両腕と両足をだらんとさせる。その向かいでマルチェロは両手を顔に当てて「全くだ」と同調した。

「しかも父上は私が牢にいた理由さえ知っておられるようだった……それなのに少しも情報を与えてくださらなかったということやはり只事ではあるまい」

 一体なんだ、あの頑なさは。何が起きているというのだ。

「それはそうと、クリスティーナ! 父上を刺激するとはどういうつもりだ、おかげで寿命が縮まった」

 クリスティーナは、長椅子に深く腰を沈めたままの体勢で、すっかり冷めた紅茶に口をつけてから「だって」と言った。

「やられっぱなしじゃ悔しいじゃない。何も話してくれないなら、何か聞き出してやろうって思ったの」

「ふん、その割に父上からは何も情報を得られなかったではないかないか」

 マルチェロがこばかにしたように言ったのに、クリスティーナはべっと舌を出した。

「あんたのお父さん、“お前が知る必要はない”が口ぐせなわけ? たった数分だけなのに三回は言ったわよ。それしか言葉を知らないんじゃない?」

「なっ……ばかにするな!」

 エドアルドが「まあまあ」と口を挟んだ。

「さっきの様子だと、父上たちはまた出かけるようだった。探しに出かけるってことだろう」

 クリスティーナは真面目な顔に戻ってきちんと座り直した。

「そうそう、エドのお父さんが言ったことが重要な手がかりになると思ったの。"お前の出る幕はない、諦めろ"だなんて、アンナ=ソフィアがただの歌手なら言わない台詞よ。やっぱり彼女は高貴な生まれの人なのよ、それもうんと上のね」

「そしてマルチェロの話からして、フランス人なのかもしれない。ソフィアはきっと…………亡命してきたんだ」

 エドアルドは悲痛そうな表情を浮かべた。その様子にマルチェロもいつものように皮肉を言う気にはなれなかった。
 噂では、向こうの国の都では民衆による暴動で王族が次々と不当な裁判にかけられていて、貴族は街中でなぶり殺しらしい。もしそれがほんとうだとしたら、なんと恐ろしいことだろう。

 クリスティーナが言った。

「この国の政府は、アンナ=ソフィアをどうするつもりかしら。守ろうとしてくれるならいいけど」

「いいや」

 マルチェロは首を振った。

「当局側から考えれば、彼女は我が国にとって火種となる。革命がこちらに飛び火しては大変だから、送り返そうとしているに違いない」

「えっそんな……それでは殺されてしまうじゃないのっ!」

 思わず声を荒げたクリスティーナに、マルチェロは眉を寄せた。

「私に言ったところで仕方ないだろう。わからん、今の総督は成り上がりだ、彼の考えは私にも想像つかないが、少なくとも頭の硬い委員会の連中は満場一致で共和国から亡命者を追い出すに決まっている……ダンドロ様の意図はわからないが」

 マルチェロがそこまで言うと、突然エドアルドががばっと立ち上がった。
 彼は二人に背を向けると「悪い……すぐ戻る」と鼻声で言うと、客間を飛び出していった。
 きっと彼女の行く末を思い、耐えきれなくなったのだろう。マルチェロは友人の後ろ姿に目を細めた。
 エドアルドが去り、残された二人の間にはしばらく沈黙が降りた。

 マルチェロは窓辺に目を向けた。窓から刺す光が強くなっている。もうじき夕暮れだ。晩鐘が鳴るだろう。
 昨日は牢獄に入っていたためか、マルチェロには夕焼けがばかに懐かしく感じた。一日をこうして日の光の下で過ごせるありがたさをしみじみと感じる一方で、アンナ=ソフィアは未だにどこかに閉じ込められているのかと思うと、さすがのマルチェロも同情心が芽生えた。

 ふいにクリスティーナが「ねえ、マルチェロ」と口を開いた。

「私、さっき自分で軽口を叩いて思ったんだけど……修道女であれば、静かにおとなしく過ごすわよね」

「は? 何が言いたい」

 マルチェロが意味がわからず顔をしかめると、クリスティーナは「ええと、つまりね」と考えをまとめるようにして言った。

「今まで私は、アンナ=ソフィアが連れていかれたのが牢獄ではないのなら、どこかの貴族のお屋敷にいると思っていたの。でもダンドロ屋敷を抜け出した彼女なら、じっとしてるなんてことはないはずだわ。きっと……もっとどこか違う、物理的に人の入りにくい、抜け出しにくいところなのかも。ピオンボじゃないなら、たとえばそう、慈善院とか、修道院なら……」

「修道院!」

 突然後ろから大きな声がしたので、マルチェロは肩をびくりとさせて振り向いた。
 エドアルドだった。彼はいつのまにか客間に戻って来ていた。彼の目は少し赤かったが、もう鼻声ではない。
 エドアルドは歩きながら言った。

「絶対そうだ! 修道院に違いない。慈善院の方は演奏会があるからいろんな人間が建物に入る機会がある。でも女子修道院ならダンドロ様や総督でさえ捜索は難しい」

 エドアルドの言う通り、俗世の人間は面会所以外に修道院の建物の中には入れない。修道士ですら入る手続きをするのにめんどうだと聞く。確かに女を隠すにはもってこいの場所だ。
 マルチェロは「だが」と言った。

「この国に女子修道院なんていくつもある。一つ一つ調べている間に彼女は国へ送り返されてしまうぞ。どうやって割り出す?」

「いや……たぶんあそこだ」

エドアルドは顎に手を当てて言った。

「今まで貴族の屋敷だと思っていたから考えもしなかったけど、女子修道院だとしたらサン・ザッカリアしかない」

「サン・ザッカリア……? 確かにサン・マルコから近いが」

「私はジュデッカだと思ったわ、あの島なら離れてるから捜索隊の目を気にせずに自由に船を出せるじゃない」

 クリスティーナがそう言うと、エドアルドは確信ありげに首を振った。

「いいや、サン・ザッカリアに違いない。あそこは修道院長に他のところより全ての決定権があるし、政庁の連中の息がかかった人間が毎回院長に選ばれてる。あそこ以上に十人委員会の勝手がきくところはないんだ。ジュデッカは政府から独立していて、独自のルールがある。政府の言いなりにはならないはずだ。それにサン・ザッカリアは貴族の家の女ばかりがいる修道院だ。庶民が大半を占める他の修道院に、彼女を入れるとは思えない」

 エドアルドの熱の入った説明に、マルチェロもクリスティーナも目を瞬かせた。

「……く、詳しいな、エド」

「もしかして、修道院に入ろうとした経験でもあるの?」

 クリスティーナの問いに、エドアルドは「あっいや……その」と口ごもってから頭をかいて言った。

「……妹が。妹が修道院に入るときに、俺もいろいろ調べたんだ。少しでもいいところがいいと思ってたからさ」

「妹さん?」

 クリスティーナは目をぱちくりさせ、マルチェロは眉を寄せた。

「お前に妹だと? 知らないぞ、なぜ私に紹介……」

「死んだんだ、ずっと前に。お前と知り合う前だ」

 エドアルドの無機質な声に遮られ、マルチェロは驚いて口を閉じた。友人のそんな話は初めて聞く。

「その、実はソフィアに面影がどことなく似ててさ。もし大きくなってたら、今頃はあんな風だったのかなって思って、それがきっかけで……」

 そこまで言ってから、エドアルドはしんみりしてしまったその空気を消すように「おっと、こんなことを話すつもりじゃなかったんだ」と、先ほどとは違う明るい声で言った。

「とにかく、ソフィアはサン・ザッカリアに居るとみて間違いないはずだ……問題はどうやってそこから彼女を助け出すかだ。さて、どうしようかな」

「お、おい待て、エド」

 マルチェロは友人の言葉に戸惑ったように言った。

「さっきギーシ様に“お前の出る幕はない、諦めろ”と言われたばかりだろう。出過ぎた真似はやめておけ。私も同じだ、これ以上この事に関わることは許されない」

「生憎と俺は父上に従う気はないんだ」

 エドアルドは苦笑いを浮かべた。

「このまま彼女が自国に追い返されるのを黙って見ていられるはずがない。俺は外出禁止になっても、勘当されても、牢に入れられてもいいと思ってる」

「は……!? なんだと、牢に入ったことがないからそんな事が言えるのだ。ひどいものだぞ、床は冷たいしベッドは木の箱、ワインは水で薄めているし、食事は食えたものじゃない。私は一日だってあんなところは……」

 マルチェロがつらつらと不満を並べたてたのに、エドアルドは「はははっ」と明るく笑った。

「わかってるよ、マルチェロ。わかってるんだ、自分がどうなるかってことくらい……それでも俺は彼女を助けたい」

「だがエド」

 マルチェロが苦い表情を浮かべたが、エドアルドは軽い笑みを浮かべたまま目を細めた。

「マルチェロ……俺はさ、祖国の将来よりも、一人の命を助けることを選びたいんだ。それが間違ってるとは思わない。だって人として当たり前のことじゃないか。そのためなら俺は喜んで身を捧げるよ。惚れた女だからって言われたら、その通りなんだけどな……でもきっと彼女は命からがらこの国に逃げてきたんだ。あの国に戻されるのをそのまま見てるなんてできない。たとえ彼女の心が俺になくても、助けることができるのなら、俺はなんだってする」

 そう言い切ったエドアルドは決意を込めた目をしていた。
 部屋は暗くなっていたが、最後の夕日の光が遠くから一筋差し込んでいた。それはまるで暗い闇の中で大きな星が、遥か遠くで燃えているような強い光だった。
 マルチェロは友人の真剣な顔を前にして、“やめておけ”とはもう言えなかった。それどころか、止めようとした自分がなぜかひどく恥ずかしく思えた。この男はいつのまにこんなに大きな人間になっていたのだろうか。

 エドアルドはマルチェロのなんとも言えない表情を見ていたが、「暗くなってきたな」と言って燭台に火を灯した。
 部屋がぱっと明るくなる。視界が広がって、マルチェロは少なからずほっとしている自分に気づいた。私は暗闇が怖くなったのだろうか。

「ねえ、エドアルド」

 ふいにクリスティーナが言った。

「私が修道女としてサン、ザッカリアに入るのはどうかしら。俗世を捨てたふりをして、アンナ=ソフィアを見つけ出すわ。それから彼女と一緒に修道院を抜け出してみせる」

「ばかだな」

 マルチェロは神聖な気持ちになっていたところを壊された気がして、呆れた声を出した。なんと浅はかな、突拍子もない考えだ。

「そんなに簡単にいくものか。お前のような女が入れるわけがない。お前には品のなさが滲み出ているのだぞ。その言葉遣いからおかしいと思われるに決まっている。リドットのように仮面をつけているわけではないからな。それにサン・ザッカリアのような修道院に入るにはある程度の寄進も必要だろう」

「きしん?」

 クリスティーナがきょとんとした表情を浮かべたのに、エドアルドは「寄付金のことだよ」と答えた。

「金は俺が用意できる……ドレスも調達できるよ。けどな、クリスティーナ。建物の中に入れたからと言って、自由にソフィアを探し回ることはできないと思うんだ。きっと建物の中の彼女の周りには見張りがいるに違いない。それも政府の派遣した兵士だったら君が一人で動くのには難しいかもな。接触する前に君が捕まっちまう」

 エドアルドの言葉に、クリスティーナは「あら……そうなのね」と残念そうに言った。

「でもそれじゃあ、どうしたらいいのかしら。明後日でカーニヴァルも最後よ。政府は四旬節に入る前の騒ぎに乗じて彼女を送り返すんじゃないかしら。あまり時間がないわ」

 エドアルドは「そうなんだよな」と眉を寄せた。

「たぶん、彼女が修道院から連れ出されてゴンドラに乗るときしか確実な狙い目はない。チャンスはその一度きりになるけどな」

「そうね。修道院の前か、運河で見張るしかないわ。できれば死角のないようにあちこちから見張りたいところだけど」

 クリスティーナはそう言ってマルチェロの方を見た。エドアルドも友人に視線を送る。明らかに二人だけでは力不足になるのだ。
 しかしマルチェロは顔をしかめて首を振った。

「やめろ、私はもう関わらないと決めた。父上に騒ぎが収まるまではだめだと言われている。私はもう絶対に、何も協力せんぞ」

 鼻を鳴らしてそう言ったマルチェロに、クリスティーナは「はいはい」とわざとらしく言った。

「確かにそうですわね、フォスカリーニ様からすれば、大事な大事なご子息が事件に巻き込まれるかもしれないと、気が気じゃありませんものね。どうぞ、このご友人のお屋敷で存分におくつろぎあそばせ。そのご友人は生きるか死ぬかの大勝負に挑んでいるのをどうか遠くから眺めていてくださいな」

「くっ、クリスティーナ! お前、そういう風に言えば私の気が変わるとでも思っているのか」

「あぁら、なに? ほんとうのことを言っただけじゃないの。それとも、もっとはっきり臆病な温室育ちと言ってあげた方がよかった?」

「なんだとっ!」

「まてまてまて、二人とも」

 エドアルドがクリスティーナとマルチェロの間に割って入る。

「いいんだよ、クリスティーナ。俺は別にマルチェロに協力してほしいわけじゃない、これは俺がやりたくてやろうとしてるんだ……マルチェロも俺のことは気にするな。屋敷の俺の物なら自由にしてくれていい。着替えもいくらでもあるからどれでも使ってくれよ。お前には世話になったからな」

 エドアルドは友人に微笑みかけた。それがまるで悟りを開いたような姿で、ひどくマルチェロの気に障った。なぜか無性に悔しくなったのだ。この見下ろされたような感覚はなんだ。
 マルチェロは拳を握り締め、勢いよく立ち上がった。

「着替えだと? お前の服をこの身に着けるなど屈辱以外のなにものでもないわっ! 全く、こんな家にいつまでもいられるか!」

 マルチェロは身を翻してダンダンと足音を立てながら「帰る!」と宣言して客間の扉をバンッと開けた。

「え、でもマルチェロ、あんたさっき、お父さんがこの屋敷にいろって……」

「私は父上の言いなりではない!」

 クリスティーナが言いかけたのをマルチェロは遮った。

「自分の屋敷に戻って何が悪い! いいか、私は決して、お前たちの協力などせんからな!」

 そうわめくと、マルチェロは二人を残して客間を出た。そして仮面と帽子、バウタとタバッロを着込んで足早にギーシ家を後にした。


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