【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 10. そして再び水曜日(最終話)
翌日からのヴェネツィアの町はすっかり静まり返っていた。長く続いたカーニヴァルが終わり、とうとう四旬節に入 ったのである。
広場での大道芸や見せ物小屋は解散し、劇場や賭博場のリドットはすべて閉館、昨日までの賑わいが嘘のようであった。
その粛然とした空間で、フランス貴族オランクール伯爵家の子息、リュシアン・アンリ・ドゥ・レヴィエスの葬儀がサン・ミケーレ島の教会でひっそりと行われた。
ダンドロの主人の横に立つソフィアは悲しげな表情をしていたが、兄の穏やかな顔をした遺体を見ることができたためか、それまでずっと張り詰めていたような顔の強張りが解けていた。
柩には例の紋章入りの短剣も納められ、彼の過去は土の中に埋められた。
ソフィア以外に葬儀に参列したのは、彼と暮らしていたダンドロ家の者たちとエドアルド、そしてクリスティーナだけであった。
マルチェロはというと、あのフォンダメンタ・ヌオヴェでの一件の後、高熱を出して寝込むことになったのである。
数日の間、熱に浮かされながらマルチェロはもしや自分はもう助からぬのではないか、思えば短い人生だったと憂えていた。遺言書を書こうと思ったが、身体は鉛のように重く、ベッドから出ることもできなかった。医者が何度も呼ばれ、その度にいくつか薬を飲まされ、朝も夜もひたすらに眠った。
そんな生活が数日続いたが、しかし一週間も経つと冗談のようにけろりと治った。
早朝から往診に来てくれた医者が「もう大丈夫でしょう」と言ったので、マルチェロは嬉しくてベッドから飛び出した。
召使いに手伝ってもらいながら寝巻きを脱ぎ、お気に入りのシャツに袖を通すと、自然と笑みが込み上げる。健康であるということは素晴らしいとつくづく感じた。
全快したことを朝一番に父に報告に行こうとしたが書斎は空っぽで、すでにどこかへ外出しているようだった。
仕方なく食堂に下りて朝ご飯を食べることにした。給仕がいれてくれた久しぶりのコーヒーを飲んで、マルチェロはほうっと息を吐いた。
「あら、元気そうじゃないの」
ふいに後ろから声をかけられて振り返ると、姉のルイーザだった。
彼女はすたすたと歩いてマルチェロの前の席に座った。すぐに給仕がコーヒーを持ってくる。
「おかげさまで熱も下がりました。姉上にもご迷惑をおかけしました……父上と兄上は?」
マルチェロの問いに、ルイーザはコーヒーをひと口飲んでから答えた。
「お父様は朝早く行かなきゃならないところがあるってゴンドラに乗っていったわ、お勤めかしらね。お兄様はーー知らない。あの人、あいかわらずなんにも教えてくれないんだもの。きっと仕事でもう当分うちには帰ってこないわよ……でも、あんたの心配はしてたわ。日曜くらいまではずっと屋敷にいたし、しょっちゅうあんたの様子を見にいってたから」
マルチェロは目を瞬かせた。兄上が私の心配を……! そういえば濡れねずみになっていた自分に上着をかけてくれたのだったなとマルチェロは先週の出来事を思い返し、そのことに小さく感動した。
「それで?」
ルイーザはカップを置くと、にやりとして狩るような目つきを弟に向けた。
「熱が出た原因はなんなの? あんたが運河に落ちたってことは聞いたんだけど、どうも飛び込んだって噂も小耳に挟んだのよね。真相が知りたいわ」
「……お答えする義務はありません」
「あるに決まってるでしょう。お父様もお兄様も話してくださらなかったのよ、あんたに直接聞けっておっしゃっていたわ。ねえ、一体何があったの?」
マルチェロは黙ったまま、とりすましたようにテーブルに置いてあるパンを小さくちぎって食べ始めた。
「あっそう、だんまりを決め込むわけね」
ルイーザは目を細めて言った。
「いいわ、勝手に考えるから。あんたが言いたがらないってことは何か恥ずかしいことだったのに違いないわ……そういえば、あんた泳ぎはできたの?」
「……」
「そうね、できるわけないわね。あ、わかったわ! あんたを恨んでいたお嬢さんに運河に突き落とされたんでしょう。それで溺れかけたところを、あのクリスティーナって女の子に助けられたんだわ。大当たりでしょう」
「……違います」
実は後半は当たっているのだが、マルチェロは姉には口が裂けても真実を言うつもりはなかった。
「まあこれを機に、あんたも女性に対する態度を改めることね。普段から敬意を示すように心がければ、運河に突き落とされることもないんだから」
「ですから姉上、私は突き落とされたわけでは……」
「ああそうだったわね。突き落とされただけじゃなくて、殴られたり牢に入れられたりもしたんだからもっと注意しないと。それにしてもあんた、今年のカーニヴァルはいろいろあったのによく生きてたわねえ」
「……姉上はいい加減に私の話をまともに聞いてください。お願いですから」
マルチェロが眉間に皺を寄せてそう言ったとき、食堂の外で誰かが話している声がした。来客だろうか。
足音は軽く駆けるようで、タッタッタッとまっすぐ食堂に向かってくる。
「よお、マルチェロ! 下で聞いたんだけど、熱が下がったんだって?」
入ってきたのは一週間ぶりに会うエドアルド・ギーシであった。彼は片手をマルチェロの肩に置き、友人の顔をじろじろと見た。
「なんだ、元気そうじゃないか。心配して損したな……おっと失礼、ルイーザ様。おはようございます、今朝もご機嫌うるわしいようで」
「ごきげんよう、ギーシ家の若君。ちょうど良いところにいらっしゃったわね」
かしこまって頭を下げたエドアルドに、ルイーザはにこやかに挨拶を返してから言った。
「先週マルチェロがどうして運河の中に落ちたのか、どうしても言おうとしないの。あなた、ご存知だったら教えてくださらない?」
「姉上、唐突すぎますよ。彼は客人です、まだここに来た要件も聞いていないというのに」
マルチェロが非難するような目を姉に向けたが、エドアルドの方はきょとんとした表情を浮かべた。
「あれルイーザ様、聞いてなかったんですか? もちろんいくらでもお答えしますよ、こいつが自分から冷たい運河に飛び込んだ理由はですねえ……」
「まっ、自分から飛び込んだんですって?」
「こ、こら、ばかっ! 誰にも言うなと約束しただろ!」
マルチェロは慌てたように椅子から立ち上がると友人の口を塞いだ。エドアルドと姉を同じ空間に居させるわけにはいかない。互いに何を話し出すかわかったものではないのだ。
マルチェロは「失礼いたします姉上」と言うと、エドアルドを追い立てるように食堂の外に押し出す。
後ろから姉が「ちょっともう、なによ! 絶対に突き止めてやるから!」と悔しそうに言った声を聞き流して、マルチェロは友人をポルテゴに引っ張り出した。
「まったく、油断も隙もない」
マルチェロが怒ったように腰に手を当ててエドアルドを睨みつけたが、彼はにたにたと笑いながら答えた。
「へへっ別にいいじゃないか、隠すことじゃないだろ。弟が熱出したんだぞ、姉として理由が気になるのは当然さ。心配してくれてありがたいことだ」
「姉上の場合は心配などではない、からかいの種を探りたいだけだ……それで、朝から何の用だ。ただのご機嫌伺いだけではあるまい」
エドアルドは「あっそうだった!」と思い出したように声を上げると、せきたてるように言った。
「マルチェロ、今すぐ帽子を取ってこい。これから行くところがあるんだ、お前にも一緒に来てほしくてさ……彼女の初舞台なんだ」
四旬節の間、劇場や賭博場は例外なくすべて閉ざされていたが、唯一開かれている扉があったーー慈善院である。
ヴェネツィア共和国には四つの慈善院が機能しているが、そのどれもが四旬節を主として頻繁に音楽会を開いていた。音楽会といっても慈善院は教会を母体としているので、ほとんどが聖歌である。政府公認の慈善院では、女性の子どもから老人まで幅広く音楽教育が行われていた。
エドアルドに連れられて、マルチェロはメンディカンティ慈善院にやってきた。
運河沿いには、客である貴族たちが乗ってきたのであろう自家用のゴンドラがずらりと並んでいた。
マルチェロとエドアルドは途中でゴンドラを拾って乗ってきたので、船頭に支払いをしなければならなかった。友人が払っているのをマルチェロが横から見ていると、「あれ、旦那じゃねえですか、熱はもう下がったんですねえ」と耳に聞き慣れた声がした。
振り返ると、いつもの船頭だった。岸辺に立つ棒杭にゴンドラのロープをくくりつけている。
「なぜお前がここにいる」
マルチェロは目を瞬かせたのに、船頭はにっと笑った。
「大旦那ですよ。今朝方早くからこちらにいらしてますが、どうやら親子で同じ場所にいらっしゃったようですねえ」
父上が? 朝早くに出かけられたと姉上が言っていたが、こちらにいらしているというのか。しかし慈善院の音楽会に参加するような方であっただろうか。
「ダンドロ様がいるからだろ」
エドアルドが言った。
「葬式のとき、少しだけ話を伺ったーー短い間だけど、あのお方にとっては娘みたいな存在だったみたいでさ。彼女が以前と同じようにダンドロ邸で暮らすんじゃなくメンディカンティに入ると決めたことをお聞きになったときは、珍しく悲しそうな顔をされていた……もう気軽には会えないんだって」
エドアルドの言葉の語尾は、ダンドロ氏に共感するかのようにずいぶんと寂しそうに響いた。
あのフォンダメンタ・ヌオヴェでの一件の後、マルチェロとエドアルド、そしてソフィアは聖アントニウス教会にいるクリスティーナと落ち合い、今後の相談をした。
ソフィアは死んだ身であり、その存在は公にしてはならなかった。公の場に姿を現すことなく、そして客に顔を晒すことなく歌を歌える場所。それを考慮して若者たちが思い立ったところが、このメンディカンティ慈善院だったのである。
マルチェロはがっくりしている友人の肩をぽんと叩くと、力強く言った。
「生きているということが素晴らしいことなのだぞ。ソフィア嬢は今きっと幸せだ、堂々と歌うことができる……お前のおかげでな。お前が彼女を助けたいと思ったから、今の彼女があるのだ」
マルチェロの言葉に、エドアルドは目を細めて俯き「そうだよな」と呟くように言った後、顔を上げて天を仰いだ。乾いた空気を吸ってから、再び隣に立つ友人に笑顔を向けて「そうだよな!」ともう一度言った。それはもう、いつものエドアルドだった。
「さてと! こんなところで話してる場合じゃない。中に入ろう、そろそろ合唱が始まる……たぶんクリスティーナはもう先に入ってるぞ」
「は!? ク、クリスティーナ!?」
エドアルドが言った名前に、マルチェロは思わず足を止めて顔を引き攣らせた。
「な、なぜあの女が来ている!?」
「なぜって、ソフィアがぜひ来てくれって言ったからだろ。何をそんなにびくついてるんだよ」
「び、びくついてなどいない! だが、まさか…………うぅむ、いいだろう、私が逃げることではない。私には恥じることは何もないのだ、そうだ!」
自分に言い聞かせるようにして納得したマルチェロに、エドアルドは微妙な視線を向けた。
「ほんと、よくわからない奴だよお前は……うわ、鐘が鳴っちまった! いそげ!」
カランカランと三時課を知らせる鐘が鳴り始め、マルチェロとエドアルドはメンディカンティ慈善院に飛び込んだ。
慈善院の中は、人のざわめく声が響いて聞こえた。会堂に入ると椅子がずらりと並べられており、ほとんどの席が埋まっているようだった。舞台である二階の格子の向こうには、まだ奏者たちは出てきていないようだった。
エドアルドが「ええと、クリスティーナは……あっあそこだ」と呟くと客たちの座る席の中へと入っていく。マルチェロもそれに従った。
舞台に向かってほぼ真ん中の席に、クリスティーナは座っていた。カーニヴァルの時とは違い、質素な黒いドレスに身を包んでいる。
真冬の冷たい水の中を泳いだというのに、クリスティーナはマルチェロのように熱を出したりなどはせず、今日も元気いっぱいのようで、こちらを見るとにっと笑みを浮かべた。そして自分の両隣の空席の椅子の上に置いていた衣服や帽子を取る。どうやら二人のために席を取っておいてくれたらしい。
「やっと来たわね二人とも」
エドアルドがクリスティーナの向こうに座ってしまったので、必然的にマルチェロは手前のクリスティーナの横に座らなければならなかった。
エドアルドが帽子に手を添えて言った。
「すまないな、クリスティーナ。良い席をありがとう」
「ずいぶんギリギリだったじゃないの。マルチェロがごねたの?」
「なっ……! 私を子ども扱いするな!」
マルチェロが思わず声を荒げたのに、クリスティーナは「ちょっと静かに」とたしなめるように言った。
「大きな声は厳禁よ、ここは神聖な空間なんだから……右側の前の座席を見てみなさいよ」
マルチェロは不満げにクリスティーナを睨んでから言われた方を見て、あっと目を見張った。
そこの席に腰を下ろしていたのは、父ダニエレ・フォスカリーニだった。隣にはダンドロの主人が座っている。船頭が言っていたことはほんとうだったらしい。
フォスカリーニ氏はすぐにマルチェロの視線に気づくと、少しの間息子と目を合わせた。マルチェロはどきりとして小さく頭を下げる。元気になりました、と伝わっただろうか。
フォスカリーニ氏はじっと息子を見ていたが、やがて再び隣のダンドロ氏と話し始め、もうこちらを振り返ることはなかった。
マルチェロは緊張を解いたようにふうと息を漏らす。
クリスティーナは小声でくすりと笑いながら「あんたが寝込んでる間に、私、あの二人から呼び出されたのよ」と言った。
「何かと思ったら“今回の尽力に感謝する”ですって。びっくりして腰を抜かすところだったわ」
そして彼女の向こう側からエドアルドが「しかもさ」とマルチェロの方に顔を出した。
「褒美として金が積まれたんだぜ。フォスカリーニ氏はマルチェロの命を助けたこと、ダンドロ氏からはソフィアの一件のことで感謝を込めてってさ。だけど、クリスティーナは一銭も受け取らなかったんだ」
マルチェロは変なものを見るようにクリスティーナを見た。
彼女は肩をすくめた。
「だってほら、例の真珠のついた帽子が海に沈んだことをソフィア様に伝えたら、それならって別の真珠をくれたでしょう。すごく大きな物で、たぶんヴェルサイユで付けてたものだったと思うの。さすがにあれ以上もらったらばちが当たるかなって」
「ばかだなお前は」
マルチェロが呆れたように言った。
「お二人からいただいたその金で娼婦から足を洗うことだってできたんだぞ。考えつかなかったのか?」
クリスティーナはきょとんとしてから、ふっと笑みを浮かべた。
「言ったでしょう、私はこの仕事を自分で選んだんだってば。食事もある、寝床もある、文字を教えてくれる姐さんたちもいる。今の暮らしが快適なのよ。それにお金だって、あの二人から一生分もらえるわけでもないし」
“今の暮らしが快適”だと? 道ゆく人から蔑まれ、下卑た視線を送られ、いつ病気にかかるかもわからない仕事が?
隣で快活に笑っているクリスティーナの言うことが、マルチェロには理解できなかった。
そのとき、周りのざわめきがやんだ。二階に演奏者の少女たちが入場してきたのだ。
二階には金箔の貼られた格子が設置されていて、彼女たちの顔はそのわずかな間からしか見えなかった。
楽長が現れると、演奏と聖楽が始まった。それは長い長いオラトリオで、神々しい音楽が会堂いっぱいに響き渡った。
後ろの方から「天使だ」「まるで天国にいるよう」という囁きが聞こえてきたが、マルチェロもそれには頷いた。そこには劇場にはない荘厳さと、神聖さがあった。
時折り聞こえる飛び抜けて透き通るような美しい歌声に、マルチェロは覚えがあった。それは誰かを追悼するような祈りにも聞こえたし、歌を歌えることの喜びを噛み締めているようにも聞こえた。
ああ、きっともう大丈夫だろう。彼女はここで、天使のうちの一人として生きていくのだ。そのことに意義も幸せも見出していける。マルチェロはそう思った。
演奏が終わり、マルチェロはクリスティーナの向こう側に座る友人の方を見てぎょっとした。エドアルドは顔をぐちゃぐちゃにして泣いていたのだ。
クリスティーナが彼の肩を優しく叩いて「よかったわね」と言っているのが聞こえる。エドアルドはそれに対してただこくこくと頷いて嗚咽を漏らしているようだった。
世話の焼ける男だ。マルチェロは上着からハンカチを取り出すと、身を乗り出してエドアルドの手に持たせた。
演奏者の少女たちが二階の舞台から去り、その後に客たちが感想を言い合いながら会堂を出ていくのをマルチェロは見送っていた。しかしいつまでもここにいるわけにも行かない。椅子の片付けのために会堂に入って来た中年の女が、“まだいたのか”という表情でこちらを見たので、マルチェロは席を立って友人のそばに寄ると「エド、ほら行くぞ」と声をかけた。
エドアルドはぐすぐすと鼻を鳴らしていたが「う、うん」と言ってようやく立ち上がってくれた。
メンディカンティ慈善院の外に出ると、マルチェロは辺りを見回した。客たちも解散しており、先ほどまで運河に並んでいたゴンドラは、もう一艘も残っていなかった。うちの船頭の姿もない。父上ももうお帰りになったようだな。
エドアルドはあいかわらずマルチェロの渡したハンカチを顔に当てたままだったので、三人はしばらくメンディカンティ慈善院の前の運河沿いの道をそのまま歩き、やがて広場に出た。
教会前の小さな広場は閑散としており、時折り修道士や物乞いが通るだけで、ツグミがギィギィと鳴く声が響いていた。
エドアルドは教会前の橋の石段に腰かけると、ようやく涙を拭って顔を上げた。
「……悪かった。彼女の声を聞けたのがほんとうに嬉しくてさ……これが彼女の望んだことなんだもんな」
エドアルドの隣に腰かけたクリスティーナは彼の背中を撫でながら言った。
「ええ、そうよ。あんなに幸せそうだったじゃない。素晴らしい歌だったわ」
マルチェロは彼らのように石段に座ろうとはせず、二人の向かいに立ったまま腕を組んだ。
「私も劇場の舞台よりあそこの方がよほど彼女に合っていると思った。それに……メンディカンティのように閉ざされた環境であれば、かの国の使者からも恐れることはない」
ソフィアに慈善院を勧めたのは、それが主な理由であった。あの施設の住人はカーニヴァルのときでさえもほとんど外出が許されない。話題となった聖楽隊のメンバーが歌手として慈善院を出ることはあったがそれは滅多にないことで、とにかく死んだ身である彼女がひっそり住まうには最適な場所であった。
「最初から届かない人だってことはわかってたんだ」
エドアルドは呟くように言い、少し黙ってから「でもさ」と俯いた。
「欲を言うと、ときどきでいいからまた歌を聞きに来たいんだ……父上はお許しにならないかもしれないけど」
鼻声で小さく願いを述べた友人に、マルチェロは堂々と言った。
「そんなことはないだろう。慈善院に歌を聞きにいく、それの何が悪い。私も一緒に行ってやるから、そのときは誘え」
そう言ったマルチェロの言葉に、エドアルドとクリスティーナは同時に「えっ」と顔を上げて彼を凝視した。
「なんだ、二人とも」
「い、いや……お前がそんなことを言うなんて」
「意外ね。あ、もしかしてまだ熱があるんじゃ……」
エドアルドとクリスティーナがそう言ったのに、マルチェロは「なっ、失礼な奴らだな!」とそっぽを向いてしまった。
エドアルドはへへっと笑って「悪い悪い」と立ち上がると、タタッと友人に駆け寄って背中を叩いた。
「ありがとう、マルチェロ。ほんとうに感謝してるんだぜ、今回のこと。やっぱり持つべきものは友人だな」
どうやらいつもの陽気な笑顔を取り戻したらしい友人に、マルチェロは少し安堵してから鼻を鳴らした。
「……ふん、私がお前の友人であることをせいぜい誇りに思え」
友人の高飛車な言い方に、エドアルドは軽く笑い声を上げてから「ところで」と少し声を小さくして言った。
「お前、クリスティーナのことはどうするんだ」
「どうするとは、なんのことだ」
マルチェロが眉を寄せると、エドアルドは後ろに座っている本人に聞こえないようにひそひそと言った。
「彼女には命を救われたんだろ、何の礼もしないのか?」
「何を言う、私は彼女を救うために飛び込んだのだぞ。礼を言われるのはむしろ私の方だ」
エドアルドは「マルチェロ、お前なあ」とため息を吐いた。
「彼女がいなかったら、お前はただの間抜けな死体になって今頃墓の中だったんだぞ……それくらい大ごとだったんだ。身請けくらい考えたらどうだ」
「みっ……! ばかな、この私がそんなことをするものか! それにあれは父上やダンドロ様の報酬は受け取らなかったのだ、今更何も望むまい」
「それはあの権力者のお二人だからだろ。マルチェロからの礼だったら素直になんでも受け取るかもしれないじゃないか……じゃあ、仮にだぞ、もし俺が今夜彼女を買うって言ったらどうだ、お前は何とも思わないのか……」
そのとき「ちょっと」と後ろから声がかかった。振り向くと、クリスティーナが仏頂面でこちらを睨んでいる。
「さっきから何をこそこそと言い争ってるのよ。仲間はずれにするなら、私はもう帰るわ」
そう言ってクリスティーナがむくれたように立ち上がったのに、エドアルドは「わわっ」と慌てて彼女の前に駆け寄った。
「ま、待ってくれよ、クリスティーナ! 二人だけで話して悪かった、その……マルチェロが君に話があるらしいぜ」
「おい、エド!」
「なんだよ、言うべきことは言っといたほうがいいだろ。俺は席を外そうか?」
「余計な気を回さんでいい!」
マルチェロは顔を歪めた。友人の言いなりになるのは癪だが、確かに自分はまだクリスティーナに助けてもらった礼を言っていなかった。あの父上でさえ彼女に感謝の意を伝えたのだ、私もそれには従わなければならない。
「話って何よ」
クリスティーナは少し苛立ったままだったが、マルチェロの方を向いてくれた。
マルチェロは眉を寄せながら三回咳払いをした後に、「その」と「あの」を繰り返しながらようやく次のように言った。
「あのときは…………助けてくれて感謝している。ありがとう」
恐ろしく短い言葉であったのにマルチェロは息切れしていた。
エドアルドの生温かい視線を後ろから感じる。仕方ないだろう、下賤の者に礼を言うことに慣れていないのだ。
クリスティーナはマルチェロの感謝の言葉に目をぱちくりさせていたが、くすりと笑い声を上げた。
「どういたしまして。こちらこそ私を助けようとしてくれてありがとう。とても嬉しかったわ」
マルチェロは目を見開いた。泳げないくせにと笑われると思っていたのに。
思いがけない素直な返答に、マルチェロは命からがら水の中から這い出たあのときのことを思い出した。同時に「それで」と続きの言葉が口をついて出る。
「も、もしお前さえよければ……みみ、み、身請けしてやらんこともない。お前の言う条件通り、食事も寝床も与えてやるし、読み書きだって教えてやる……ど、どうだ」
今度はクリスティーナが目を大きく見開いた。ああなるほど、二人でこそこそ話していたのはこのことだったのね。
目の前に立つマルチェロは顔を思い切り歪めているが、どうやら冗談を言っているわけではないらしい。それならば、こちらも少しは真剣に考えなければならないのではないかしら。
クリスティーナは少し思案してから、真面目な顔をマルチェロに向けた。
「身請けしてくれたとしてーー私はどんな立場になるのかしら。あなたの愛人? 内縁の妻? それとも……」
「し、使用人に決まっているだろう! それ以外などありえん。次男とはいえ私は貴族、お前は庶民なのだぞ」
マルチェロが大声でそう言ったのに、クリスティーナはにっこりと笑みを浮かべた。
「……でしょうね。それじゃあこの話はお断りということで」
「なにっ」
「マルチェロはやっぱりマルチェロね。使用人はお断りだけど、まあ友達くらいにはなってあげてもいいわ……ねえエドアルド、ランパーネ邸の女将に許可をもらえたら、私も音楽会に参加してもいいでしょう」
クリスティーナがそう言うと、エドアルドは微笑んで頷いた。
「もちろんさ。成長しないマルチェロと違って、俺とはもうとっくに友達だろ、クリスティーナ」
「ふふっそうよね!」
二人が笑い合っているのを、マルチェロは眉を寄せながら割って入った。
「お、おい! なんだ、二人してわかったような口をきいて! 断る意味がわからない、使用人の何が悪い?」
クリスティーナは「あら、何も悪くないわよ」と肩をすくめ、エドアルドがへへっと笑いながら言った。
「お前は人の気持ちというのをもう少し考えるようになった方がいいな……あっそうだ、マルチェロ。言い忘れてたけど、ロレンツォのやつ、復活祭の後に結婚するらしいぞ。あいつ一昨日の夜、自慢をしにわざわざうちに来たんだぜ」
「な、なんだと!」
マルチェロは目をむき、悔しそうにギリ、と歯を噛み締めた。
「あのロレンツォが……くっ」
それを見ながらクリスティーナがエドアルドに「ロレンツォって?」と聞くと、「俺たちの顔見知りで、カーニヴァル期間の間にジュデッカの修道女と良い仲になった男さ」と細かに答えてくれた。
クリスティーナはニマニマと笑みを浮かべた。
「あらあら、それならマルチェロものんびりしていられないじゃない。せいぜい条件に見合うヴェネツィア貴族のご令嬢を見つけることね……来年が楽しみだわ。今年よりはましなカーニヴァルになるといいわね」
「い、言われずともそうする! 見ているがいい、とびきり良い条件のパートナーを見つけ出すぞ、来年は必ずだ。お前たちが腰を抜かすほど良いカーニヴァルにしてみせる。せいぜい陰でこそこそ笑っていろ」
マルチェロは鼻息荒く宣言して身を翻すと、笑っている二人を背にしてずんずんと歩き出した。
「ま、待てよ、マルチェロ! どこ行くんだ」
「笑って悪かったわ、怒らないで」
慌てて追いかけてくる二人に、マルチェロは少しだけ気を良くして「怒ってなどいない」と言って立ち止まった。
「これからサン・ミケーレ島に行く……私は葬儀には出られなかったからな。お前たちも一緒に来るがいい、案内役を引き受けさせてやる」
エドアルドとクリスティーナは顔を見合わせると、笑い声を上げた。
「はいはい、喜んで俺たちもお供させていただきますよ」
「一緒に行ってあげないと、マルチェロは一人でお墓は怖いものね」
「なんだとっ」
「まあまあ、ほんとのことなんだから」
「エド!」
四旬節に入りすっかり静かになったヴェネツィアの町では、苦労のカーニヴァルを過ごした若者たちの楽しそうな声が、あちこちに流れる運河にいつまでもこだましていた。
おしまい
これで終わりです。読みにくい点、またベタな展開(?)も多かったと思いますが、少しでもお楽しみいただけたのであれば幸いです。
マルチェロ・フォスカリーニは、旧体制を維持するヴェネツィア共和国を象徴させる姿として描きました。
1797年の5月、ナポレオン率いるフランスの進軍によりヴェネツィア共和国は崩壊します。オーストリアの支配下になるまでのわずかな期間、ヴェネツィア貴族の位は剥奪されたようです。物語はこの数年前を舞台としていますが、マルチェロがこの時をどのようにして迎えたのでしょうね。
物語の途中で登場した「ゴンドラの金髪娘」は、アントニオ・マリア・ランベルティという人物によって1788年に作詞されたいわゆる舟唄で、多くの人に親しまれています。
最後までお読みいただき、ほんとうにありがとうございました。
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