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"書く”と"話す”

わたしは文章がとても好きでこだわりもある。自分の好みな言葉の紡ぎ方をしている方の文章を読むと、とてつもなく素敵だなあ、と惚れ惚れします。
なのだけど、いざ自分が文章を書くとなるときっとそれは自分には向いていないのだろうなあとおもう。
たくさんある言葉の中から一体どの言葉を使って表現するのか、どのような文章を使うのか、語尾はどうするのか、漢字で書くのかあえてひらがなにするのか、どこまでその文に修飾をするのか、句読点はつけるのか、
きっとこだわりが強いからこそそんな細かなことをぐるぐると考えてしまって、完璧な文章にしなければいけない、もっと素敵な文章にできるはずだ、と気軽に文章を書けなくなってしまいがちなのです。その文章自体の内容というよりも、構成や見た目、雰囲気などを深ぼってしまうから、いつも何か文章を書くときはあんまりその内容に納得せず、もっと深く追求できるはずなのにな、と思ってしまう。
(文章は編集も簡単にできてしまうことが原因の一つなのだとも思う。)

だから、わたしにとっては"話す"という方法が一番向いているのだとおもう。わたしにとって、自分の中のものを文章で説明するのと言葉で説明するのはかなり難易度もクオリティも異なる。わたしが"話す"ときは、自分の中にある抽象的なもやもやとしたものを言語というものに当てはめていく、言うなればパズルのようなものです。だから、言語化していくプロセスの中で、そのもやもやとしたものがカチッととはまる、言葉という枠が見つかる瞬間は、自分の心の中の形のない何かがくっきりと現れてくれる瞬間で、ああ何かが繋がったな、としっくりとくる。この感覚がすごく好きだから、哲学に関する話とか、なにかとても深い話を友達とするのも好き。

わたしにとって、"話す"ということはただ単に、
自分の中にすでに存在している考えを言語化する、という手段なだけでなく、さらに自分が気づいていないどこか深いところに存在する思考の繋がりであったり、何かのヒントになるような新たな発見に気づくことのできる手段でもあります。なので、話すことで生まれる結果というよりも、そこまでの言語化する過程が一番重要だったりもする。

だから、本当は Note はあんまりわたしには向いていないのだとおもう。たぶん。笑

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