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【小説】『一人巣窟』2/6

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(6回中1回目:約2200文字)


 次の機会も前と変わらず、奥の扉から現れ出て来た。
「先日は失礼を、致しましたな」
「いえ。こちらこそ、無礼な言い方をしてしまったものと」
「いやいや」
 前と変わらずゆっくりと、目を見合わせてから腰を下ろし、まずは穏やかそうな笑みを浮かべてくる。
「時々あがん、なるとです。周りの物の、ぼんやりかすんで見えてきて、あぁしゃべりかけられておるな、あぁ帰って行ってしもうたなと、頭の隅では分かっておるとですが、あがんなっとる間には口も身も固まってしもうて全く、動きません。誰かに手ば取ってもらえたなら、立ち上がって、口は動かんまま足だけは歩み出して行けるとですが、こちらの側にもそがんまでの、奇特な者はおりませんからな。時間の許す限りはここに、放っておかれます」
「この頃、お年を召してからですか」
「いや」
 うつむいた眉間に当てた指先で、左右の眉を押すようになぞっていく。
「こん癖はまだ、若か時から」
 右の眉の端まで来たらまた、眉間から左に。
「ばってん年の行くごとに、徐々に時間の長なっていきましたな」
 実際にはその癖は、幾度となく繰り返されその度に、会話は中断されていたのだが、次に訪ねた時は中断されたその続きから、話が始められた。向こうの口から出る文章が、まだ終わり切っていないうちに癖が現れる事も無かった。という事は、
 常日頃から変わりなく、こちら側の、言葉や反応に紛らされる事も無く、終始同じ考えを持ち続けていたのだろう。
「カナヤ」
 ふっと上げてしまった目線を、
「カナヤと呼んでいた者も、おりましたよ。家の内には」
 笑みを向けられてまた下げた。
「いや。どうか、お気を悪くされんで下さい。ハエの湧くごとあまた数おった中の、たった一人ですけん」
「何も。気を悪くしてなど」
「よっと目端の利いて、可愛らしか者でしたけんど、何ぶんまだ子供で、大した仕事も任し切らん。家の奥で、犬の相手なっとさせながら暮らさせておりましたけんど」
「犬?」
 手元の手帳を数ページ前まで、めくり返すフリをした。
「動物を飼っていたという話は……、貴方の周りからは……」
「いやお恥ずかしい。道楽で飼い始めたようなものでしてな。家の者にもほとんど、見せてはおりません」
 頭を掻くように上げかけた手を、下ろして椅子に深くもたれ直す。
「ツカサと、呼んでいましてな」
 今初めて聞く名前のように、手帳には書き込んでみせた。
「犬ごときにツカサて、大層な名ば付けるて笑われるごたっですけど、私が付けた名でもなか。引き取って育て出した時にはもう、そがん呼んでやらんば生意気に、返事もせんかったもんですけん」
「字は、どのような?」
「カナ文字ですよ。そがん、漢字まで選り出して付けんでしょう。畜生相手に」
 あえて不快に聞こえる言い方を、選んでいる事は分かっている。
「人も言うなれば畜生の、一種ですけどね」
「犬は、お好きですかな。私は飼うてみるまでは、全く」
「すると飼ってみたら情が移りましたか」
「ええまぁ。そがんまでにもならんじゃろて、初めんうちは思いよったもんの、まぁよぉ私になついて、しつけられてくれました。私の帰りばただひたすらに、待ち続けて、部屋に帰るなり寄り付いて来る。誰も食わんごたるひどか飯でも、私の手ずから与えたなら、大層良か馳走のごと、目ば輝かせながら喰らい付くとです。まことに都合ん良か、残飯処理で」
 鉛筆の響きがひと筋だけ乱れた。記録係は犬好きか、少なくとも嫌いな者ではないのだろう。
「何も知らん者ほど確かに、罪の無か者はおらんごと思いますな。罪の何たるかを知りませんから、人ば憎むて事も知らん。憎んでもよか相手ば、憎み切らん不具合はありますが、そん代わし、憎まんでも済んだごたる相手ば、憎んでしまう不都合も無か」
「どう、なったでしょうね。その、犬は」
 相手に合わせて何の感情も乗せずに、呟いてみた。
「貴方が、いなくなってから」
「さぁて。分かるごてもあるし分からんごても……」
 右側のななめ上、にやった目線を、左側のななめ上に移している。
「さぞ、生きづらくはあるでしょうな。家の外ん事は何も知らん。なまじこげん飼い主のおっただけに、他所の者にもなつきにっか。案外今頃は目の覚めて、好いたごと野山ば駆け回りよるかもしれません。どげんなついておるように見えても、腹の内までは分かりはしませんから」
「そばにつけていた、子供は?」
 その話題の方が興味を引いたみたいに、クックッと笑い出した。
「見当もつきませんな」
 開いた眼をこちら側に向けてきたが、気に留めないフリをする。
「あん日は私が帰ったなら、とうに家の奥までしっかりと、踏み荒らされておって、隠し棚に入れておったもんも全て、引き出されさらけ出されて、主立った者と共に即、捕まってしまいましたから。家に残しておった者はさて」
「残していたどなたかが、手を回したとお考えですか」
「ああ。そん方がむしろ有難かですな」
 そこで存外に笑みを明るくしてきた。
「後の処理ばさてどげんしてやったもんか、常日頃から頭ば悩ませておりましたけんな。誰かが私の代わりに、半分仕事ばやってくれたごたるもんで」
 部屋にいた頃であれば、葉を丸めて煙管に火を入れていたところだろうなと思い返した。


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