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【小説】『一人巣窟』1/6

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(6回中1回目:約2500文字)


一人巣窟


 奥の扉から現れ出たその男は、男と言うより老人は、短く刈った白髪に色も褪せた元は青の囚人服で、かつて見覚えていた姿からは、随分と痩せこけたように思えた。
金谷カナヤさん、でしたかな」
 ゆっくりと見合わせてきた目の色は、何事かを把握したようだったが。
「はい」
 対面の椅子に腰を下ろし、まずは穏やかそうに目を細めてくる。かつて世話になった老人に似ている、ように思ったが、年を経てシワも増えた男性は、大概似通った風貌の数種類に分かれるものだ。
 この辺りには珍しい赤茶色の髪を、男性には珍しい根気強さで腰の辺りまで伸ばし、畳の部屋に据え置いた西欧風の鏡台に向かい、さも自慢気に梳き下ろしていたものだった。部屋にはほぼ常に自分と、鏡越しに目を合わせていただろうもう一人しか、いなかったのだが。
「驚きました」
 少しばかり頭を、傾けてくる。
「思っていたものとは、随分、違った印象で……」
 目を細めたまま軽く二、三回、頷いてくる。
「皆さんそがん言われますな」
「多くの方が面会には、来られるのですか」
「ええ。そいばってん見知った顔には、ほとんど」
 ほとんど、の一語をあえて差し込んだように感じ取れた。
「皆犯罪者の顔ば一度でん、拝んでみとうて仕方んなかとでしょうな。ツノでも生えとらんか目の色のどっか変わっとりゃせんか、自分達とは違うごたる、人とは思え切らん箇所ば見とうて見つけ出しとうて、わざわざ会いに来るとでしょうが」
 笑みは浮かべているが、機嫌を損ねた様子だ。あるいは機嫌を損ねたものをあえて隠してみせるかのように、振る舞っている。
「実物ば見てみたなら、なんな。痩せこけたシワクチャの、汚らしかジジイじゃて、大層拍子抜けした顔付きで帰って行かす。そいはそうでしょう。私に力のあったとは、あん島におった間だけじゃ」
 相変わらずだ、と思っていた。相手の側に感じ取らせ、思い込ませて、態度や表情を変えてくるのを待っている。
「可愛らしかもんです。どこまでいってでん人は、人でしかなかもんを」
 そしてそうした流れを、楽しんでいる。そう受け取られても構わないのだろうが、こちらとしてはもう少し、しばらくの間は面会を続けて出来れば違った感想を、持ち帰りたかった。
「貴方にはお名前が、三種類あるようです。一般に知られている通称と、ここで管理のために呼ばれている番号と、戸籍に記された御本名と」
「二種類です。実際には」
 そこにははっきりと答えてきた。
「戸籍に書かれておる名に私は、覚えがありませんし、感ずるところもありません。従ってお話ばし切れる事は何も無か」
「しかし貴方が通称で呼ばれる事になったのは、二十歳を超えてからと伺っています。それ以前の事柄について、何一つ記憶に残さずに、感慨も持たずにいられるような、年齢とも思えない」
 部屋の隅に常駐していた記録係から、ごく低い笑い声が漏れた。対面に座っている老人からは、それよりもやや強く。他所から来た者が何とも愚かしい質問をしてきたように、思われたようだが、
「言わずもがなな事であるじゃろうとは思いますが……」
「ええ」
 とだけ答えると笑い声の一切が止まった。頬には笑みを残したまま、老人は、二、三回頷く。
「擬似的に、父親じゃ子供じゃ、兄弟じゃと呼び合って、人によっては父親から新しか名前ばもらう。そがん集団に属しながら、暮らしておったわけです。実態はともかく、さも仲の良か家族のごと。名前ばもろうた時点で、かつての人生はのうなった。前の名で呼ばれておった者は、その時点で死んだ事になりますな」
 こちらも同じように軽く頷きながら、対面には笑みを浮かべてみせた。
「失礼ながら率直な感想を述べさせて頂きますと、『かつての自分は死んだ』などといった感傷は、私にとって許し難い欺瞞のように思える」
 記録係が聞こえた会話を全て書き取っていく、単調な鉛筆の動きだけが響いてくる。
「しかしあくまでも、私個人の事情によるものです。許し難いからと言って貴方をどうこう出来る立場に、私はいない」
「なるほど御自身の立場は、弁えて下さると」
 そこで一つ、大層な溜め息をついてきたが、こちら側は笑みを残したままにしておいた。
「では私の側でも率直な感想を申し上げますが、しょんなか。それこそ私個人の都合であって、誰にどがん風に思われようと、知った事ではありませんな」
「分かりました。では」
 スーツの内ポケットから取り出した手帳に、挿し込んでおいたボールペンを抜いて、しばらくは書き込めるページ群を選び出すように開いて見せる。
「差し支えなければこれ以降は、『久助きゅうすけさん』とお呼びさせて頂いても宜しいでしょうか」
「差し支えなければ」
 気に入った歌の文句のように繰り返し、「良いでしょう」と頷いてくる。
「番号で呼んで下さっても構いませんよ」
 ペンを構えてページに向かい、顔は上げない姿勢を作った。向こうには無機質に届くように。
「それが必要な職業に、就いていない身で、人を番号で呼ぶ事には、慣れていません」
「それはそれは。中には楽しげに笑みば見せながら、呼んでくる者もおりますけんど」
「私は何も、無意味な嘲弄を加えるつもりで、貴方を訪ねに来たわけではないんです。時折そうした物言いに、聞こえてしまう事はあると思いますが、申し訳ありません。ものを知らない子供が、好奇心から至らぬ質問をするものと思って、御容赦下さい」
「ほう。子供」
 クックッと、目新しい冗句でも聞いたみたいに笑っている。
「子供とはまた……」
「何せ貴方の生涯は、ごく当たり前に暮らしてきた私達一般の人間からは、理解の及ばない事ばかりでして」
「誰の何の参考にも、ならんごたる生涯ですけんど」
「残念ながら、決して良いものに思えない実例からも、人は何かを学び取ろうとするんです。そちらからは実に浅ましい姿に、見えているかも分かりませんが」
 笑い声がやみ、程無く鉛筆の響きもなくなった。
「久助さん?」
 顔を上げると窓の向こうで老人は、目線を落とし固まっていた。声を掛けても窓を軽く叩いても、身動き一つしない。


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