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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノニ(1/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 罰ノニ:上司達からの歓迎めいた鍋宴会で、
     田添の強烈な甘党が発覚。
     (ただし楠原にのみ知れる)

     その後吉原に誘われた楠原は、
     娼妓の静葉とお互いよろしきように。

イントロダクション
序説  罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四

(文字数:約4000文字)


罰ノ二 習い性となる


 外からの足音が、小走りで草を踏み分けながら近付き、戸板に耳を寄せる様が聞こえたその時に、子供は立ち上がった。
「潤吉。潤吉、開けろ」
 低めた声色に向かって歩み、手探りも無しに掛け金を外す。押してすぐに戸が開いたので兄の方では、カギも掛けずにいるのかと訝ったが、それよりまず中の暗さに驚かされた。
「え。お前灯り……」
「兄ちゃん!」
 飛び出すなり胸にすがり付き、大泣きに泣きじゃくる幼児を相手に、「こら」だの「泣くな」だの、聞かせたところで効果は無い。
「静かに。俺父上から『ここには行くな』って言われてんだ」
 小声でそう告げると弟は、ヒッと息を飲んで黙り込んだ。黒眼の大きな目が、水気を含んで怯えたように震えて見える。
 嘘を言ったわけではないが、脅してしまったようにも思えて義視は後味の悪さを感じたものの、嘘を言ってはいない事に、同時に気を大きく持って、手持ちのランプで中を照らしつつ小屋に入った。
 誰かの耳や目には入りいずれ父にも届くだろうが、きっと今夜くらいは許されるはずだ。
 庭の隅に設けられていた、元は白壁だっただろう古い土蔵の、元見張り部屋に間仕切りの襖を立てて、六枚ほどの畳を敷き延べた部屋だ。襖を開いた先はびっしり組まれた鉄格子越しの暗闇で、壁は硬すぎ天井は高すぎて、年中どこかひんやりしていた。
 机や箪笥といった調度品に、納め入れられた品は無い。弟が持ち込んだ荷物や風呂敷包みもそのままで、据え置き型のランプにも、火を点そうと試みた跡さえ見られなかった。
「なんで、灯りも点けてないんだよ」
 兄の声にはつい、溜め息混じりの不満が乗った。
「点け方知ってんだろ。俺何回か教えたよな」
 泣き疲れて昼の間を寝入ってしまい、目が覚めた時には暗くなっていて途方に暮れていたのだろうと、察した気になって義視は仕方なさそうに笑みかけたのだが、
「くらい方がオレ、よく見える」
 意外な答えは理解の範囲を越え、呆れの度合いをかえって強めた。
「そんなわけないだろ。お前、めんどくさいからって変な言い訳するなよ」
「イイワケ……?」
 って何オレそのコトバまだしらない、と続いてきそうな表情だったが、義視はぷいと顔を逸らして、見ないフリをした。弟にはこの先訊ける者がそばに居ない状況や、訊いてもすぐには答えてもらえない状況に、慣れてもらわなくてはならない。
 持ち込んだランプと、点けさせたランプとを、二つ横に並べたその前に、兄弟も横並びで座った。まだ春先で宵は肌寒い。風呂敷包みの中から引き出した毛布の一枚を広げ、並んだ背中に掛け合い、肩を寄せ合ってくるまる。
「兄ちゃんオレこのうちヤだ。かえりたいよ」
「俺だってやだよ。だけど、前の家はもうなくなっちゃったんだ。これからは、ここが俺達の家なんだから」
 くるまっていても弟にはまだ寒気がするらしく身を縮める。
「父ちゃんどうしてオレに、なんにも話してくれないの」
 それには答えず義視は、弟の側により毛布を寄せた。
「どうしてオレだけ、こっちなの。どうして兄ちゃんと、おんなじとこじゃないの。母ちゃんが、いなくなってから父ちゃん、どうしてオレに、ニコリともしてくれないの」
 うつむいた唇を義視は、一度だけ強く噛むと、「ほら」と毛布の隣から明るく作った笑顔を向けた。
「そうやってすぐ泣くからだよ。ダメだぞ男のくせに、そんなに泣いてばかりいちゃ」
 頬に伝っていた涙を、親指の腹で拭われると、子供は存外にケロリとなって今泣いた理由も忘れた風情に見える。
「この家にはたくさんの人がいて、父上のお客様だってよく訪ねにいらっしゃるのに、そんなにすぐ泣いたり騒いだりしてちゃ、父上が、恥ずかしいだろ」
「父ちゃんがハシタナイの」
 父ちゃ、ととっさに出かけた言葉を、義視は舌先を噛んで止めた。
「父上じゃないよ。お前だよ。ハシタナイのは」
「んにぇ?」
「その、返事もだ。おかしいからやめろって」
 オカシイ、と飛び出した口元を子供は、両手で押さえる。
「父上に、恥ずかしい思いをさせる人が、ハシタナイんだよ。俺だって恥ずかしいよ。そんな返事してるとこ他所から来た人に聞かれたら、ちゃんとした教え方してこなかったみたいに、俺が思われるから」
 押さえた両手の下でモゴモゴと、唇がひねられたりすぼめられたりしている。少し言い過ぎたと心付き、義視は隣の肩に手を乗せた。
「そうしたところがきちんと、出来るようになったら、お前も母屋で一緒に暮らせるようになるから、な?」
 モゴモゴが、収まった一方で両目には、また涙が溜まり始めている。
「きちんとって……、言われたってぇ……」
「お前、また……」
「オレ、分かんない! 何を、どうやったら……、どんだけやってったらその、『きちんと』になるんだよぉ……。オレ、ここがどこなのかも、あの人たちダレなのかも、なんにも話してもらってない」
「そのうち落ち着いたら、教えてやるから」
「今ちょっとだけでも分かりたい!」
 根負けして義視は、いなす事を諦めたが、弟の側に笑顔を向けながら話して聞かせる気にもなれなかった。襖の対面になる黒ずんだ壁に、目線を逃がしながら呟く。
「この家にはこの家の、母上がいるんだ」
「母ちゃん?」
 明るくはずんだ声に、苦笑する。
「俺達の、母ちゃんじゃないよ。本当の母上だ。多嘉子たかこ様」
 黒眼の大きな目が、一回だけゆっくりと瞬きをした。
「父上の、奥様だ。母ちゃんは、俺達にはそりゃ母ちゃんだけど、父上には……、本当の奥様じゃ、なかったんだ」
 少し前までならくにょくにょした声を、上げ出しそうな顔付きをしていたが、子供は一旦ぱか、と開いた口を、下唇から閉じただけで黙っていた。
「あと叔父さん夫婦に従兄弟も、この、同じ家で暮らしている。多嘉子様の、妹の御一家だから、叔父さんに従兄弟って言っても俺達、血も繋がってない」
 駄々をこねて教えてもらっているというのに、ますます分からなくなっているのを、決まり悪く感じてなのか子供はふわふわの髪の毛を掻き回している。
登美子とみこ叔母様の、御主人が善行よしゆき叔父さん。それと息子の桝機ますき
 その名を口にした途端、義視はかなり苦そうな表情になった。
「俺と、学年は同じなんだけど、俺、早生まれだから、一応は『桝機兄さん』って、呼んでる」
 手首の甲側で唇を、一度端から端まで拭い切ると、ひどく長い溜め息をついた後で続ける。
「そんで、みんな俺達の母ちゃんを、随分と嫌ってるから……、俺、ここでよっぽど頑張らないと、みんなに認めてもらえない感じなんだ……」
「なんで?」
 黒眼がまっすぐ向けられると、義視は言葉に詰まる。また弟の「なんで?」には、とりあえず続きを聞いてやり答えを考えてやる習慣が、身に染み付いているものだから。
「なんで、母ちゃんがきらわれるの? あの人たちオレしらない。うちに来たことないし、母ちゃんもきっと会ったことないよ? そんで、なんで会ったことない人たちから、きらわれるの?」
 そしてまた黒眼は涙で震え、頬を伝ってはポトポトと、手元に膝にと落ちて行く。
「そんで、どうしてきらわれたまんまなの? 母ちゃん、もういないのに。母ちゃんがあの人たちに、何したのか何かしたのかオレ分かんないけど、もう会えないのに『ごめんなさい』って言うこともできないのに、なんで、ゆるしてもらえないの? 会ったりとか話したりとか、オレだってもうできないのに」
 前の家に居た時からそうだったが、うつむいたり、顔を覆ったりなどもしない子だ。泣く事に泣き顔を見せる事が、恥ずかしい、という感覚すら無いらしい。ひとしきり濡らした頬を、兄から渡された布でようやく、ひと通り拭って、
「あ」
 と急にケロリとして見える顔を上げてくる。
「じゃあ兄ちゃん今、タイヘンなの?」
 すると兄の方ではうつむいて、目線を逸らした。一つ、ゆっくりと瞬きをして子供は、首を傾け兄の横顔を覗き込む。
「タイヘンなんだ……。兄ちゃんも、今すっごくすっごくさびしいんだ……」
 兄の顔を、と言うよりは、顔に浮かんでいるふわふわした色味を、目で追っている。声の中に溜め息の内側に紛れ込み、しばらくの間を顔周りに漂うそれらの色味は、言葉ではないのだが語りかけてくるように、耳に聞こえる文言とはまた違った情報を、子供に伝えていた。
「だからオレに、会いに来たんだ。兄ちゃんも、オレに会いたかったんだ、ね」
 ふ、と溜め息を隠すように義視は、口角を上げた。
「うん。でも大丈夫だ。俺には、父上がいるから」
 浮かんだ(かわいそうに)を子供は、目で追い掛ける。首をひねって不思議そうにしているその間にも、兄の顔周りには似通った色味が次々と、浮かび上がってくる。
(どうして。潤吉。潤吉は、一人だ。父上。かわいそうに)
 同じものが自分以外の眼には映らない事を、子供は長い間知らずにいた。みんながこれを見て、これを受け止めて、それで泣かずに過ごせているんだ、すごいなみんなは強いんだなと、子供自身自分は弱いか、残念ながら頭がそんなに良い方ではないのだと、長く思い込まされていたのだが。
「兄ちゃん……」
「だからお前も、もう泣くな」
(俺が、もっと頑張らなきゃ)
 肩に手を、力強く乗せ置かれたところで、子供には泣きじゃくるような色味が重なって見えている。
「泣いたって、誰も来てくれないんだ。意味が無いんだからな。自分の身は自分で、守っていかなきゃ」
(もっと、もっと頑張って潤吉を、認めてもらわなきゃ。ここから、こんな所から早く、出してあげなきゃ)


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