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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノニ(4/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2000文字)


 明治二十年代の吉原は、徳川時代に隆盛を極めた、名にし負う一大娯楽場とはまた趣が違っている。何が違うかと言えばまず、公許ではない。
 奴隷を公然と売買している、といった諸外国からの非難を受け、国家は娼妓達を一旦は威勢良く、『解放』した。しかし吉原は変わる事無く存在し、女性達は『自らの意志で』働いている。養ってくれた店の主人を助けるべく、これまでに自分達のために費やしてくれた、多額の金銭をいくらかでもお返しするために。
 大きな嘘が見事にまかり通り、何かが大きく歪んでしまった。むしろ公許であった時の方が潔かった心地さえする。
 国が守るべき基幹産業では、表向きなくなり、自分達だけで工夫を凝らす、ただの商売に成り下がったのだから、客の格も自ずと下がって行く。今や学生達が仕送りにアルバイト代を掻き集め、質屋や金貸しや友人達と揉めながら借り受けた金銭で、ひと時だけでも旧時代の金持ち気分を味わう場所だ。
 粗野で愚鈍だったものと、日の光の下では嘲笑して回る、かつてのお大尽共の有り様を、当然の権利ででもあるかのようになぞる。
 年中毎日似通った、数多くの田舎学生を相手にして袖にもして、中の一人など覚えているはずがない。まして自分は今違う名の、違う風体で現れているのだから、全力で初めて会った事にするはずだと、楠原は踏んでいたのだが、
「あら?」
 やって来るなり静葉はつい、と楠原の前に座り込んだ。
「貴方……、私のお馴染み、だったわよね」
「え……?」
 顔を覗き込まれて息を飲む。その間も阿川の方からは苦笑が聞こえている。
「本当か」
「良かったなぁ楠原。てめえ、覚えられてんじゃねぇか」
 二人してひと通りはやしてくるが、楠原にはほとんど聞こえていない。
「だったらこんな、初会の仕来たりなんていらないわ。イヤだわどうしてお店の方で、伝わらなかったのかしら」
 浮かんでくる色味が複雑で、たどっていくのに懸命だ。演技も嘘も、女の場合は頭から思い込んで掛かるから、分かっていてもついうかうかと、乗せられる。
「私の部屋に、いらっしゃいな」
 目の奥に見える光が強い。良かったコイツはまだ、壊れてねぇんだな。
 前に一度だけ会った時は、顔中身体中に真っ黒な、(嫌)がワサワサ虫みたいに這い回っていて、あとちょっとでも触ったら壊れちまいそうじゃねぇか、とても相手できるどころじゃねぇだろって、本当は、叔父さんの相手に来させられていたのを、無理言って駄々こねて自分の相手に、変えてもらった。
 叔父さんだって、本気で俺を楽しませるために連れて行ってくれたわけじゃない。悪所を覚えさせて身を持ち崩させて、結果兄貴の評判も落としてくれればって腹積もりだから、お互いに損はしないだろってことで。まったく善行って名前がアイツほど、皮肉になってる奴も珍しい。
 部屋へと移りながら、階段に廊下を歩みながら思い返していた、そうした事柄がおぼろげにでも共有されているつもりになって、楠原は、
「あんた、良い女になったなぁ」
 と部屋の戸が閉められた時につい、口にしたのだが、それを聞いた静葉の方では、
(え?)
 と一瞬固まった後で笑い出した。
 それも、背中を向けて覗く耳を端際まで赤くして、戸口に身を屈めるように腹を抱えながら、大きな声こそ上げないもののかなりの大笑いだ。
「イヤだ……。無理、しなくても良いのよ楠原さん」
 振り返りつつ目の端に滲んだ涙を、そっと拭っている。
「先輩達の前で、貴方、ちょっと見栄張っちゃったんでしょう?」
「ああ」
 合点が行ってホッとした。それでこそ「店の女」だ。
「そうだよなぁあんたが俺なんか、覚えてるわけねぇや」
「どなたかに、間違われたみたいに思ったの? 『良い女になったなぁ』、だなんて……」
 クスクス明らかになめた様子で笑ってくるが、構わない。心得た女は好きだ。何と言っても目の光が良い。こっちも壊れていないんじゃないか、もしかしたらまだ立て直せるんじゃないかって、思わせてくれる。
「初会の客、部屋にまで通して良かったのか?」
「そんな仕来たり、もうとっくに廃れちゃってるのよ」
 戸口脇の柱に、身を支え立ち姿を整えてから、手を放す。
「お金次第でどうにでもなる事でもあるし……」
 呆けた様子で立ったままの、楠原のそばにまで近寄って、
「だったら、ねぇ」
 と「ねぇ」の響きに、店の女の本領を発揮してきた。
「気に入った方、お通しした方が良いじゃない?」


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