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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノニ(2/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2400文字)


「悔い改めよ!」
 目の前に、そのひと言が分厚い壁となって立ち塞がったかのように、楠原は足を止めた。その肩に背にぶつかった者達が、顔をしかめ舌打ちをしながら、ぼやきながら右に左に分かれて行くが、楠原自身打ちそうな舌先を噛みながら、声の出所を振り返る。
「『天国は近付きたり。これ預言者イザヤによりて、かく云われし人なり』」
 官立の学生服を着た丸眼鏡が、電柱の脇に立ち、重たげな厚みのある本を胸の前に抱え開きながら、読み上げている。
「『曰く。荒野に呼ばわる者の声す。主の道を備え、その道すぢを直くせよ。このヨハネはラクダの毛織衣をまとい、腰に革の帯をしめ、イナゴと野蜜とを食とせり』」
 それもただ、読み上げているだけだ。抑揚を付けるわけでもなく他に芸事を見せるでもなく、往来の真ん中にいきなり立ち止まった楠原ほどの人目も引かず、気にも留められずにただ、読み上げ続けている。
「『斧ははや、樹の根に置かる。さればすべて善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に、投げ入らるべし』」
 そこで本を閉じ、溜め息をつくと、ようやく彼は諦めた様子で足下に置かれていた学生鞄に屈み込んだ。分厚い本をその内に、仕舞い入れたところで、
「何なんだようっとうしい」
 声を掛けられて振り返り、楠原を見上げてきた表情には一瞬、ほんの一瞬だが確かに、
(私学か。なんだ)
 が浮かび上がった。
「人が気分良く、歩いてるとこ捕まえて……」
「有難うございます。お気を留めて頂いて」
 丸眼鏡越しの笑顔がかえって癪に障るのは、兄を思い出すからであって、何もこの男のせいではないが。
「いや『有難う』じゃねぇよ。要らねぇんだよさっきから、何だか知らねぇけど見てたらただ、本読んでるだけって。辻説法ならせめて喉うならすなり、鳴り物でも持って来ちゃどうだい。聞いてて退屈でしょうがねぇ、ってかずっと素通りされてんじゃねぇか」
「それでも貴方は、声を掛けて下さった」
 同じ本、いや、同じ物に見えるが真新しげな別の本を、両腕に包み込むように抱え、楠原の正面に背筋を伸ばしてくる。
「イエス様が、仰った通りです。正しき言葉は必ずや、人を導きます」
(あ。やべぇコイツ話通じねぇ。ってか人の話ちっとも聞いてねぇな)
 内心楠原はそう断じたのだが、開いた口を下唇から閉じて黙っていた。
「私などはとても、イエス様の、足元にひれ伏す資格すらも持たない者ですが、せめてその心持ちにいくらかでも、近付きたいと、こうして学業を終えてから、街頭に立ち、イエス様のお言葉を広く世にお伝えする事を、日課にしているのです」
「それはそれは」
(イエス様の、お言葉だったんだっけそれって。誰か別の奴がまとめた文句じゃなかったかなって。まぁ細かいところは俺どうだっていいけど)
「心に響かれたならぜひ、貴方にも」
 差し向けられた黒い革表紙に、金の十字架を目にした楠原の背筋には、寒気が走った。男の笑顔も何ら寒々しさを和らげない。
「悪い。そういうのは俺ちょっと、触らないようにしてるんで」
「怖いのでしょう?」
 言葉にも言い回しにもだが、浮かんでくる色味にもムカッとくる。
「分かります。知らないものは、怖いのです」
 虫酸が走り過ぎて口を開いてやる気も、しなくなっているのだが、それを良い事に丸眼鏡の方では少しずつ、手に持った厚みのある本と共に、間合いを詰めて来る。
「ですから、共に、学びましょう。神の言葉に導かれた貴方は、既に祝福を得たのです。正しい学びと、導きによって、貴方のその、怖れは消え、悩みも、苦しみも、罪の意識も全て、暗く垂れ込めた雲間から差し込んだ朝日に、春の光に、冷たく凍りついた雪が自ずから溶け去るように、消えてなくなるのです」
 溜め息が出たついでにどうしても、胸の内に湧き上がり渦巻いていた文句が、こぼれ出てしまう。
「そりゃ、大変だ……」
「大変?」
 へはっ、と気の抜けるような、笑い声も出た。
「いや。悪いけど、俺、自分で言っちまうのもなんだけどそこまで、あんたほど頭良かねぇんだよ。官立と肩並べてお勉強とか、考えただけでゾッとするって」
「御謙遜を。英国語に関しては、今やそちらの私学が優勢だ」
「要らねぇんだよそういった、くだらねぇ学校同士の張り合いは」
 ふふっ、と穏やかそうな笑みの内に(英国語、だけですよ)が浮かんでくる。
「何もこちらは張り合っているつもりなどは……」
 苦笑混じりの声の中にも、(こちらは初めから、私学など相手にしていない)と。
「怖く、なくなるまでに一体どんだけの、勉強してなきゃなんねぇんだ?」
 聞く者が聞いていればまた違った、誘いの掛け方を試みたのだろうが、
(私学側の妬みにやっかみもあるのだろう)
 に包まれている丸眼鏡には、どうも直接に届いていない。
「一生分の時間、あっという間に飛んでっちまいそうじゃねぇか。そっちの方がよっぽどあんた達、正直、正直に言って、怖かねぇの」
「あの、学ぶというのは、何も、机に座って時間を掛けるようなものでは……」
 クスクス笑いながら今一歩、更に距離を縮めて来た。
「要らねぇっつってんだろさっきから!」
 気色悪い、と喉まで出掛けた言葉の代わりに、言い残す。
「神様の言葉なんか、あったとしたってそんなもん、誰かから教えてもらおうなんて思わねぇな」
 もう二度とこういった手合いには声掛けない、と固く心に誓って楠原は、背を向けたのだが、丸眼鏡の方では懐から取り出した手帳に、今日声を掛けてきた者の背格好に髪の色、私学生であること云々、を記録しており、
 後にまとめられた報告書は、活動本部の倉庫部屋に納められ、後日探し出されて活動支援者の、目にも留まる。


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