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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ五(1/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 罰ノ五:田添はもちろん上司の二人からも、
     楠原は廓通いを注意される。
     田添の過去。味覚が壊れた原因。
     楠原の現在。何かが壊れる寸前。

イントロダクション
序説  罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四  罰ノ五
罰ノ六  罰ノ七

(文字数:約3400文字)


罰ノ五 高を括る



 小屋へと歩み寄って来る足音に、子供は背を向け、両膝も固く抱き込んだままで動かなかった。
「潤吉。開けろ」
 言葉も返さずにいると戸の隙間から差し入れられた、細い金属線がまっすぐ上に動き、掛け金を外す。押された戸がゆっくりと開き、暗い小屋の内側に広がる光が、子供の目の先に、座り込む自分の丸い影を作る。
 赤みを帯びたふわふわの髪は、影の内にあっても頼り無く、あちこちに散り乱れて人の頭とは思えない。鳥やケモノの影とでも見た方が、しっくりきそうだ。
「また、灯りも点けず……」
 溜め息には今やくたびれ切った、うんざりした色味が乗っていた。背中の後ろ側で戸が閉まり、肩には乗せられた手のぬくもりを感じたが、子供は身じろいで振り払った。
「すねるのも、やめろ。言いたい事があるのなら、はっきり言え」
「だって……」
 手の甲に掛かった赤い髪の感触を、気持ち悪いみたいに振り払う様子が分かった。
「だって、兄ちゃんが言ったんだ! 兄ちゃんから先に言ったんじゃないか! オレのこと『弟じゃない』って。『使用人だ』って」
 昼間の、学校での事だ。笑顔で駆け寄った子供に兄は、眉をひそめて身を避けた。そばにいた義視の級友達も薄ら笑いを浮かべ、義視の様子を気にしながらも野良犬でも見るように。
「だったらオレだって、兄ちゃんなんか、兄ちゃんじゃないや」
「そうだ」
 サクッ、とその色味は胸の真ん中を刺し通すみたいに感じた。
「お前は弟じゃないし、この家の者でもない」
「なんでだよぉ……」
 涙声はもはや背中の側に、くたびれた色味しか増やさない。
「なんでっ……、兄ちゃんも父ちゃんも……、そんなの勝手に決めちゃうんだ? オレ抜きにしてオレのこと、勝手にそれでいいって決めちゃうんだよ!」
「静かにしろ」
 グッと強く、上の方から押さえ付ける重みがあった。ランプの光が背中側から回り込み、兄と共に子供の正面に移って来る。
「言っているだろ。私はここに来る事を父上から、禁じられている」
 正面に下りて来る顔は、目も伏せていて、すぐ傍らの光に照らされているのに暗い。
「多分これからは、もう来ない。それで良いんだ。その方が、良いんだ」
 暗い色味に覆われて、光なんか兄の目にも見えていないみたいだ。
「兄ちゃん……」
「父上の判断は、賢明だった。お前はこのまま使用人で、いた方が良い……。父上と、この家の母上と、叔父さん夫婦と桝機兄さんと……、毎日その中で暮らしてみろ!」
 徐々に力を加え最後は殴り付けるみたいに届いた声に、子供はぎゅっ、と目をつぶり、やがてじんわりと開けながら身を震わせたがそれは、怒鳴り付けられるまで兄の苦労になど、一切気付かずにいたためではない。
「俺だって、きついんだ……」
 コイツはまだ幼くて、愚かで、人の苦労など分かりはしないのだろうと、侮られている事に気付いたからだ。
「潤吉。俺も、まだ子供だ。父上に守ってもらえなければ、何も出来ない……」
 うなだれて涙をこぼす義視の方では、ぱか、と開けた口を下唇から閉じていく潤吉に、気付いていない。
「お前を……守ってやれるほど、強くない……。俺はっ……全然……、強くないんだ……」
 兄ちゃん、と呼ばなくなった事に気付くのも、この夜から一、二年ほど後になる。

 畳を滑る衣擦れの音が、いつもよりしっとりと艶かしい。シミが浮いた几帳の端から姿を見せてきた、今日の静葉は一段と華やかだ。残念ながら自分のためではないが。
「今から旦那方のお座敷で、舞うのよ……」
「舞うだけで済まねぇんだろ」
 言ってみて、苦笑した端から胸の奥がきつくなった。やわらかい物が欲しくて枕を抱き込みながら、布団の上を転がり回る。
「あああああもう! 他の男に上がる前に来んなよじゃあ!」
「こちらの準備中に、いらした貴方がお悪いの」
 背中の側に回り込んだ、静葉の気配が屈み込んで耳元に、囁いてくる。
「悔しかったら、お大尽になってから来なさいな」
「てめえ!」
「きゃっ!」
 人を組み伏せるのには慣れている。これだけ間合いも近ければ確実だ。静葉の方でも両腕は懸命に突っ張っているが、顔では笑って見せてくる。
「あら嫌だ。およしなさいな。ほら。着付けが崩れるでしょ」
「崩れろ崩れろぉ。旦那方の前になんか、立てなくしてやるぅ」
「着付け代と着物代、請求するわよ」
 向けられた声にも眼差しにも、力がこもった。
「おいくらになるものか貴方、分かってらっしゃるの?」
 突き刺されて両腕を放し、力を抜くと背中から、布団に倒れる。しばらくそのままで寝そべっていた。起き上がる気すらしなかった。
「あんたなんか相当稼いでんだから、もう充分だろうよぉ」
「それがそうも行かないのよ」
 とついた溜め息には明らかに、日々の苦労が見て取れる。
「着付けにだって人手がいるし、髪結いにだって人手がいるわ。今日みたいに、ふくらませる仕掛けが付いた着物なんて、とても一人じゃ着られないもの。舞の稽古を付けてくれる、お師匠さんに三味線方、賄い方の人達にだって謝礼がいるでしょ。そしてそういった費用はね貴方、私達が、借金の形で支払うのよ」
 がばっと跳ね起きてみせると静葉の方では、不興げに造り込んだ顔の内に少しばかり、バツの悪そうな色味を見せた。
「髪結いに、着付けって……、あんた達ゃ毎日だろぉ? 金がいくらあったって、足りねぇじゃねぇか」
「ええそうよ。足りないのよ」
 口をとがらしてうそぶく声の内に、(あらやだ。この人本気にしちゃった)が透けて見える。
(まぁ良いわ。丸っきりのウソってわけでもないし)
「はぁ。それであんた達ぁ、玉割りになるってぇと目の色変えるんだなぁ。書生だろうが何だろうが、見境無しだからな」
「それもあるけれど罰金があるものね」
「罰金?」
 一旦は口を押さえたものの、顔を寄せ、声をひそめて続けてくる。
「玉割りの期間に御指名が来ないと、店の売り上げに貢献していない、って事になって、高い罰金、支払わされるのよ。それが嫌なの」
「な、なんだよそれ」
 しーっ、と口元に人差し指を当てた静葉に合わせて声を落とす。その分表情は大きめに、驚かせながら。
「静葉、あんたでもか?」
「私でもよ」
「とんでもねぇタカリだなぁそりゃ。どっかに何とか言って、どうにかなんねぇのかよ」
「どうにかなるなら苦労はしてないのよ。大体が親父さん私達のハンコ、みんな集めて持っていて、私達も知らない見当もつかないような所に、ポンポン捺すんだもの。それで借金の証にするんだもの。借用書の計算だって、何がどうなっているんだか。あの人、足し算も出来ないんじゃないかしら。そのくらい合点がいかないのよ」
 ある事ない事口先に乗せた事柄を、自分でも、信じ込んでいるからそれらしく聞こえる。女の嘘は恐ろしい、とばかりも言い切れない。感覚としては真実なんだろう。
「じゃあなんだ。親父が肥え太るばっかりか」
 ニヤリと笑ってみせた楠原に合わせて、静葉もニヤリと笑みを作った。
「ええそうよ。親父が肥え太るばっかりよ」
「じゃああの親父の腹は、俺達の金で出来てるんだな?」
 言い方から、思い浮かべた絵面が妙だったらしい。プッと吹き出すと静葉は、思いがけなくツボに入ったらしく、顔を隠し声も殺しながらしかし身を震わせて笑い続ける。
「道理であの腹ぁでかすぎると思ってたんだ。抱えて左右に揺すったら、じゃりんじゃりん鳴るんだぜきっと。あんた、今度やってみろよ」
 やめて、やめてちょっと、苦しい、と覗く耳を真っ赤にして、しばらく片手をはたはたと、振っていたが、やがて笑いの発作が収まると大儀そうに顔を作り、涼しげな調子になって返してきた。
「俺達の金って、よく言うわね。貴方のお金なんか親父さんのおなかどころか、足の指又の垢にすらなっちゃいないわよ。貴方本当に最低の額面しか払わないんだもの。私の足しにだってならないわ」
「足しになるだろうよ。俺に会える」
 笑ってみせると静葉の方では、顔からも声からもしらっと、色味を抜いて、
「なってないわ。ちっとも」
 と言ってきたので分かりやすく「ちぇー」と返してやった。


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