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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』序説(1/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 序説:本編に入る以前の、明治十年代。
    遠野一家の評判と内実と、
    生じた不幸による歪み。

イントロダクション
序説  罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四  罰ノ五

(文字数:約4200文字)


序説 初めに言葉ありき


 遠野とおのさんの二人目のお子さんは、知恵遅れだ。

 と言うのがその時節その界隈での、様々な声色で語られた憶測だった。
 歩き出すのもしゃべり始めるのも遅く、同じ年頃の子供たちに比べて、言葉も覚えない。身体も弱いのだろう。晴れた日でも外には出たがらず、奇妙なほどの色白で、艶の無い細い髪は色も抜けて赤く見える。きっと大人になるまでは育つまい。
 母親の業がよほど深いのだろう、とも囁かれていた。物静かで優しげに微笑む御婦人ではあったが、何の因果を含められたものか、わざわざ異国の神を信仰していると聞く。家に土地に、女中を与えられて二人の子供と、何を生業に暮らしているのかも分からない。
 分からない、と言いながら皆、分かっていた。江戸の頃まではごく当たり前に身近にあり、明治に入ってからもほとんど廃れてなどいなかった、一種の職業である。

 めかけという者だ。

 御一新の前は旗本だったらしい、さる学者先生に、子が出来なかったため正妻にも許諾を得た上で、雇われたのだと言われていた。元は芸者であったとも琴を指導する者であったとも、いずれにせよまだ若い女性であるからそれほどの技能などは持たなかっただろう。要は若い娘の色香に迷った老先生の口実だよ。その正妻にしても子の出来ぬ身で、断りようがあるものか。
 下の子には正妻の呪いでも降り懸かったに違い無いよ、と。
 契約結婚、なる言葉が、男女を対等にする進歩的な考えのごとく世に広まり、大臣自ら西洋風の結婚式を執り行って見せた頃だ。一夫一婦制は表向き、最先端の生活様式。妾などは旧時代の悪弊として、蔑み嘲笑ってみせる態度こそ、文明的として流行していた。
 妾とその子供に対する、法律上の規定さえ、嫡子に次ぐ者として貶められた。世にはまだ現実として、そうした子供たちが溢れていた時代に。

 しかしながら遠野家の内幕は、平穏だった。
「あー。あーちゃ。れ」
 家の外周に巡らされた、板塀越しに見える空を、件の子供が指差してみせる。
「あれ。あれみて。トンカントントンカン」
「あぁ。大工さんね」
 母は縁側から出た庭先で、その子に寄り添って身を屈め、共に指差された空を見上げる。
「おうちを、作ってるのね」
「トンカントントンカン」
 板塀越しに聞こえてくる、ノミや木槌やトンカチの響きを、子供は口に乗せ繰り返す。
「トンカントントンカン。トンカントントンカン。トンカントントンカン」
 空を見上げながらいつまでも、飽きる事無くやっている。母もまたその様子をいつまでも、微笑みながら眺めている。
「んで、ドン。……そんでまた、トンカントントンカン」

 そしてまた、こうした事もあった。
「なっとぉおおぉぉ、みそぉおうまめぇぇ」
 家を任されていた女中に、近所の奥さん方が、めいめいに財布やカゴを掴んでは家の表に駆け出して行くと、
「なっとぉおおぉ」
 と往来に立ち声を張り上げているのは、例の二人目のお子さんだったりする。
 あら騙されたと頬をゆるませる者あり、人騒がせなと腹を立てる者あり、当の本人はそうした周囲など目に入らない様子で、へらへらと空を見上げたまま笑っている。
「ゆらゆら。へへ。もしろい」
「お上手ですけれど坊っちゃん、おトヨは台所から飛び出して来ましたよ」
 女中が話しかけるとようやく、目線を相手の顔辺りまで落とす。
「てっきり今日は納豆が、買えるものと思って……」
「ゆらゆら」
 すると子供は左腕を伸ばし、顔も左の側に向けて、
「あっち。オレ、つかまえた」
 家々が立ち並び入り組んでいる、この路地の角口を指差す。
「へ」
 と女中や奥さん方の耳に、「なっとぉおおぉ」の売り口上が聞こえてきた。
「あらホント」
 驚いたのはその日の納豆売りだ。この辺りに同じ商いをする者はいなかったはずだがと、口上が聞こえたその角を覗いてみたら、その路地の両脇に住まう者達が、ずらりと皆さんお待ちかねでいる。
「普段からこのくらい繁盛してくれりゃ、有難ぇんだがな」
「何言ってんだい。そっちがこの辺り素通りして行っちまうんだよ」
「声はすれども姿が見えずでさ。納豆なんか、長い時間小脇に抱えて走りたかないよ」
 女中もまた旧時代の遺物として(どちらかと言えば使う側の人間が)侮られてはいたのだが、遠野家に勤める、トヨの場合は、七、八歳の頃から奉公に出されて以来女中暮らしが板に付き、時代が変わったようであっても今更二十年近くも勤め続けた、居心地に、条件も整っている遠野家を、悪し様に思って暇を願い出るなども、到底思い浮かばなかった。
 ゆえに御近所の憶測も気にしなかった。
「しゃべることがちょこっとお得意ではないだけで、色々と、分かってるんじゃないでしょうかねぇ。下のお坊っちゃんは」

 五、六歳離れた兄の義視よしみも、弟を実に可愛がった。現に母親の面差しを映した可愛らしい子供であった。
 色白も手伝って、よく女の子に間違われる。ふた重まぶたの目は黒眼部分が際立って大きく、赤みがかった髪はふわふわとやわらかくて、男子らしくきっちり結い上げるには向かず、常に切り下ろしたままでいるためでもあった。
 近隣の噂話は耳に入っており、子供ながらに胸を痛めていた事も、弟に気持ちを向かわせた面では有効に働いていたのかもしれない。言葉に文字ももっと幼いうちから教え聞かせてはいたのだが、
「遠野の『ト』の字はどれだ」
「んー。えっ」
 覚えない、と言うよりは、言葉や文字を正確に扱う事に、それほど興味を持っていない様子だ。広げた五十音字一覧の上に、手を置いてきた文字は当たっていた。
「正解。じゃあ次、遠野の『オ』」
「ない」
「ないって事はないだろ。ちゃんと探せって」
 一覧の前で首を傾け、両の眉毛も思い切りすぼめながら、
「nieiuskaiugakaoisa? diduaeigaoanao?」
 とこの国の文字には落とし込めない、くにょくにょとうねりのある声を上げてくる。それでも聞き手の側が困らないのは、表情や仕草で「分からない」事だけはよく分かるからだ。
「これだよ」
 え? と言いたいらしい「んいぇ?」が聞こえる。
「これ、『オトーサン』の『オ』」
「そうだよ。一緒だよ」
「『オ』、『トーノ』に、ない。『オトーサン』の、『トー』と、いしょ」
 何かを足せば伸びるのだろうと、反故紙に大きく書いた『ト』に、点々や丸を付けた奇妙な文字を作っている。その間義視はうつむいた眉間を押さえ、弟を困らせているその内容を把握した上で、さてどう返してやるべきかを考えていた。
「耳ではそう聞こえるかもしれないけど、文字にする時には『オ』を入れるんだよ」
 四回、五回と瞬きする間は、じっと兄の顔を見詰めて固まっていたが、やがてコクリと大きく頷くと、一覧の文字をなぞり始める。
「ト、オ、ノ」
 に続けて同様に、
「オ、ト、オ、サ」
「違う。そっちは『ウ』」
「ふにぇ?」
 兄に向けて跳ね上げてきたのは、明らかにうろたえ切った困り顔だ。
「dakosiagaosano? dkoaoajeaona?」
「そういう、決まりなんだよ。考えずに覚えてきゃいいんだって」

 父親は下の子の行く末に、多少の懸念を抱いていたが、母の方で微笑んで取り合わなかった。
「あの子は、大丈夫よ」
「お前がそう思っていたい気持ちは分かるが」
 日の高いうちに訪ねると(と言うのも父親にとってこの家は「本宅」ではなかったので)、下の子はほとんどを寝て過ごしている。珍しく起きているかと思えば動きが鈍く、やがてうつらうつらと船を漕ぎすぐにまた、横になってすやすや寝入ってしまう。
 更には随分な泣き虫で、近所の子供たちと出くわす度に、からかわれ泣かされて帰って来る。仲間にも入れてもらえず、家の内にこもり切り、というのでは、男子として先が思いやられる、と父親の懸念もしかし一般的なものに過ぎなかった。
「大きくなったらお米屋さんに、なりたいんですって」
 寝入った子供に布団を掛け、その傍らに座して母は、微笑んでいる。
「お米屋さんが来る度に、飛び出して行って出迎えて、お米屋さんの後ろにくっついて行って隣でずっと、見ているの。お米が米びつの中に、ざあぁぁぁ……って、吸い込まれて行くのがとても、キレイだって」
 確かに心地の良い眺めに響きかもしれないが、父親に言わせれば欲の無い。欲深い事は良い事とも言えないが、とりわけ男にとって、世を渡って行く原動力にはなるものを。
「ずっと見ていたいから、あと、たくさんのおうち回ってたくさんの人の顔見たいから」
 布団の上からやわらかく母は、手のひらで、ゆっくりした調子で叩き続ける。
「たくさんの人に、お米のざぁぁ……見せたいから、オレは、お米屋さんになるんだって」
 すやすやと眠りながら子供は、口元でにんまり笑っている。そこに向けられた母の笑みには、しかしわずかばかりの陰が差した。
「貴方の方でよろしければ、ですけれど」
 申し訳、無さそうな調子に父は、気安げな笑みを返してみせる。
「私の方は何も」
 元より母親からその子を、二人も取り上げる考えは無かった。
 二人目を身ごもった事を知らせた時には、正妻のいささかならぬ不興を買ったが、妻の側から、いや自分達夫婦の側から、この女性を非難出来る道理も無い。それに兄弟がある事は、義視の情操にもきっと不利益にはならないだろう。そう信じまた説得もし、とりあえずは了承を得た。
 以来夫に向けられる正妻の眼差しは、妾宅からの御帰還と察せられる度に少しずつ、冷たさを増していったが。
「米を他所の家の米びつにも、満たして回りたい、か」
 布団を挟んで母の、反対側に腰を下ろし、父も子供の寝顔を眺める。
「志が、大きいものやら小さいものやらも、よく分からない望みだが」
 伸ばした手のひらで頭を、ふわふわした赤茶色の髪を撫でてやると、寝入っていながらんふふふと、機嫌良く笑い出す。
「それはそれで楽しそうだな」
 母もその様子に笑みながら、目元にはそっと袖口を寄せた。


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