地に足ついても千鳥足
困難に遭って溺れそうなとき、まずなにより陸(安全圏)に上がれることを目指してしまう。泳ぐ(自力)でも、ボート(サポート)でも。だが、どうしようもない困難ほど、陸を目指すのは難しい。溺れないことに必死過ぎて、陸にはとうてい辿り着けそうにない。 そこで重要なのは、浮輪(理解)の存在である。自分が溺れそうなのは、自分のせいというよりも、自分を取り巻く環境のせいだと気づく。溺れまいと必死にもがくことをいったん止めて、浮力を頼りに事態を冷静に見る。そうして泳ぐかボートに乗るか、はたま
5月に絶不調に陥り、そこで感じたもやもやをうまく言語化できないまま、7月が来た。あえて言えば、「ああ、私は生かされてきたんだな」「私たちはとても便利な社会に生きてきたが、このまま何もしなければ、少しずつ不便が生活を取り囲むだろう」という感触だ。ごみの収集日が減って街は少しずつ臭うようになり、役所や病院で待つ時間はますます長くなり、そもそも病院がなくなり、保育園に子どもを入れられなくなり、道路は穴だらけで、街灯は暗いままで、水道は値上がりし、商品棚には物が並ばず、頼んだものは
やつを買う前に 言っておくッ! おれは以前 やつの別のテイストを ほんのちょっぴりだが 体験した い…いや… 体験したというよりは まったく理解を 超えていたのだが…… あ…ありのまま この前 起こった事を話すぜ! 「おれは 奴の前で財布の紐を固く縛ったと 思ったら いつのまにか緩んでいた」 な… 何を言っているのか わからねーと思うが おれも 何をされたのか わからなかった… 頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか そんなチャチなもんじ
どこまでいっても半分までしか理解できない。 けっして理解できなければ見えもしない余地がある。 分かり合えることはなく、ただ分かったつもりでいられる一時がある。 たとえ錯覚や誤解であっても、その一瞬は確かだと信じられる。 私たちが本当の意味で分かり合えないという厳然たる事実は、私たちは誰もがいずれ死ぬという事実と変わらない。 たまさか今日明日に死ぬことはないだろうと思えているだけで、本当に今日明日死なないとは限らないのだ。 だが、だからといって途方に暮れる必要はない
零れた思いを掬いとって紡いだ文章に 私には自分の文章がいちばん心地よい 手織りの文章 それが気持ちを受け止め 包んでくれる 自分で書いた文章に救われる
家にいる時間が長くなった生活で、息が詰まりそうにもなりますが、息抜きの秘訣は何かやると決めることだと思います。今日はこのワインを飲む、このアルバムを聴く。そうやって日常に一つの到達点”End”を置くことは、いつまで続くか分からないこの生活に確かな区切りをつけてくれます。 緊急事態宣言が出されてから一ヶ月以上が経ち、この間ゴールデンウイークも過ぎて段々とこの生活に慣れてきたように思えます。しかし、意識していないうちにストレスは積もっています。これまで家にいるのは外に出る用事
2020年4月30日現在、全国の飲食店が通常営業できていません。時短営業や臨時休業、初めてのテイクアウトといった対応に追われています。ひるがえって、全国のお客様も飲食店を通常通りには利用できていません。間隔の開いた席、多人数で囲めないテーブル、そもそも入れないお店、テイクアウトだけ利用できるお店。 かつてのような飲食店という場は失われました。たとえ緊急事態宣言が解除され、いつかCOVID-19の終息が訪れたとしても、以前の場ではもうありえないでしょう。場は飲食店を切り盛
生まれもった性への拘りはひとを不自由にもする。その昔、自分は体が男性で精神は女性、その上で女性が好きなのではないかと考えて悩んだ時期があった。ある時、単に私は女性が好きなんだと思うに至った。私がなんであれ女性が好きであることに変わりがないと思うことは、私をずいぶん楽にした。 男性であることに拘っていたころは随分とこの体が嫌いだった。醜いと感じていた。今では「生まれ持ったものなら活かさないともったいない」くらいに思って筋トレで整えている。筋トレすると萎んだ体に空気を入れ
音楽の話になってスガシカオが好きですと言うと、当時私が片思いしていた女性はそう言ったのだった。「めっちゃナルシスト、でもいいナルシスト」と。その言葉を折に触れて思い出す。ライヴに行った帰りは特にそうだ。 スガシカオのライヴに行って、スガシカオは自分がいいと思ったものに絶大な信頼を寄せていると改めて思った。スガシカオはおもねることをしない。「これ、どうですかね、へへへ」なんて態度を絶対にしない。「これ、いいっしょ。最高の出来」と何のてらいもなく言いきる。 何がスガシカ
小さいころから私は遠くへ行きたかった。山がすぐ見えるところで育った私は、いまでも川や海の輝く水面を見るたびその先を思って高揚する。その先とは世界であり、まだ知らない数多のことだ。紅茶とワインは遠い場所の象徴に思えた。 私の身の回りで紅茶やワインを日常的に飲む人はいなかった。母は一日にコーヒーを数回飲み、父は毎晩コップで日本酒を飲んだ。身近でなかったからこそ紅茶とワインは遠くへの憧れそのものになりえた。 紅茶を飲むたび自分を少し遠いところへ連れていってくれるような心地