困難に溺れていたら

困難に遭って溺れそうなとき、まずなにより陸(安全圏)に上がれることを目指してしまう。泳ぐ(自力)でも、ボート(サポート)でも。だが、どうしようもない困難ほど、陸を目指すのは難しい。溺れないことに必死過ぎて、陸にはとうてい辿り着けそうにない。

そこで重要なのは、浮輪(理解)の存在である。自分が溺れそうなのは、自分のせいというよりも、自分を取り巻く環境のせいだと気づく。溺れまいと必死にもがくことをいったん止めて、浮力を頼りに事態を冷静に見る。そうして泳ぐかボートに乗るか、はたまた波に乗るか(時間による解決)を選べる。

誰かが困難に遭っているとき、その程度が酷ければ酷いほどいきなり助けようとせずにまずは相手の状態を見た方がいい。なにも見ずに手を伸ばすと、相手に余力がないのに無理やり陸に揚げようとして、相手が溺れるか自分まで溺れる羽目になる。

悪い例:陸(安全圏)にいる自分が困難に溺れている人に向かって助け舟を出すと、相手は助け舟に乗るどころではないが、それが分からず相手に助かる気がないと悪態をつく。

悪い例:陸(安全圏)に居ても立ってもいられず自分も困難に飛び込むが、相手はこちらの助けに気づく余裕がないか、気づいたとしても助かるのに必死すぎて助ける側も困難に呑まれる。

助けるという行為は基本的に消耗戦である。この言い方に語弊があるなら、持久戦と言いかえてもいい。助けることは容易でなく、早く済むことでもない。そこで思い出す言葉がある。西尾維新の著作『化物語』で、とある人物がこう言うのだ。「助けない。君が勝手に助かるだけだよ」と。なんとも含蓄のある言い方である。声にするだけで効果のある言葉、あえて物語シリーズで鍵となる道具になぞらえるなら「お札」と呼んでもいい。

この言葉を思い返して、化物語で主人公がとる行動を改めて振り返れば、なるほど助けること自体の“むつかしさ(困難)”が見えてくるというものだ。勝手に助かってくれるなら、それに越したことはない。先の台詞を言った人物は、溺れている人に助言をすれこそ自ら助けようとはしない。そんな「元気」は当人にない。

助けるという行為は英雄的に讃えられもする。だが、神話を紐解けばすぐ気づくように、英雄の行為に悲劇はつきものである。その悲しみは英雄の行為をよりいっそう偉大にすると同時に、悲劇を乗り越える英雄の気高さをこれでもかと強調する。とはいえ、市井の人からしたら誰も悲しまないで済むならそれでいいではないか。わざわざ英雄が出てくるほどの悲惨は、断れるものなら断りたい。

ふと思い浮かんだ話が、たゆたうままに何処とも知れないところまで流れ来てしまった。オチはない。今日のところは手近な波止場に止めることをご了承願いたい。月並みな話でまとめれば、助けようとすることも助けてもらおうとすることも、それが当面無理ならいったん止めておいた方が互いのためである。

そういえば、厚生労働省が管理している以下のサイトは困難に溺れているときに使えそうなボート(サポート)なり浮輪(理解)が載っていて便利である。私が5月に絶不調に陥っていたときも、とりあえず電話して話を聴いてもらうことで気持ちがどうにかなったものだ。


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