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遠くへの憧れ:紅茶とワイン

 小さいころから私は遠くへ行きたかった。山がすぐ見えるところで育った私は、いまでも川や海の輝く水面を見るたびその先を思って高揚する。その先とは世界であり、まだ知らない数多のことだ。紅茶とワインは遠い場所の象徴に思えた。

 私の身の回りで紅茶やワインを日常的に飲む人はいなかった。母は一日にコーヒーを数回飲み、父は毎晩コップで日本酒を飲んだ。身近でなかったからこそ紅茶とワインは遠くへの憧れそのものになりえた。

 紅茶を飲むたび自分を少し遠いところへ連れていってくれるような心地がした。高校時代の弁当のお供はほとんど毎回午後の紅茶だった。後にも先にもあれほど午後の紅茶を飲んだ日々はない。紅茶の専門店「Afternoon Tea」は十代の私には夢の場所で、好きな人と初めて二人で会うときは必ず行った。

 その後ワインを飲むようになって、紅茶はめっきり飲まなくなった。今はコーヒーを毎朝飲んでいる。世界の象徴はワインになった。ワインを飲むたび私は世界の不思議と素晴らしさに中てられてしまう。

「まるで世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。」新海誠『言の葉の庭』

 あるときから私は、どんなに頑張っても世界の半分までしか自分には知りようがないのだと考えるようになった。もう半分は私には分からない。私が理解している世界はいつだって不完全で不正確である。そう考えるほどに、世界をもっと鮮明に精確に捉えられるようになりたいと願い、そう努めた。私ひとりには決して汲みつくせない世界。その世界のもう半分とは言わないまでも、私が知らない部分を私以外のひとが知っている。

 ワインをひとと飲むことは私を遠くへ連れていってくれると同時に、この世界の輪郭を時にはハッキリさせ時にはぼやけさせる。分からなかったことが分かり、分かったつもりのことが分からなくなる。そうした揺らぎをもたらしてくれる。ワイングラスに唇が触れるとき、まだ見ぬ世界の扉を叩いている。

 遠くへ行きたい気持ちがあるのは別に今いる場所が嫌いだからではない。そこにいてもいいし、他へいってもいいという入退出の自由があってほしい。なによりも嫌いなのはそこにいるしかない、そこから出られないという閉塞だ。

 どれほど元気がないときでも、自分の立ち位置が分からなくなったときでも。電車が川を横切り橋の上から水が流れる向こう側を見るたび、私はあそこへ行きたいと強くつよく願う。

 昨日も今日もこれからも、私はワインを飲み続ける。そうしていつでも遠くに臨み、未知を望んでいる。私がまだ知らない世界を向いて――

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