この世界の半分
どこまでいっても半分までしか理解できない。
けっして理解できなければ見えもしない余地がある。
分かり合えることはなく、ただ分かったつもりでいられる一時がある。
たとえ錯覚や誤解であっても、その一瞬は確かだと信じられる。
私たちが本当の意味で分かり合えないという厳然たる事実は、私たちは誰もがいずれ死ぬという事実と変わらない。
たまさか今日明日に死ぬことはないだろうと思えているだけで、本当に今日明日死なないとは限らないのだ。
だが、だからといって途方に暮れる必要はない。
その事実、見ないでいられた現実に直面したからと言って終わり“End”ではない。
その実、始まり“Start”に立ち戻り、行きつき、落ち着いただけである。
私たちが分かり合えず、やがて死ぬのは今に始まったことではない。
ずっとそうだったのだ。
それに気づかないでいられたにすぎず、終わったようでいて始まりに戻ってきただけなのだ。
だから私たちはもう一度始められる。
厳然たる事実を忘れられる愚かさから。
私たちは分かり合うことができ、今日明日に突然死んでしまうことはないと夢を見ながら。
夢から醒めては現実に“戻る”ことを繰り返しながら。
そうやって始まりと終わりの円環のなかで、私たちは生きている。
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