しくじり先生で放送されたハマカーンの「真実の漫才」を見て、仕事の嘘について考える

仕事の嘘や表現はどこまで許容されるのか

ABEMAでやっているしくじり先生をみていると、嬉しいことにハマカーンが出ていた。

神田さんが芸人を辞めようか悩んでいたそうで、理由としては自分がバラエティに向いてないと自覚したかららしい。

実力主義の芸能界で、仕事を続けていくのは難しいだろうし、忙しいしプライベートもなくなるので、いろいろと悩みが生まれるのは普通のことだろう。正直、お金を全然稼げずにプライベートだけ無い生活だったら、めちゃくちゃ辞めたいと思う。

普通の芸人は貧乏生活をして、なんとか一攫千金のために自分の理想を捻じ曲げて、市場の需要に合わせて自分を変形させていく。

そのような気持ちで仕事をしている人は、会社員でもどんな業界でもそうだと思う。こんな仕事やるために、この業界に入ったんじゃない。と悩む。

そして人は偽るようになる。自分を騙し、金銭的な報酬を得るためや、仕事として成立させるように誤魔化していく。

保険販売員なら、保険を要らないような人を不安に陥れて客が得しない保険を販売するわけであるし、銀行ならお年寄りに理解できないような金融商品を買わせて、客が何を買ったのか忘れるまで待つ。

芸人の場合、人を笑わせるのが仕事である。なので、嘘とは相性がいい。

人を笑わせることに特化すれば、人を騙しても笑わせたり、その場の仕事を成立させることにフォーカスしてしまう。だが、その現場の向こうには視聴者がいて、様々な立場の人がいる。

その嘘で傷つく人もいれば、嘘に呆れて笑っていない人もいる。嘘しか言わない人間なら、人として信用を失って人気がなくなるかもしれない。

神田さんは、若手時代からお金には困っていなかったそうなので、そういう意味ではお金への執着は無い気がする。お金を得るために、いろんなことを犠牲にして、どんな仕事でも受けるというのが売れる前の芸人のモチベーションであることが多い。だが、リッチな神田さんがそのような精神状態にならないのはある意味自然である。

むしろ、それが仕事へ向き合う人間の本当の姿である気もする。日本が貧しくなっているとはいえ、モノに囲まれて、普通に生きていけるだけは大体の人が仕事で稼げる。仕事で人を傷つけないようにフォーカスしている人が居ても良い。

無理してまで自分の嫌なことや、人を傷つける可能性がある表現をテレビの電波に乗せて放送する理由はあるんだろうか。

簡単な嘘はもう誰もが理解していて、別にわざわざ指摘するまでもない。視聴者がそれも求めてないとしたら、需要と供給がマッチしていないし、ホラ吹きが身を削って大金を稼ぐだけで、誰も喜ばないシステムになってしまう。

最低限の気遣いは人として生きるためには必要だし、協調性という曖昧な言葉で語られる日本の文化は、一種の同調圧力に近い。

バラエティ現場の仕事で求められることを行うことは、必ずしも視聴者が求めていることとは限らない。

神田さんが正直に発言した場合、「嘘偽りないから信用できる!」という人もいれば、「バラエティのお約束守れよ!」というテレビ被れの視聴者もいるだろう。

どっちが良いということもない。どっちにも需要があるなら、テレビはどっちに合わせるんだ?ということだと思う。


嘘に溢れた社会で、視聴者は真実を求めている

今のテレビはほぼ高齢者のためのものである。

テレビとスマホが同程度というのは、スマホでTVerなどを使って、テレビで放送されている番組を見ている可能性もある。

だとすると、一概にテレビ離れが顕著というわけでもなさそうである。だが、今のテレビ番組があきらかに衰退しているのは目に見えている。

平成生まれが30代前半にいるので、そこらへんはテレビへの愛着は深いと思う。それと同時にwindows95が物心ついた時にはあった世代である。

テレビ vs ネットという構図はあまり好きではない。だが、残念ながらそれを望んだのはテレビを牛耳る高齢者である。

テレビを見ていたらCMが流れる。なんかの料理のCMであれば、CM中の料理はCMされている商品が使われたものではない。美味しく見られるように、食べられないようなペイントをされていたり、美味しく見えるよう撮影するためだけに作られた料理である。

それを騙しているのか、それくらいやるよね。という感覚になるかは、個人の判断だと思う。言い方は悪いが、おそらく高齢者がテレビを見続けるのは、カモにしやすいからだと思う。

テレビの裏のシステムを読めてしまう若者であれば、変な通信販売のCMを見て、バカバカしくて付き合ってられない。テレビを消してしまう。

化粧品にも「個人の感想です」と書かれている。温泉にタオルを浸けたら「許可を頂いて撮影しています」とテロップが出る。じゃあ、放送すんなよ。と昔は言われていたが、今はもうネットがあるので、本当にテレビを見る必要がなくなっている。

広告業界は嘘と相性がいいので、ネットでもテレビでも成長していく。結局のところ、広告無くしてメディアは生きていけない。そのようなビジネスモデルとは違って、Netflixだったりサブスクも出始めている。

多分、嘘を見たくない人は、映画を見るようにサブスクで適正料金を支払って、自分の見たいものを見るようになる。多様化する社会は嗜好が細分化されて、マーケティングで的確にターゲットへ向かう技術も合わされば、昔の紅白歌合戦のようなマスは取れなくなってくるかもしれない。


なんで誰も本当のことを言わなくなったのか

日本の文化であることが大きいのかもしれないが、間違いを指摘するのは場を盛り下げるような感覚がある。

嘘でも楽しめればいいし、嘘でもその場が上手くまとまれば良い、みたいな文化は普通の感覚になっている。それで仲間内で楽しんだり、経理担当の部長と部下が横領する事件も最近よく目につく。

協調性があると言えばそうかもしれないが、仲間同士で本当の意味で信頼関係を築けないだろうし、ある意味、金で繋がった運命共同体になる。

運命共同体の規模が大きくなるほど、誰もその関係性を壊せなくなる。メディアであれば、大きな広告主からお金が出ているわけだから、それをブチ壊してしまうと、番組制作全てに関わる人達の人生が飛ぶことになる。

構造的に常に圧力がかかって人質がいる状況では、言われたことをやるだけで、誰も本当のことを言わなくなった。

パワハラが横行する会社などにもよく見られる傾向だと思う。それと同時にパワハラなどモラルが厳しくなった現代だからこそ、未だにそれを続けるテレビにも厳しい目が向けられているのだと思う。そもそも報道番組にスポンサーがついてるなんて、そんなことあっていいんだろうか。

本当のことを言うなら、全員を道連れにして言うしか無い。あるいは、スポンサーまでひっくるめて、本当のことしか言わない番組として成立させるしかない。

「個人の感想」は一人ひとり違っても、人と同じでも良い。だが、「個人の感想で嘘をつく」ことは許されて良いんだろうか。金のために人は嘘をつくことに、罪悪感がなくなった。

結局のところ、テレビにもネットにも真実は落ちていない。自分が好きなところに集まって、楽しんでいるだけである。

それで嘘が発覚して騙されたと思ったら、また別のタレントのところへ流れていく。それの繰り返しで、止むことはない。

ハマカーンの神田さんのように、自虐的で人の言うことを真に受けずに物事をフェアに見れる人というのは、芸人を越えて何か求められるフィールドがあっても良いと思う。

金を人質にとられるから、何かにすがろうとする。金の心配がなければ、本当にフェアに見えるのかもしれない。

芸能界でも自分を偽り続けて、金を稼ぐことへの罪悪感から自ら命を絶つ人もいる。割り切るという言い方をするが、本当にそれは誰かに必要とされているのか。なんて冷静になる時間もない。

簡単に言えば、バラエティ番組では、視聴者に夢を見せられなくなったのかもしれない。

だから、あまり面白くない取り繕ったコンプラ遵守の嘘で勝負するか、100パーセントリアルに振り切るか、どちらかの道へ進むしかない。

嘘に溢れる社会で視聴者は疲れている。夢を見たいが、キラキラばかりみるのも精神的にしんどい。だからこそ、暴露系のような憂さ晴らしが支持される社会になってしまったのかもしれない。

本当のことを言って、ウケてる人がいたかな?とサッと記憶を遡ってみたら、「Why Japanese People」のネタが思い浮かんだ。

神田さんの感性はある意味、日本人離れしているところから来ているのかもしれない。

本当のことを言っている漫才が楽しく見れるようになる世界が来て欲しい。

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