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本当に格差を無くしたいと思っている日本人はいるのか

岸田総理になって、改めて格差是正という言葉をよく見るようになった。

みなさんは格差が無くなるべきと、心の底から思っているだろうか。

要は、貧困世帯を中間層にまで押し上げようというものである。お金を多めに稼いでいる人には、ちょっと我慢してもらおうという感じもある。

日本人の多くは現状の生活に幸福感を感じていない。それはお金が原因なのか、仕事が原因なのかわからずにいる。

少なくとも風呂無しトイレ共同アパートに住んでいるような人は、現状の生活から抜け出したいと考えている人が多いと仮定すれば、それは生活に満足していないと言える。

逆に普通の賃貸マンションぐらしで『今は問題なく生きているけど、将来どうなるかわからないから不安』みたいなものは、別に早急に手を打つ必要も無さそうだし、本人の努力次第というか、何に将来の不安を感じているのかを明確にして解決すれば済む話のようにも思える。

よく幸福を考える時にお金の議論が出る。幸福度とお金の関係というのは密接に関わっているという論文が多いし、逆にお金が増えれば増えるほど幸せになるものでもない。という研究もある。

何が正しいかは結局自分自身に問いかけてみるのが一番だと思うが、自分が幸せになる手段ばかり考えて、幸せになる人を増やそうと思っている人が少ないのであれば、社会全体の幸福度は下がるのかもしれない。

平均年収430万くらいで中央値はもっと下と言われている状況の中で、それより上の人でも幸せを感じていない人はいるだろうし、基本的にお金が足らないと思っている人ばかりであると思う。

貧しい人が幸せでないというのは、なんとなくわかる。病院にも行けないとか、日本の物価レベルで2~300円の買い物に悩むとか、明日のご飯がたべられるかわからないというレベルで、本人が自身を不幸であると思うなら、それは不幸かもしれない。

ただ、そこまでの貧困レベルの人間に対してあまり日本は寛容じゃないというか「まともに働いていれば、そんな生活レベルにはならない」とか「自分が甘えてたツケが回っただけ」とか、そういう見方をする人が必ず多くなる。

逆に何かITなどで一発当てたような人に対しては「そういう金の儲け方はしたくない」とか、全然羨ましくないと言う人も多い。

格差をなくしたいと考えているよりは、自分が平均の人間を出し抜きたいと思っている人が多い気がする。格差は無いほうが良いと漠然とわかっていても、みんなで貧乏する勇気はありますか?と聞けば、なんで真面目に働いているのに、そんなことしなきゃいけないんだ。とキレる人が大半であると思う。

私の個人的な意見としては、日本で貧困の人を救いたいと思っている人はあまりいないだろうし、そういうNPO的な活動をしている人を見てすごいなとは思うものの、別に寄付もしなければ、ふーん。という感じである。そういう感覚は生活保護受給者への偏見も生むことになると思う。

そういう人を救いたいと思う人が少ないから、最低賃金以下で働くような劣悪な労働環境が今もなお残っているだろうし、アルバイトのような非正規の雇用形態がさも当然のように偏見の目に晒されている。

自分が人を見下すことは自分が頑張ったことによる権利のようにみな思っているだろうし、それに対して特に深く考えていない。ただただ、自分の給料が低いとクレーマーのように言うだけで、それなのに10万円だろうが20万円だろうが給付金を貰っても貯金に回す。

仕事というのは選択は自由であるが、実際のところ日本の労働環境では自由に転職活動は出来ないだろうし、なりたい仕事になれることもなければ、誰しも満足にお金を稼げるわけではない。

アメリカのサービス業は時給は低いがチップがあるので、それなりに稼げる場合もあるらしい。私が学生時代に空港でアルバイトしていた時、搭乗ゲートまでトランジットで車椅子が必要な方への付添いの仕事をしていた。

そこで思ったことは、海外の人は普通に気前が良いことである。当時千円にも満たない時給で働いていたが、当たり前のように「Thank you. Have a nice day」と言って、2ドルとか10ドルとか、わずか10~20分付き添っただけでくれるのである。

戦後移住したっぽい日系ブラジル人の人を見送る時に「日本円じゃないけどゴメンね。これでコーヒー買って。」と、くしゃくしゃのドル札を握らされて、2ドルくれたと思ってお礼を言いながらポケットに仕舞ったら、後で確認したら200ドルだったこともある。

もちろん全員がくれるわけじゃないが、一日数組担当して1~2人はくれた。文化的にくれる国とくれない国もあるので、どの国から来る便によるだろうが、ほぼ100%日本人がくれることはなかった。

当時「Are you working here?」と聞かれて「yeah! Newark gate is here!」と答えていた自分のホスピタリティでも、大盤振る舞いでチップをくれる人がいるわけである。ようは、私の接客技術が素晴らしかったわけではない。むしろダメな方である。

ただ、死んだ魚のような目をして働く人間にでも人権を認めて、仕事ぶりを認めて、システマチックな文化的な背景はあるにしても、一定のチップを弾んでくれるわけである。

この経験は日本と海外のメンタリティの違いを深く考察するキッカケになった。日本人の常識からして、今日遭ったばかりの見ず知らずのバイトで働いている人間に2万あげる人なんかいるだろうか。

夢物語というか、起こり得ないことに違いない。だが、海外の人であれば、普通に当たり前のようにやる人がいる。

極端な言い方だろうが、日本は財布を落としても持ち主の元に戻ってくるとか言うが、海外はいろいろな人にお金が回っている感じはする。

結局、何が言いたいのかと言えば、やる気がないのに格差是正などと言っても仕方がないということである。

日本が他人と差をつけて、優越感に浸りたい人間が多い国であるとするならば、そんな格差是正の政策を実行しようとしても、うまく機能するはずがない。

どんな立場の人でも、別け隔てなく助け合って生きていこうとする気概があるなら、その方向に進むべきだと思うが、私は正直日本では無理だと思う。

年収500万でも給料が少ないとか、なんで俺が汗水流した金を他人にあげないといけないんだ。とか、そういう事が言われているうちは無理だと思う。

自分が月収20万で生きているとして、10万友達に貸せる人がどれだけいるだろうか。貸し借りのその行動が良い悪いの問題ではなく、そういう事ができる人間がいるかいないかの話でいえば、日本にはいない気がする。

日本人にとって、自分と他人は違うものであって、自分が生きるか死ぬかも自分次第なところがある。自分の人生に他人は関与しないことを前提に生きているだろうし、最も人生に影響を与えるものは金か金で買えるものであると考えている人が多い。

日本の経済規模であれば、まともに経済成長していれば最低賃金が倍くらいになっていても不思議ではない。最低賃金を上げる事は可能だが、奴隷労働で雇用を守っている企業が潰れるので反発する。

従業員もクビになって路頭に迷うよりはブラック労働で残業代や最低賃金が欲しいので、最低賃金を上げろというデモが起こることはない。

冷静に考えて、実力と関係なく年功序列や雇用形態で給料が勝手に決められていて、副業も禁止されていて、チップも無く、何をモチベーションに仕事を頑張ればいいんだろうか。

外資コンサルやキャリア官僚なら別だが、大企業でも1~2年で転職する人間は腑抜け扱いされ、社会全体で転職規制をかけられている分、見方によっては中国以上の管理社会のような気もする。

「給料がよかったんで御社に応募しました。」と言ったら落ちるだろうし、「前職の仕事がある程度身についてルーティンになってやる気なくなったので」と言っても面接で落ちる。

面接がしばらく通らなければ履歴書の空白期間が長くなって、数年開くとほぼ一般的な再就職は不可能になる。

やりたくないことを辞めた人間はプー太郎になるべく強制されているような社会が、格差がどうのこうの言ってられるのだろうか。と思ってしまう。

それは政府が一時的に数万円配ったらなんとかなるものでもないし、日本の足の引っ張り合いのような文化であったり、面倒なことを他人に押し付けて自分は知らん顔できる能力であったり、日本が間違った方向に進むことになった根本的なメンタリティを排除しない限り、どんどん格差は広がるし、誰も幸せにならない。

格差とは物理的な金の量の過多ではない。人の偏見や共感性の欠如や頭の硬さである。

格差を縮めようとしている人がいないのに縮まるわけがない。それくらい他人に無頓着であるし、別に自分が良ければいいと思っている。

命の次に金が大事と考えている人は多い。それは海外でも日本人でも同じだと思う。

ただ、海外の人は大事なものだからこそ他人に分け与える重要性を知っている気がする。日本人のほとんどがその感覚を知らずに生きているんだと思う。

大事なものを自分だけで独占するのか社会と共有するのか、その根本的な考え方が格差を広げるのか、縮めるのかの違いになるかもしれない。







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