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春を謳う鯨 ⑰

◆◇◇◇ ⑯ ◇◇◇◆

佐竹さんは、見てといわれた珍しい動物を林の中にまだ、見つけられていないような顔つきで、うん…いいよ…お祝いなんて、嬉しいな。なあに? と、鈴香を見つめた。

鈴香は鷹揚に、足元に置いていた通勤鞄を開けて、ラップを取り出した。

佐竹さんの目がひっそりと、歓喜で見開かれるのを見て、鈴香は機嫌よく、微笑んだ。

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こんな風で、大丈夫ですか? 痛くない? なんだか心配。

鈴香はそっと、佐竹さんの頰に、足を置いた。

ああ…鈴ちゃん…鈴ちゃん、僕は…。

鈴香の今日の仕事着は、ブラウスとスカートの組み合わせだった。ストッキングのままがいいか素足がいいか、鈴香が訊くと、佐竹さんは一瞬、考えてから、初めはストッキングの上からで、そのあと口でストッキングを脱がせたいと言った。トランクスだけになった佐竹さんに、前で腕を組ませて、いったん固定してから、鈴香はそれが前後に動かないように、また、ラップを巻きつけた。いま、佐竹さんは、ベッドとテーブルのあいだに横たわって、ソファの肘掛に手をついてバランスをとった鈴香に、…顔を、踏まれて、恍惚としていた。

思った通り?

ううん…。もちろん、思った以上だよ…。想像というのは結局、空想の一種であって、どんなに色めいて見えていたって、色のある世界の比類なさに比べたらやはり、空無なんだ…だから、こうやって僕は…。これは…これは宇宙だ…僕はいま、ある新しい世界のなかで、新しい物理を学んでいる…。素晴らしいよ、鈴ちゃん…。

…。

いいんだ、そのまま顔全体を踏んでほしいな…おでことか、目とか口とかもね…もう少しなら、強くてもいいかもしれない…。

眼鏡のない佐竹さんは目が大きく見えて、梟のようだと、鈴香は思った。眼鏡を掛けていない佐竹さんも見慣れているはずなのに、やっぱり鈴香のなかでは、眼鏡を掛けている佐竹さんのほうが、佐竹さんらしく思えた。

鈴香は佐竹さんが言うようにじわじわと力を入れながら、佐竹さんの顔の色々なところに、色々な置きかたで、足を乗せた。少しずつ場所を下げて、首や、胸や、お腹も、踏んでみた。ラップの上から乳首のまわりを足指でつまむと、佐竹さんは切なげに、あ、あ、鈴ちゃん…と、ときどき声を漏らして、もじもじと下半身を蠢かせた。鈴香は、トランクスの上から佐竹さんを、足の親指と人差し指で挟んで、温めてあげるように、やんわりと確かめた。佐竹さんはもう、濡れはじめていた。鈴香は佐竹さんを足の全体で押さえて、佐竹さんがねっとりとした水音を立てるまで、佐竹さんの先端を、愛撫した。湿ったつま先を差し出すと、佐竹さんは体を横倒しにして、鈴香をしゃぶった。鈴香のくるぶしまで、舌を這わせてから、佐竹さんは勢いをつけて身を起こし、鈴香の前に正座する格好になって、鈴香の内腿をストッキング越しに、舐め上げた。

破れてしまっても、大丈夫かな。ストッキングに対する女性の愛着って、僕にはわからないからね。大抵のストッキングなら買い直してあげられるけど…おばあちゃんの形見とかでは、ないよね…?

鈴香は微笑んだ。

いいですよ。ちゃんと替えも、持ち歩いてます。

…この下に、鈴ちゃんの素肌が…たまらない…。なんという奇跡だろう…。ねえ鈴ちゃん、鈴ちゃんは、奇跡だ…。

そう…?

佐竹さんは鈴香の腿をべったりと舐めながら、膝立ちになり、スカートのなかに潜って、ストッキングのゴムの部分を歯を立てて捉えた。太腿まで下ろしたところで、佐竹さんは鈴香の両腿とストッキングのあいだに顔を埋めて、締めてほしいと言った。鈴香が佐竹さんを挟むと、首を振って呻く佐竹さんの髪が、鈴香の恥骨の周りを下着越しに、さわさわと撫でた。佐竹さんが思ったよりスムーズに鈴香のストッキングを下げてしまったから、鈴香は佐竹さんに頭からストッキングを被せて、正面から黙って見つめて、やめて、やめて鈴ちゃん、後生だから、といやいやをする佐竹さんを少し、涙目にさせた。鈴香がストッキングを外して、嬉しかった? と訊くと、佐竹さんは涙目のまま、こくり、こくりと、頷いた。

もっともっと踏んでおくれ、と、佐竹さんは言って、ぱたんと床に倒れた。鈴香は足裏全体を使ったり、親指と母指丘で佐竹さんのこめかみをなぞって、髪に足指を潜らせたりした。佐竹さんは目を閉じて、味わっていた。

好きだと思う綺麗な人の綺麗な顔に乗せた、自分の足が、綺麗だ。

とどのつまり、ごく普通に生きている鈴香のような人間の人生にはきっと何度もないだろう、こういう瞬間のために、鈴香は毎週、足の手入れをして、自爪を磨き上げているのだと…鈴香はいま、自分の手入れに、とても、満足していた。綺麗で、健康的な、鈴香の爪、綺麗で、健康的な、佐竹さんの頰…。

脱ぎましょうか。

佐竹さんは相変わらず、されるがままだったけれど、じっとりと中心を湿らせたトランクスを脱がせて鈴香が、太腿をラップで巻いたあと、佐竹さんを俯せにして高く、腰を上げさせたときには、不安げに、鈴ちゃん…? と、声をかけた。

鈴香は、外側が優しいミルクティー色で、内側がまるで本当の桃のような鮮やかな桃色をしている、佐竹さんの無毛の入口に、リップ用に持ち歩いているワセリンを馴染ませた玩具を、あてがった。ミナガワのことを考えてみたけれど、きっとミナガワはこんな気持ちではなかっただろう、ということしか、わからなかった。そもそも、こんな気持ち、というのがどんな気持ちなのかも、鈴香には定かではなかった。優しい気持ち…? 楽しい気持ち…? 興味深い気持ち…?

気持ちよくなるまで、時間、かかるみたいだから、それまでちょっと、待ってみてくださいね。あ…そっか、したこと、ある…?

佐竹さんは、泣きそうな顔で…どういう意味なんだろう? 佐竹さんの気持ちも、ときどき、全然、わからない…ないよ、ないんだけど、ないんだ、だから鈴ちゃん…と、もごもごと呟いた。

嬉しい…?

佐竹さんは、蓑虫のようにぐるぐる巻きで…動揺と苦悶と羞恥の入り混じった、複雑な様子で、顔をくしゃくしゃにして、苦しそうに、うん、うん…と、言った。

ちゃんとしたやつじゃないから…でも、待ってみましょうね。一緒に。ね。

うん…。

あ、…ベッド行きます?

ううん、床がいい。

佐竹さんはとても従順で、しんみりと言っていいくらい、静かだった。スイッチを入れたあと、鈴香は佐竹さんに膝枕をしてあげた。鈴香と佐竹さんは無言で、見つめあった。こもったような振動音と、冷房の音と、廊下を清掃員が通る物音が聞こえた。ときどき、佐竹さんが微笑んで、鈴香が微笑み返したり、鈴香が微笑んで、佐竹さんが微笑み返したりして…そんなふうに、どれくらいたったころか、鈴香はとても、うっとりした気分になって、佐竹さんに口づけた。軽やかな、明るい、優しいキスになった。鈴香は顔を離してからもしばらく、同じように優しげな様子の佐竹さんを、うっとり、見つめていた。鈴香はくすりと、笑みをこぼした。

どうしたの?

佐竹さん、ツタンカーメンみたい。

すると、佐竹さんは目をくわっと開けて、顔を硬直させてみせながら、声を低めて、厳かに言った。

なるほど。僕もちょうど、死後の世界について考えていたところだよ。

ふふ。佐竹さんたら。なんだっけ、心臓が…。

羽根よりも軽いと、天国に行くんだ。罪のない人の心臓だけが、羽根よりも軽い。

…エジプト人のセックスって、どんな感じだったんでしょうね…。

まあ、セックスは文化だからね。きっと、僕らとほとんど同じことを、僕らとはほとんど同じところのない感覚、で…して、いたんだろう、ね…。…?

どうしました…?

うん…きた、かも。鈴ちゃん、これね…これ、かな…?

ふうん…?

鈴香は佐竹さんに触ってみた。

佐竹さんは急に、う、と呻いて、じたばたしたかと思うと、そのうちに、鈴ちゃん、鈴ちゃんだめ、これだめだよねえ、と、暴れ出して、やがてくるりと体を丸めてうずくまり、大きな声で悲鳴をあげて、鈴香を驚かせた。佐竹さんはなんとも言えない、あまり美しくない悲鳴をあげ続けて、あまり美しくない動きでびくびくと震えて、ときどき、間欠泉のように、痙攣する腰でぱたぱたと精液を飛び散らせていた。だめえ、これ、だめえ…と、床に崩れるほど顔を押し付けて声を震わせる佐竹さんの、背中に鈴香は手を置いてみたけれど、佐竹さんはそれどころではないみたいだから引っ込めて、佐竹さんの隣で座って、…悦がり狂う…佐竹さんを、眺めることにした。

そうだ、こういうのは、ただ待つ人間には、とても、長い…。

鈴香は、佐竹さんの波と波のあいだが開いてきた頃合いに、そっと、囁いた…すごい…こんなになるんですね。佐竹さん、才能あるんだ…。

鈴ちゃん…。なんという…ね、こりゃすごい、みたいなの、適当に買ったでしょう、僕、ちょっと間抜けな感じで、のんびり陽気に、開発されるのも、夢、だったのに…。

少し我に返ったようなそぶりを見せた佐竹さんの、体の隙間に手を差し入れて鈴香は、佐竹さんを触ろうとした。すると、佐竹さんは首を振って、鈴香を止めた。

う…。

佐竹さんはまた、ぶるっと震えて…それが、最後の快感だったのか、部屋はまた、鈍い振動音が聞こえるほど、静かになった。

鈴香は、体育座りで、佐竹さんの惚けたような顔を、じっと、見つめた。忘れた頃に、佐竹さんが自分から切ってというまで、スイッチは入れっぱなしにして、虚脱した佐竹さんが戻ってくるのを、じっと、待っていた。幸せそうでよかった、と、鈴香は思って、そんな鈴香に気づいたのか、佐竹さんは爽やかな、満ち足りた表情で、鈴香に力なく、笑いかけた。

ね、佐竹さん…まだ、頑張れますか? 私、佐竹さんのいまの顔、見てたら、興奮、してきちゃった。…精子の匂いかな…?

鈴香はスカートと下着を脱いで、下だけ裸になってみた。ベッドに腰掛けて、脚を開くと、佐竹さんは一瞬、絶望したような表情を鈴香に見せた。

あ…だめ…?

そんなわけ…違うんだ、そんなわけないよ。ね、鈴ちゃん、僕はね、いまほんとうに、心がふるえて…僕はいったい、なにをして、どんなに素晴らしいことをして、君に出会えたんだろう、それがもう、思い出せなくて、悲しくなって…。

…。佐竹さん。来て。私、いま、待ってます。

そうだね、いま…と呟いて、尺取り虫のように、息を弾ませながらどうにか、床を進んで鈴香の足元にたどり着いた佐竹さんは、さっき鈴香が見たあの場所と同じ、鮮やかな桃色の、舌を突き出して、鈴香の脚のあいだに、顔を埋めた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。