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春を謳う鯨 ⑱

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ね、佐竹さん…まだ、頑張れますか? 私、佐竹さんのいまの顔、見てたら、興奮、してきちゃった。…精子の匂いかな…?

鈴香はスカートと下着を脱いで、下だけ裸になってみた。ベッドに腰掛けて、脚を開くと、佐竹さんは一瞬、絶望したような表情を鈴香に見せた。

あ…だめ…?

そんなわけ…違うんだ、そんなわけないよ。ね、鈴ちゃん、僕はね、いまほんとうに、心がふるえて…僕はいったい、なにをして、どんなに素晴らしいことをして、君に出会えたんだろう、それがもう、思い出せなくて、悲しくなって…。

…。佐竹さん。来て。私、いま、待ってます。

そうだね、いま…と呟いて、尺取り虫のように、息を弾ませながらどうにか、床を進んで鈴香の足元にたどり着いた佐竹さんは、さっき鈴香が見たあの場所と同じ、鮮やかな桃色の、舌を突き出して、鈴香の脚のあいだに、顔を埋めた。

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佐竹さんと鈴香は、伊豆の、散歩中に差し掛かったどこかの公園で、ジャングルジムの上で星を見てキスしたことがある。ふたりが夜を過ごしたのはその、一泊二日だけだ。

佐竹さんとは、鈴香が社会人になって楢崎くんに夢中になって、あまり会わなくなってしまって、いったん、切れかけてしまったこともあるし、いまではもう会うにも、だいたいは2、3ヶ月に一度、レストランで話し込むか、ホテルで5、6時間一緒に過ごせればいいほどになってしまったけれど、去年はそれでも、ジェットコースターに乗って、観覧車の中で手を繋いだ。

8年間、佐竹さんと鈴香がきちんと「付き合って」いた期間は、ない。

鈴香が学生のあいだは、佐竹さんにはきちんとした、正式な伴侶がいた。鈴香は社会人になると同時に、楢崎くんにすっかり夢中になっていて、その頃は佐竹さんにはほとんど、会わなかったと思う。たぶん、佐竹さんとは相変わらずメールはしていて、だいたい季節の変わり目くらいに、一週間ほどかけて、10通程度のやり取りはいつも、あった。鈴香は楢崎くんについて困っていることを、佐竹さんに相談してみた。佐竹さんは、楢崎くんの肩を持ちつつも、鈴香のことを心配していて、でも、自分から会う約束を取り付けようとはしなかった。

働き始めてから2年ほど経った頃、つまり楢崎くんが…忌憚なく…鈴香にあれこれ言うようになって、鈴香は鈴香で、楢崎くんに使いかたを知られない時間が、必要だと思うようになった…そう、鈴香が、楢崎くんといることの息苦しさに気付き始めた頃…佐竹さんの伴侶は「アメリカに行った」。鈴香はまた、たまに、佐竹さんに会いにいくようになった。それから1年くらいのあいだに佐竹さんは独身になり、作家としても鈴香が時々、広告の隅にペンネームを見つけるくらいになって、いまは、畑の違う出版業界にいるらしい、編集部時代からの「友人」の男性と、猫2匹と、同居している。

まあ、嫌いになったんじゃない。嫌われたんだ。何かをしたから嫌われたんじゃないよ。何もしなかったから、嫌われたんだ。僕には、一緒に暮らす人間は必要だったんだけれど、それがいわゆる、愛情を伴うべき存在であることを僕は、むしろ求めていなかった。僕には、女性というのは「遠きにありて思うもの」なんだな…女性ときちんとお付き合いする甲斐性は僕には、なかったんだろうね。いまの、同居人もそういう奴なのでね、それはまあそうだろうと思うよ、奴を見ると。奴が独り身なのは、僕とはまた違う理由によるけれど…もともと、一緒に住まなければいけない相手としか結婚できないんなら、僕には結婚なんて、できやしなかったんだ。

学生時代は、鈴香が平日の昼を空けやすかった。佐竹さんは色々なことに詳しくて、色々なことを知るのが好きだった。水族館も、美術館も、科学館にも行った。佐竹さんの時間は、人々の活動の裏側に流れていた。佐竹さんと行く場所はどこもかしこも、空いていて、夜や休日に払うお金で、夜や休日よりずっと高いはずのものを、夜や休日よりゆっくりと、楽しめた。鈴香と佐竹さんは、セックスをたくさん、したかもしれないけれど、たくさん、「ふつうのデート」もした…並んでしゃがんで、線香花火をした。金町線に乗って帝釈天にお参りして、お好み焼きを食べて駄菓子を買った。湘南まで車で行って、かき氷を食べて帰ってきた。深夜の釣り堀に行った。ジオラマを走る電車で運ばれてくるオムライスを食べた。ビリヤードをして、卓球をして、ダーツをした。日帰りでスーパー銭湯に行った。スカイツリーの展望台に行った。クリスマスに赤坂でアイススケートをした。羽田空港に飛行機を見に行って、ミニ四駆でレースをした。お弁当を食べながら寄席をみた。…ローターを入れたまま、五反田のバルに行った。裸にストッキングと靴とトレンチコートとだけで井の頭線を往復しているとき、大学の文芸部の先輩がたまたま、渋谷まで同じ電車で、佐竹さんを紹介した。巣鴨に住んでいる佐竹さんの友人の家で、その夫婦がセックスするのをワインを飲みながらみて、とても感謝された。薬のせいというだけで、できるけれど全然達しない、佐竹さんと繋がったまま、昼寝をした…。

大学卒業の前に会ったとき、佐竹さんは待ち合わせ場所に、プレゼントなのが明らかな紙袋を持って現れた。佐竹さんは、前戯を中断して袋を手渡して、開けておくれよ、と、鈴香の後ろに鈴香を抱きしめるように座って、鈴香が袋を開けるあいだじゅう、鈴香を焦らした。

援助交際みたいになっちゃうから、物はいらないって、言ってるのに…私もう、いっぱい、大事にしてもらってます…。

いいんだよ。喜んでくれるかもしれないと思ったら、矢も盾もたまらなくなっちゃうのが、男性心理というものだ。半分は、自分のためなんだから。

もちろん、嬉しいですけど…こんなちゃんとしたもの贈られるの、初めてで、どうしていいかわかんないな…。なんですか? 身に付けるもの?

鈴ちゃんが大人になったときにも、恥ずかしくなくて、しかも普段使いにできる、きちんとした物を選んだつもりだよ。

箱を開けた。小ぶりのダイヤがすうっと並んだだけの、華奢で、凛とした、ホワイトゴールドのブレスレットだった。鈴香が取り出すと、ラブホテルの、黄昏色の照明に当たって、煌めきが虹色に、揺れた。

え…。これ、本物です…? 高かったんじゃない…? 私、佐竹さんになにも、お返しあげられないです…こんな…嬉しいですけど、こんな…。

佐竹さんはゆるゆると首を横に振って、鈴香にブレスレットをつけて、ブレスレットの上から鈴香の手首を柔らかく包んだ。

鈴ちゃん…君は僕に、人生をくれた。僕に僕の人生をくれたし、僕に君の人生をくれたんだ。僕になにかを返す必要なんてない。僕がいま、こうやって、返してるんだ。

けどねどうやっても、返しきれないや。今だって、これを、そんなふうに受け取ってもらっているもの。と、佐竹さんは呟いて、鈴香を抱きしめた。

もちろん、付けなくてもいいけど、似合うと思う日は、付けていて。きっと、君を守るよ。



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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。