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春を謳う鯨 ⑯

◆◇◇◇ ⑮ ◇◇◇◆

乗り換え、降りるところあっちのほう。

楢崎くんと、ムール貝を売っていそうなスーパーの話をしながら、電車の中吊りを見た鈴香は…同じ出版社だった、…今朝がた、楢崎くんの読んでいた新聞で、なにかの賞を取った佐竹さんの絵本の広告を見たことを、思い出していた。

水曜に会うとき、婚約の話をして、佐竹さんには受賞おめでとう、と言ったら、佐竹さんは…鈴ちゃんこそじゃあ、今日は受精おめでとうの前祝いだね、なんて、冗談を言いそうだな、と、鈴香は思った。


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佐竹さんとそういう意味で会う日は、マークシティの端で待ち合わせて、そのまま円山町に入るのが暗黙の了解のようになっているけれど、今日は遅めの昼食を恵比寿のカフェで取ってから、そのまま近隣のホテルで過ごすことになっていた。カフェは佐竹さんがよく、評論やエッセイを書くというカフェで、そういえば、鈴香は学生の頃に一度きりしか、行ったことがない。地図で確認すると、記憶よりずっと、駅から離れた場所にあって、意外だった。夜は地図のついでに簡単に調べものをして、朝、佐竹さんのために買ってみた玩具を、クローゼットの奥から出してポーチに入れ、鞄に放り込んで出勤した。部署の人たちにつつがなく、午後半休の引き継ぎをして、会社を出た鈴香は、22cm50m巻きのラップを1本、買い足してから、電車に乗った。

「だって」…「佐竹さんは」…「鈴香の大切な人なんだから」…。鈴香はブレスレットを手首に押し付けた。

…きっと君を、守るよ。

「ずっと同じの付けてるから、彼氏からの、プレゼントなんだろうなって」。ミナガワが初めて、鈴香のプライベートについて尋ねた時も…今思えば妙に緊張した、まるで、ずっと考えていた質問を勇気を出して訊いた、というような雰囲気のミナガワを、きょとんと、見つめ返しながら、鈴香はこんな風に、右手首を押さえていた。鈴香はミナガワに、楢崎くんに言ったのと同じことを言った、「社会に出たときの初心を、忘れないって気持ち、大事にしたくて、自分で買ったの。私の心の、お守りなんだ」…。

そう言えば秘密にしておいても、格好がつくからだった。初心なんて、なかった。不安で、何も決まっていなくて、いつかこの梯子をなかなか上れなくなる時がくるのだと、上を、上を、ただ呆然と、見上げていた…。あの頃よりいまは少しは、高い場所に来ていて、あの頃よりも、色々なものが見えるけれど、それでも、まだ何かを確かに、掴んだわけではなくて…。そうだ、もし、梯子をかけ間違えていたら…? 鈴香は後悔しないと、決めている。けれどもし自分に、もっと「よい」人生を、与えることができていたと、取り返しのつかない地点まで行ってからはっきりと、わかったとき…鈴香はほんとうに、後悔しないだろうか…?

きっと、君を、守るよ…。

ニュースかゲームか本かの、狭苦しい、閉じた空間がぎっしり詰まった通勤時間帯とは違う、皆が皆、友達か恋人といるような、明るく浮かれた感じの山手線から降りたった鈴香は、地図を頼りに、カフェに向かった。確かになんとなく、見たことのある風景だった。

楢崎くんと急に、うまくいっているとか…ミナガワと今週末に会えることになってしまったとか…。それで、1ヶ月半も前から会う約束をしていたのに、やっぱり佐竹さんとは会わない、というのは、…違う気がする…で、いいのだろうか?

それに、8年間、会う約束はお互いに一度も、破ったことがない。鈴香は…たぶん、ううん、きっと、もう長いあいだ、佐竹さんに会わない理由を…佐竹さんに、会えなくなる理由を、探しているのだ、けれど…鈴香には、佐竹さんに会う理由もないのと同じで、会わない理由もなくて…。鈴香はいま、午後半休まで取って、足早に、真昼の住宅街を歩いている。それは、佐竹さんに会いたい、という、意味、なんだろうか…?

鈴香は歩きながら、…いつもそうなる…まだ躊躇っている自分に、呪文のように言い聞かせていた。「だって」「佐竹さんは、鈴香の」…。

だいたい佐竹さんだって、鈴香が付き合う子たちの話をしても、佐竹さんの本を最後まで読んだことがない話をしても、待合室で始まった、とりとめのない会話で時間を潰すような、興味がないわけでもないけれど大したことでもない、という風情でいることを考えると、鈴香にすごく思い入れがあるわけでも、たぶんないわけで…それでいて佐竹さんが、眠る前に遠い異国の物語を聞きたがる、子どものような表情をして、鈴香の話に静かに耳を傾ける、そんな時間は、気付けば鈴香の8年間のところどころに、金砂のように、散りばめられて、鈴香のぽつりぽつりとした頼りない足跡に、かすかな煌めきと華やぎを、与えていた。

こういうのを、なんというのだったか…。

ああ、そう、千夜一夜物語だ…。

佐竹さんは先にカフェに入っていて、所在なげにメニューを見ていた。純喫茶だ。きちんとしたコーヒーゼリーを売っているような…こんな場所だったか、鈴香はやっぱり、あまり覚えていなくて、けれど、佐竹さんが好きそうだな、と思ってから…佐竹さんが好きそうだな、と、前に来た時にも、思ったのを、思い出した。

佐竹さんは鼈甲風の、若造りな、新しい眼鏡をしていた。ついに老眼が入ってきちゃって…と、佐竹さんはぼやいた。春、会った時に、ちらほらとあった白髪は、今日は、なかった。





ちょっとした思いつきなんだけど、鈴ちゃんにしか言えない、お願いがあるんだ。

佐竹さんは、ホテルに入る前にコンビニで買った、ミニシャンパンを注いで、乾杯をして口に含んでから、グラスを置くと、恥ずかしそうに、言った。

いっつも、お願いばっかりですよ。私は佐竹さんの神さまじゃないのに。

鈴香は佐竹さんのすっきりしたうなじを撫でた。そうだった、いつもそう、…会ってしばらく話せばもう、会うのを躊躇っていたのがなぜだか、わからないくらいだった。佐竹さんは軽やかで、明るくて、ただそこに、たまたまいて、鈴香に優しく笑いかけているような、不思議な人で…なにより、佐竹さんはとても、綺麗な人だ。美容院で整えられたような眉、色素の薄い瞳に眠たげに被さる、深くて幅のある二重、長い長いまつげ、右側は目元にふたつ、下顎にひとつ、黒子がある。栄養のある美味しい食べ物でできた体、講演で鍛えた声帯、見える場所はもちろん、陰部に至るまで、全身、永久脱毛された肌、赤ちゃんみたいに薄い爪、赤ちゃん色の、無垢な形の唇。佐竹さんと会ったのは、もう8年も前で…佐竹さんはどんどん、綺麗になっている。そして…それと反比例するように、8年のうちにすっかり、趣味が難しくなってしまった…。

意地悪、言わないで。

佐竹さんは毎週、教会に通っていて、鈴香は佐竹さんから、いま書いている本や雑誌記事の話の合間に、色々な聖書のエピソードや賛美歌の話を、たくさん、聞いてきた。ちょっと待ってね、ラブホテルには、聖書は置いていないからね…と、近視の焦点を合わせるために片目をつぶって、携帯で一生懸命好きな聖句を検索する佐竹さんの顔は、好きな女の子に大好きなものを紹介してみせるときの男の子の、あの顔をしていて、鈴香はあまり、内容にはぴんとこないけれど、そういう佐竹さんを見るのは、愛らしくて好きだと思うときもある。

私にできること? 私、何か役を演じたり、盛り上げたりするの、あんまり…。

ううん。そのままでいいんだ。鈴ちゃんは鈴ちゃんでいいし、それがいい。ちょっとしたことなんだ。大したことでもないし、そんなに…なんていうか、過激なのは求めてないし…ただ、あまり人には言えなくて…。

ふうん…。

あのね…。

鈴香は、うなじにあてていた手で、そのまま、言い淀んでいる佐竹さんの耳を撫でた。

聞いてますよ。佐竹さんがお願い、言えるまでちゃんと、待ちます。

軽くでいいんだ。

うん。軽くで、いいんですね。

…顔を、踏んでほしいんだ。

…。

あ…もう少し説明させて。難しいんだ。侮蔑してほしいわけじゃない。蔑んでほしいとか、貶めてほしいとかでもない。暴力を、振るってほしいわけでももちろんない。君がいつも、僕を愛してくれる、そんなふうに、僕は君に踏まれたい。

鈴香は、シャンパンのグラスを空けてから、佐竹さんに尋ねた。

…。他には?

ううん、今日は、それだけ。でもね、そのことを今日お願いしよう、お願いしようって、昨日、考えたら、居ても立っても居られなくなって…。

確かに…佐竹さんは、口に出しただけで、スイッチが入ってしまったようだった。鈴香は佐竹さんの下腹部に視線を投げ、優しい気分になって、佐竹さんに微笑みかけた。

佐竹さん、かわいい。

鈴ちゃん…僕はやっぱり、いまだに懐疑的なんだよ、けど、鈴ちゃんに言われると、そこはかとなくそんな気がして、なんだか夢見心地で、嬉しいな…。

かわいい、と、鈴香は佐竹さんのシャツの中に手を入れた。吸い付くような…同じような表現ができるとしても、ミナガワの、もっちりとしたあの、あたたかで柔らかな、鈴香をどきどきさせて途惑わせるようなそれとは、はっきりと対をなすような…よく磨かれた優しい木肌を思わせる、静謐な、滑らかな肌に、鈴香は自分の掌を馴染ませて、うっとりとした。

それに、とっても、綺麗ですよ。…私は?

そりゃあ…なにも、言えないよ。君は色んなものを、あまりにも平然と超越しているもの。相変わらずだよ。君を目の前にすると、どうしていいかわからなくなって、叫びたくなる。

踏んでくださいって…?

佐竹さんは、鈴香の腕をそっと、握って、呟いた。

鈴ちゃん、…鈴ちゃん。僕は、どうすればいいと思う?

鈴香は佐竹さんの背中に手を回したまま、佐竹さんにもたれた。佐竹さんの襟元から、佐竹さんの香水の匂いが、立ち上っていた。鈴香はそれを、ゆっくり、吸い込んだ。遠い街の祭りに遊びに来て、迷子になって、やっと、知っている場所に出たような、安らかな気分になっていた。鞄を見た。せっかく、持ってきたのだし…。

わかんないけど、じゃ、やってみましょうか。…ただ…どうしようかな私、…遅ればせながら受賞記念に、本当の本当にただの余興みたいなものなんですけど、私も、思いつきでちょっとしたお楽しみ、用意してたの。どうしよう? してみて、いいですか?

佐竹さんは、見てといわれた珍しい動物を林の中にまだ、見つけられていないような顔つきで、うん…いいよ…お祝いなんて、嬉しいな。なあに? と、鈴香を見つめた。

鈴香は鷹揚に、足元に置いていた通勤鞄を開けて、ラップを取り出した。

佐竹さんの目がひっそりと、歓喜で見開かれるのを見て、鈴香は機嫌よく、微笑んだ。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。