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春を謳う鯨 ⑮

◆◇◇◇ ⑭ ◇◇◇◆

ミナガワはうっとりと鈴香を見つめながら、囁くように言った。

ね。覚えていて。鈴香のこと大好きな人とするセックスって、こういうのだよ。…当たり前だよ、好きでいいの。すごく素敵なことだよ。もっと、好きになろう?

ミナガワは鈴香に口づけた。どっと流れ込んでくるミナガワの気持ちを、必死に受け止めながら、鈴香は…はじめて…芯から、自分の心がふわりと、開くのを感じた。

ミナガワ…私、ミナガワと、するの、…だいすき…。

…。もう一回、言って?

だいすき。…だいすき。だいすき…。あ…。

鈴香は静かな、大きな波に乗り上げ、乗り越えたあとのように、穏やかに、けれどもはっきりと、自分が上り詰めて、緩んだのを感じた。

一気に吐き出される高まりを、ミナガワが手で受けて、ああ、鈴香、あったかいね…と、呟いているのが、…遠くの密談を盗聴しているような、不思議な近さで、鈴香に聞こえていた。


◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

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…鈴香は、頭を振って、未送信のメールに残りの返信文を打ち込んだ。確認、確認、調査、調査、稟議、稟議…人とのやり取りは五月雨式だし、ぶつ切りにこなすには作業が細かいうえ、自分が作ったわけではないから製品知識にはいつも見知らぬ穴があって、注意が必要で…役所仕事とはいえ、知財は誰も彼もが狙っていて、うっかり審査に通らなかったりしたらと思うと、気が気でない…。

いつも頭のどこかで、鈴香のこと考えてる。たぶん、寝てる時にも。起きるとなんだか幸せな気持ちの時あってね、覚えてないけど、鈴香の夢みてたんだろうなって。勝手に思ってる。

ミナガワ…。ミナガワは、はじめ、恋の病だと思う、仕事に手がつかないと、会うたびに息の上がったような表情で、鈴香を抱きしめていた…それが、さっきは別れ際に、いまはね応援してもらってるんだからって、なんだかメラメラ、頑張れるんだー、と、…とても、嬉しげな笑顔を、鈴香に見せて…。

そうだ、ミナガワはいま、鈴香が一度二度でなく見たことのあるあの、目を奪うような、撫でるような速さで、コードを打っているのかもしれない…。

鈴香は一度、深呼吸して、PCに向かった。ここは、鈴香のデスクだ。鈴香だけの場所、鈴香が任されている場所、鈴香が考えて鈴香が動かなければ、何も生まれない場所だ。鈴香の城はまだまだ、小さい…。鈴香は今日の仕掛書類の量と、残り時間を確かめた。




平日という平日は仕事と、仕事にまつわる考え事と、…ほんの少しの夢想と…日常のこまごました買い物で、過ぎてゆく。その隙間を、隠れるように縫って、本当ならきちんと焦点を当ててもいいだろう鈴香の人生の駒が、「とりあえず」のまま、取り返しがつかない仕方で、進んでいく。

鈴香は、楢崎くんとほんの少し、まじめに話し合った。お互いの実家への挨拶まわりを済ませて、鈴香が楢崎くんの家にとりあえず引っ越して、家を探しながら、無難に半年後の、鈴香の誕生日のタイミングで、籍を入れることにした。

指輪も土日で無事、気に入ったものを注文できた。鈴香は経験に、600万円の婚約指輪を…たぶん人生最初で最後…試着した。楢崎くんは鈴香の隣でタグを手に取って、苦笑した。限界効用逓減の法則だよ。それに、希少価値。綺麗だな、と鈴香は呟いた。販売員は終始無言で、鈴香たちに微笑みかけていた。カットやランクの話は、楢崎くんの方が得意で…ブースで貰う砂糖菓子をほおばりながら、隣に座った楢崎くんの口から、販売員に伝えられた予算を耳にした鈴香は、信じられないという顔を…これもあまり、しない顔…楢崎くんに向けた。楢崎くんは、それを横目に淡々と相談を済ませて、きっちり税引前給料3ヶ月分の、一粒ダイヤの婚約指輪を、受け取り時にカード一回で払うことにして、店を出た。帰り道、まだ目がちかちかしているような心地の鈴香の手を引いて、いつもよりはゆっくりした速度で…つまり、鈴香に合わせてということだ、機嫌がいい証拠…歩きながら、楢崎くんは、こういうところで手を抜くと、やれ隣の誰それさんはとか、あなたは結婚の時にとか、くねくねした耳障りな文句を数十年に亘って聞く羽目になるんだよ、と、肩をすくめてみせた。それに、俺はあと10年20年したとき、恥ずかしくて言えないような値段の指輪なんて、ごめんだな。

「一生分の一歩」だよ。俺はもう、これで結婚生活に関しては、義務という義務を果たしたと思う。鈴香だってつけるたびに、殺されて指を切られない国に生まれた幸せを、噛み締められるだろうし。

…。一歩は、どこまでいけてもやっぱり、一歩だと思うけどな。残りは? 人生はあと、60年近くあるのに、歩かないの? あと2回、生まれてから今までの時間があって、…あと12回分、知り合ってから今までの時間があるのに…。

これがあと12回しかないなんて、なんて人生って短いんだろう、と、ふと、思った。それも、鈴香と楢崎くんがこんな風に過ごせる5年間はきっともう、まるまる一回もない、鈴香は、そのあと…? 鈴香はそんな考え事に思いを馳せつつも、楢崎くんに話しかけ、話しかけながら、楢崎くんがティファニーの文言をなにげなく引用したことに、密かに、どきりとしていた。

思い返せば、鈴香は以前、婚約期間があるのはとても素敵だと思う、と、楢崎くんに言ったことがあった気がする。いつも、そう…外側だけ、数字だけ、イベントだけみるなら、楢崎くんは自分のことだけ考えているわけでは全然なくて、鈴香のぼんやりした憧れさえ、自分の予定に入れている、本当に「夢のような彼氏」なのに…と、鈴香はひとりごちた。

馬鹿だよねほんと…まさにその、見える部分、残る部分が、俺なのにね。鈴香はいつも、どうでもいい枝葉ばかり気にして。見えないものを見ようとするのは、趣味の範疇の話だろ。しかも鈴香は結局そこでも、本質的なことを、見落としててさ。いっつも、何も見ずに、何も決めずに、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ…。

楢崎くんはいつだったか、バーでほろ酔いになったときに、呟いていたっけ…。

そりゃそうだよ。ここで動物としての求愛行動は、打ち止め。射止めたあとは、孕ませて産ませて育てて、ただただそれを守る。どんなに文化を騒いでも、命を繋いで社会を築いていくって、そういうことだろ。結婚生活より家庭生活、夫婦生活より日常生活だよ。もう俺と鈴香は随分、二人の時間を持ってきたわけだし…。

私は、…結婚で何かが変わるのは、いやってわけじゃないけど、なんだか、怖いなあ…。

楢崎くんはしばらく、黙って駅までの道を歩いた。そして、前を見たまま、変わるかどうかは問題じゃないんだよ、問題はリスクの把握と、リスクに対する備えだ。怖がってる暇なんて、ないよ。その時間を使って、変わらずにいるにはどうすればいいか、考えないと。と、呟いた。

まあ…はじめの一歩のまま動かないのは、それはそれで賢いのかもね。こんな、3組に2組は別れる時代に。

そうかもしれない…誰だって、初めから別れるつもりで結婚なんて、しないはずだもんね。

楢崎くんはそこで、さっと、鈴香に目をやった。

どうかな。前提の狂いもあるんじゃない? 結婚したあとに、ありえない秘密が出てきて、耐えられなかったっていう話、結構、聞くよ。

…。ギャンブルとか?

ありきたりに、浮気とかね。

…。

鈴香は、沈黙が不自然に続かないよう…声がうわずらないことを祈りながら、鈴香の手を引くように少し前を歩いている楢崎くんの、目の見えない横顔を見上げて、言葉をかけた。

ふうん。でもそういうのって、たぶん、兆候があって、それを見落としてたってことでしょ。ある意味、自己責任じゃないのかな。

まあ、薄々気づいてたとしても、それも含めて好きになってるとは、なかなか思えないんじゃない? 変わってくれるかもしれないって、信じるしかない部分も、あるだろうし。

鈴香は話をそらそうと、あれこれ考えてみた。楢崎くんはどうして、こんな話を…? ううん、きっと普通のカップルだって話すようなことだ。けれど、楢崎くんにしては、こんな普通な話題を、普通に…。

それでいくと、そうだな、隠し子は、きついなぁ。

俺に?

いま、いたら面白いかなって思ってみたけど…私でもさすがにちょっとは、考えるかも。いる?

隠し子が? 期待に添えなくて悪いけど、いないね。もういるなら、鈴香といる意味、ないし。

そういうもの?

俺にはね。

動物っぽい…話、だね。

つまんないこと言うね? 相変わらず鈴香は、浅いよ。人間か動物かなんて、見たらわかるだろ。「どっちか」という議論がそもそも成り立たない。人間という動物として、俺が、どう生きるかという話だよ。

…。

まあ、…結局、繁殖に愛情が優先したって、俺はそれはそれでありだと思うけどね。子どもだって、自分のっていうことにすごくこだわりもないから、俺らでできなかったら、もらってもいいと思ってるし。人間らしく愛し合って見える人たちはたくさんいるけど、人間として愛し合ってる人たちがどれだけいるかは、知れたものじゃない。俺の考えでは、どんなに普通にみえたって、思想がない愛情なんて、よほど人間らしくないね。

隠し子を作る予定か…そうだな、今のところ、検討する予定はおろか、懸念する予定さえないよ、と楢崎くんは静かに、付け足した。

…なんか…たっくんの口から愛なんて言葉が出ると、不安になるなぁ。

なに言ってんの。愛しかないでしょ? 鈴香は俺とこんなにいて、俺の何を見てるの。

さあ。背が高いとか…仕事頑張ってるなとか…口が悪いとか…? 高い買い物をする日は張り切っちゃって、一番いいシャツ、着てるとか。

鈴香だって。今日は香水つけてる。

鈴香は、答えずに、楢崎くんの手を握りなおした。楢崎くんも鈴香の手を、握り返し、駅に降りる階段に差し掛かったとき、それを離して、先に降りた。そうだ、楢崎くんは階段ではいつも、登る時も降りる時も、鈴香の下の位置を取る…鈴香は、転んだことなんて、ないのだけれど…。

夕飯は? 昼にパエリア食べたいって言ってたあれ、まだ続いてるの?

うーん、作りかた、調べてないし…。

家庭料理だろ。俺らだっていっぱしの一般家庭には違いないわけだから、国籍関係なく、どうにかなるんじゃないの。

かもね。でも、こだわんなくていいよ…?

決め直すの面倒だから、パエリアはパエリアで変えないで。他に候補がないならそこはもう、議論しなくていい。

楢崎くんはため息をついた。

俺が困ってるのは副菜だよ。煮込み系はいらないの? アヒージョなら、具は? バゲットはちょっといいとこで買っていく? サラダやスープだってスペイン風がいいに決まってる。ワインや、炭酸水も欲しいし…やめてほしいとつねづね、思ってるんだけど、鈴香は思いつくだけの思いつきっぱなしで、全体を見たり見通しを立てたりするセンスが全然ないよ。付け合わせとか、いま残ってる食材の使い道とか、もうちょっと考えて献立、作れるようにならないと…。

楢崎くんは少し、物思わしげな顔をした。レシピで気になることでもあるのかもしれなかったけれど、何か酷いことを言いたいのを、我慢したのかもしれなかった。

どうせ、外で食べればいいかなとか、うっかり思ってただろ、さすがに今日は金、使いすぎ。だらしない。

楢崎くんは首を横に振って、携帯を取り出した。電車を待つあいだ、楢崎くんはずっと、調べ物をしていて、鈴香も手持ち無沙汰で…携帯を見ると、けれど、楢崎くんは眉をひそめ、自分の携帯をしまって、鈴香の手を取った。

乗り換え、降りるところあっちのほう。

楢崎くんと、ムール貝を売っていそうなスーパーの話をしながら、電車の中吊りを見た鈴香は…同じ出版社だった、…今朝がた、楢崎くんの読んでいた新聞で、なにかの賞を取った佐竹さんの絵本の広告を見たことを、思い出していた。

水曜に会うとき、婚約の話をして、佐竹さんには受賞おめでとう、と言ったら、佐竹さんは…鈴ちゃんこそじゃあ、今日は受精おめでとうの前祝いだね、なんて、冗談を言いそうだな、と、鈴香は思った。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。