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春を謳う鯨 ⑪

◆◇◇◇ ⑩ ◇◇◇◆

ミナガワは無言で頷いた。鈴香の耳にミナガワの濡れたまつげが当たった。背中に流れ落ちるミナガワの涙を感じながら、鈴香はミナガワに回した手をミナガワの腰に滑らせて、優しく叩いた。

ミナガワは、涙を拭って少し体を離して、鈴香の両肩に手を置いた。

唇も、温かくて、柔らかかった。

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ランチにリクエストしたイタリアンへ、先に入った鈴香は、ミナガワに視線で促されて、奥の席に座った。

会社からは「少し歩く」よりも、もうほんの少し歩くけれど、地下にあって、夜のような雰囲気で、昼からきちんとしたミニコースが食べられる店だ。すごい、こんなところあったんだ、…デート、みたいだね、と、小さな声で囁いて、ミナガワはとても嬉しそうに、ちらちらと鈴香に微笑みかけながら、品書きを見比べていた。

あれからもう、1年…席に着いた鈴香は、ミナガワの高揚した気分に照らされながら、脚を組み、組んだ脚がほんのりと、熱気を帯びるのを、感じた。

あの夜、あの、短くて柔らかなキスを終えたミナガワは、鈴香がそのせいでミナガワと会わなくなったりしないかどうかを、簡単に、けれど、とても大事なことだと言って、確認した。鈴香は、私そんな人じゃないでしょう、と言ってから、言った鈴香の表情に、不安げに目を泳がせているミナガワに気づいて、…ミナガワをじっと、見つめ返した。

こういうことのせいで…もっと親しくなることはあるかもしれないとは、一応、思ってるよ…? もちろん、ほらね、全然、嫌じゃないし…。

鈴香は、なるべく、やんわり、鈴香のラインを伝えるにはどうすればいいか、考えた。

…ただ、私、…。

ミナガワはあわてて、鈴香の口に手をかざして、首を振った。

ねえ、私は駄々をこねたり、しない。しないよ。オオムラにはオオムラの気持ちが、あるって、それだけはちゃんと、知ってるつもり。けどオオムラのこと、…好きすぎて、…限度が見えなくなっちゃうこと、あるかもしれないでしょう。その時、…そんな時ね、オオムラは、ちゃんと、言ってくれる? 私に気を遣ったり、優しいつもりで遠のいていったり…しない…?

鈴香は、くすぐったい気持ちになった。ミナガワって本当に、私のこと、好きなんだ。本当に、そういう、「好き」なんだね、と、鈴香が呟くと、ミナガワは大まじめな顔で、うん、好き…と、俯いて、そして突然、鈴香の手の甲を何度か、ぱしぱしと、リズムをとるように、叩いた。

ミナガワ…?

俯いたままのミナガワから、好きだよ…と、消え入るような声が聞こえた。ミナガワは語気を強めて、早口に、わかるでしょ見てれば。わかってたんでしょ、大好きすぎて、どうしていいか、わかんないじゃんバカ。と、言った。

ミナガワは、耳まで、赤くなっていた。

そのあと…ミナガワは、鈴香の好きなキスの仕方を、1つずつ聞いて、1つずつ、全部、してくれた。ミナガワは、鈴香って、呼んでもいい? と訊いてきて、鈴香はもちろん構わないと言った。ミナガワはキスの合間に、鈴香の名前を気恥ずかしげに、そしてとても嬉しそうに、呼んだ。

他の誰かとして気持ちよかったキスの話なんて、ミナガワが嫌だと思わないか、訊いた。ミナガワの唇の柔らかさに、溺れそうになって、息が切れかけている鈴香の頰に、ミナガワは頰を重ねて、頬骨に沿って、ついばむように柔らかな雨を降らせた。

ううん、むしろ鈴香がこんなにキス好きな子で、嬉しいよ? 可愛い…いっぱいいっぱい、色んなキスしたいよ。全然、やじゃない。…やじゃないっていうか、私にはすごく、大事なことだもん。鈴香が気持ちいいのが、大事なの。

鈴香は、はっとした。この、言葉…? これは鈴香が、ずっと…。

何が気持ちいいか、私には、隠さないで。鈴香の気持ちいいこと全部、知りたいよ。言い方がちょっと直接的かもしれないけど…私ね、射精以外のこと全部、してあげられる。これからは全部、私にさせて。

…鈴香は、グラスの下に溜まった雫をおしぼりで拭きながら、組んでいた脚を、締めた。

ミナガワがまるで少女のように見えたのは…恋を、しているからだった。

ミナガワは鈴香や楢崎くんとは、全然違うところで、生きてきた、全然違うタイプの、…大人、だった。鈴香が少しの満足を求めて開いたところから、ミナガワは指一本で、たった一本だけで、鈴香を奥の奥まで絡め取って、引きずり出してしまった。ミナガワは…ミナガワは、そう、鈴香の体をすっかり、変えてしまった…。

ミナガワは…?

鈴香はメニューを持つミナガワの右手首に揺れるブレスレットに、一瞬、指を掛けて、目が合ったミナガワに、微笑みかけた。ミナガワも、にっこりと笑って、頷いた。気持ちが複雑なら、いっそ言葉にしなくてもいい。そんな、少し寂しげで、けれど満ち足りた笑顔だった。

わたし、Dコースかなぁ。白身のお魚。

うん。美味しそう。

鈴香は? お肉は、AとCだけど…。

そうだなぁたまには、ミナガワとおんなじのもいいかなって、思ってたけど…鹿って、気になるかも。でも限定って、書いてあるね。まだ、あるかな…。

ミナガワは手を挙げて、すみません、このCって、まだありますか? と、店員に尋ねた。

ございます。

いいじゃんいいじゃん。ね、デザートは? デザート選べるとかテンション上がっちゃうよねえ。鈴香はどうする?

シャーベットかな。

じゃあ私ティラミスにしよう。

半分こしようよ、と、ミナガワは瞬きの頻度を少し上げて、言った。勇気を出して何かを言っている時の、ミナガワの癖だった。

うん。楽しみ。ね。

ホール係は、他のテーブルに付いていた。注文を取りに来たマスターが、注文を書き留めながら、鈴香とミナガワの手首に目を走らせたのがわかった。前菜の盛り合わせが運ばれて来た時、鈴香は、品書きより一つ、ポーションが多いことに気づいた。マスターを見ると、マスターは無言で、にこやかに、鈴香たちにサーブの仕草をした。店員は腑に落ちない顔で、品書きの説明をはじめ、鈴香はその間、機嫌よく、微笑んでいた。

えー、なんだろ、余ってたのかな、生ハム?

うん。ミナガワが可愛いから、足してもらえたんじゃない? ここあんまり、ミナガワみたいな感じの人、来ないみたいだし。今日は…髪も、すごく素敵だね。

ミナガワはどきりとした風に、グラスを取って、水を口に含んでから、忙しないキッチンのほうに目をやって、また鈴香を見て、俯いて照れながら、ブレスレットに、手を当てた。店には、イタリア語のオペラが掛かっていた。ミナガワは、しばらく、話題を探している様子をしてから、不意に思い出したというように、顔を上げた。

あ、そうそう…ちょっとちょっとちょっと聞いて、中山くんがね。

鈴香は、自分の息が一瞬、止まるのを感じた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。