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春を謳う鯨 ⑩

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(…)流行りのメイクをして、ほのかにラメを仕込んだふわふわの淡い髪を、彩りが不思議な月兎モチーフの髪留めでアップした今日のミナガワはとても、色鮮やかで、まるで果物のようで…鈴香はミナガワを見つめる自分の奥から沸き起こる、見たこともなくらいに大きな花束を両手で受け取っているような、胸苦しいほどの高揚感に圧倒されながら、同時にその内側に、茎の柔らかいところを探して蠢く幼虫のように、欲情と困惑が隠微に紛れ込んでいるのを見つけて、いたたまれなくなった。ああ…。

ミナガワは、本当に、恋をしているのだ。

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「みんな、優しい」。鈴香はあまり、あれこれ考えたくないし、悩みたくない。

考えるのは、働いているときだけでいい。

悩むのは、人生が動くときだけでいい。

みんな、優しい。鈴香はたぶん、その優しさのなかに、浮いている…優しさから生まれる、色々な気持ちやできごとを、花束のように抱えて、抱えきれないそれらを、自分を取り巻く優しさのなかに撒き散らしながら、浮いて、流れていて、見上げると木漏れ日がみえて、ずっと浸かっているにはけれど、冷たくて、濡れた服は重くて、…ああ、自分は、溺れかけているんだな、と、思うのだ。




ミナガワはIoT関係のエンジニアとして、鈴香と同じ年に入社して、いまは研究開発部門で試作品のプロジェクト中心に働いている。新入社員向けのオリエンテーションで同じ班になって二週間過ごしてから、部門が近いようで職種は遠いけれど、たぶんお互い、社内で一番、仲がいい同期になった。

はじめからずっと、ザがつきそうなほどサラリーマンな働き方をしている楢崎くんや鈴香とは、ミナガワは全然、違うところで生きている。ミナガワと飲みに行ったりすると、鈴香は新鮮な空気を吸うような気分になったものだ。「稼働調整」とか「サブリード」とか「ミッションクリティカル」とか…。日々、小さな小さな字で印刷しないと扱いきれないくらい文字の多い、堅苦しい文書を捌いて、和訳のわからない英単語や、いまいち腹落ちしない判例に埋もれながら、メールや電話ばかりして、なにかと人をつついて回っている鈴香の日常にしてみると、「通らないコンパイルに嫌気がさしてホームセンターに金魚を見に行くことにした」とか、「PMの判断ミスで炎上して、それでもどうにかタクシーで帰ってみたら1万円かかった」とか、「社内大会でエレガンス賞が取れた」とか…ミナガワが頑張っていると、鈴香も頑張らなければと思ったし、ミナガワが自分の肩にかかる責任を次第に重くしながら、それでも楽しげに働いていると、鈴香も自分なりの楽しみを見出しながら、一段一段踏みしめて、上を向いて働いている気がした。

あ、それね私もそうだよ。辛いときたくさんあるけど、オオムラのこと考えると、ここ抜けるまで頑張ってみようって、思えるの。それに、オオムラが会社の話をするとなんだか、別世界の旅行の話みたいで、楽しいんだ。おんなじ会社なのにねー?

ミナガワも…目を輝かせて…鈴香の話を、聞いてくれた。

仕事を覚えた頃からか、ちょうどテレワークが注目されだして、ミナガワは在宅の仕事を好んで希望するようになった。同時に青梅方面の郊外の少し、面倒な場所にある、綺麗なテラスと庭の付いた一軒家を借りて、引越した。ミナガワの月収はその頃から急カーブを描いて上がっていた。ミナガワは、少しやつれた風情で、お給料は残業のせいもあるんだよね、もっと仕事は人に任せて、自分の時間も、大切にしていこうと思う、と話しながら、物件情報を鈴香に見せた。リノベーションされた、開放感のある間取りに加えて、アイランドキッチンやディスポーザーが目玉の物件だった。会社が西東京の外れのほうだから、南東京の鈴香のマンションと比べても実は、通勤時間はそれほど変わらない。鈴香はたまに、都心で遅くまで遊んだミナガワを泊めてあげるか、その代わりにちょっとした逃避行で、年じゅう別荘にいるような暮らしぶりのミナガワの家に、泊まりにいくようになった。

時々の夜を一緒に過ごすようになってから、ミナガワの不自然な距離感や、そのくせミナガワが鈴香に優しすぎることに、気づくまで、それほど時間はかからなかった。

ちょうど1年ほど前、初夏のことだ。

鈴香はその夜ミナガワの家にいて、ミナガワが最近見ているというイギリスの刑事ドラマを、教えてもらいながら1話だけ、見てから寝るつもりだった。ミナガワの家にはシェイカーがあって、ミナガワは即興でカクテルを作れる。ミナガワは、趣味だからと口では言いつつ、明らかに鈴香のためだけに、酒屋では見かけないようなリキュールを、取り揃えてくれていた。食後のおつまみにと思って、鈴香は何種類か少しずつ、高めのチーズを買ってきてあって、ミナガワが作ってくれた上海料理のあと、チーズをそれぞれ、切って注意深く皿に並べた。シンクでの食後の水仕事を終えたミナガワは鈴香をみて、そのブルーチーズ、蜂蜜かけようよ、と、棚を探していた。蜂蜜を置きに鈴香の隣に並んだミナガワに、鈴香は、ミナガワが優しすぎると思うことについて告げて…尋ねてみた。私に何か、できることある…?

ミナガワは困惑した表情で、一歩引いて…冷蔵庫にもたれて、腕を組んで、固まってしまった。

オオムラは…なんていうの、私がオオムラのこと、オオムラが思ってるのとはちょっと、というかかなり、違う意味で好き、だってこと…。

さあ。初めは、ミナガワって仲良しにはみんな、こうなのかなって、思ったけど…たぶん違うよね。私はただ、私にも何かできないかって思ったの、でも…わかんない、人によるでしょう。

人によらないよ。好きは好き。鈴香がだれかを恋しいとか、好きだとか思うように、私にもそういう気持ちがある。

…。

…あーあ。ダメ絶対、言わないって思ってたのに、しかもこんなタイミングで…心の準備、全然できてないよ、困る…。

…私…。

わかってるよ。わかりきってるくらい、わかってる…。踏み込んだっていうか、調子に乗ってタガが外れちゃったっていうか、どんどん、わかりやすくしちゃったのは、私のほうだから…。

エネルギッシュで、明るくはしゃいでいるのが、性格だと思っていた。恋愛をするなら、弾けた感じだけが共通な、全然違うタイプの男の子と、友達のように気兼ねなく泣いたり笑ったりするような、からりとした、恋愛をするのだろうと思っていた。そう、ミナガワもそのうちそうなるだろうと…鈴香の目には、女の子たちはそうやって、鈴香の知らない遠い惑星の重力にとらわれて、その夜を照らしに、行ってしまう…。

このときのミナガワは、鈴香には馴染みのない、もの静かな様子で…よく見ると、脆くて、儚げで、悲しそうで、…躊躇いにがんじがらめになっていて、とても、弱々しかった。鈴香はミナガワの家のたたずまいが、ミナガワについて鈴香が考えるような明るさや気兼ねなさとは対照的に、いつも、優しい静けさと、慎ましい繊細さに溢れていることに、急に思い当たった。むしろこれが、ひとりのときのミナガワなのかもしれないな、と、思った。

どうしたい? 私は、もしかしたら、とても残酷で、自分勝手なこと、言ってるかもしれない、けど…でも、なにもしないでいるには…。

オオムラは、女の子と、恋愛したことある?

ない。でも、たぶん、男の子とだって、ちゃんと恋愛したことないんだ。だから、ミナガワが思うような何かは、あげられないかもしれない。

ううん…ううん…。

ミナガワは、かぶりを振って、…オオムラのために、何かできることないかって、いつも思ってるのは、私のほうなんだよ…オオムラはそこに、いるだけでいいの。私には、それだけで、死にそうなほど幸せなの、と、力なく呟いた。

ミナガワ。死んだら幸せ、感じられないよ。

鈴香は軽く冗談めかしてから、近寄って、ミナガワの手を取った。ミナガワは一瞬、体を硬くしてから、おずおずと、鈴香の手を握り返した。

いわゆる彼氏彼女っていうようなお付き合いはきっと、できない。私、たぶん楢崎くんとこのまま付き合って、近々、結婚すると思う。でも、それ以外のことならミナガワに、私の好きなところを、あげるよ。私も、ミナガワのことは、勝手なんだろうけど、特別なの。恋愛はわからない…でも私、あんまり、性的な制約、ないんだ…。いいよ。好きにして。

抱きしめても…?

構わないよ。

キス、しても…?

もちろん、構わない。

触ってもいい…?

いいよ。触ってほしいところ、あったら、言って。

ミナガワは慣れない様子で鈴香ににじり寄って、おそるおそる、鈴香を抱きしめた。

ああ。…鈴香…。

女の子って細くて、あったかくて柔らかいんだな、と、鈴香は思った。背の高さが変わらない相手と抱き合うのは、鈴香にはなんだか、こども同士でおままごとをするような感じがした。

ずっと我慢してたの?

うん…。うん…。

辛かった…?

…うん…。

よかった…?

うん…。

嬉しい…?

ミナガワは無言で頷いた。鈴香の耳にミナガワの濡れたまつげが当たった。背中に流れ落ちるミナガワの涙を感じながら、鈴香はミナガワに回した手をミナガワの腰に滑らせて、優しく叩いた。

ミナガワは、涙を拭って少し体を離して、鈴香の両肩に手を置いた。

唇も、温かくて、柔らかかった。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。