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春を謳う鯨 ⑨

◆◇◇◇ ⑧ ◇◇◇◆

楢崎くんが新聞をたたむ気配を感じた。鈴香は、そそくさと返信ボタンを押し、ツイッターからログアウトして、クロームを落とした。

ね、今日からすごく、暑くなるって。天気予報…。

楢崎くんは、新聞をソファに置いて伸びをしながら、そんなことは昨日から知ってるよ。ハンドタオルは? 持ってきた? 俺は、持ってるよ。と、言った。


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月曜、いつもどおりを装って出勤すると、奏太はいたって、何事もなかったかのようで…鈴香がついに、何もなかったのかもしれない、と思うほどだった。席は斜向かい、仕事の話はする、プライベートの話はしない。それにもともと、鈴香だけの昇格に上司が変に気を遣っていて、今年度は鈴香と奏太の案件はそれほど、かぶらない予定だ。奏太もそれなりに、弁えた行動ができるらしいと、鈴香は驚いたような気分でほっとしながらも、何かがまだ、起こり切っていないようで、うっすらとした不安が、鈴香の気分を翳らせていた。

楢崎くんと喧嘩して、あの調子で自分の足元を抉られて、踏み荒らされたからって、いくらなんでも、混乱しすぎていた。同僚となんて。しかも、奏太となんて…。とはいえ…あの日の奏太とのことがなかったら、きっと、背中を押されていなかっただろう。それがたとえ、奏太のあのぽかんと虚ろな、うわついた、曖昧な優しさの中にだったとしても…誰にも言えない言葉、誰にも見せられない涙がようやく、他の誰かの腕の中に吸い込まれて落ちて行った、夜…。鈴香はいま、多少は冷静さを取り戻した目で振り返ってみても、何が正しくて何が間違っていたとは、はっきりとは、言えなかった。

火曜と、水曜は、楢崎くんの家から出勤…平日の夜は鈴香には忙しくて、すぐにすぎる。結局指輪は、一日では決められなくて、今週末にまた、見て回ることになった。カタログを見ている楢崎くんの独り言を聞きながら鈴香が作る、簡単な夕食、楢崎くんの嫌味、ふてくされた後ろ姿を見せる鈴香、楢崎くんが買ってきていたデパ地下デザート、朝食の仕込みや就寝前のあれこれのあいだに、いつのまにか、さりげなくいれられてある、ハーブティー。少し笑いあって、無言で並んで、すとんと眠って、起きるともう、仕事モードだ。水曜の夜は自宅で、ミナガワに電話しようかと思って、本を読むことにしてやめる。仕事上がりの楢崎くんから深夜に電話が来て、ひとりでいたかったと、不機嫌なふりをする。木曜、楢崎くんが早くあがれると言うから、神楽坂に食べに出て、自室に帰る寮生のような雰囲気で別れる。鈴香はゆっくりお風呂に入って、自分の手入れをする。「いい」サイクルに入ったのだと鈴香は思った。歪んだ地盤の弾性みたいなものだ…ここのところ溜まっていた緊張はたぶん、あの土日にどっと解放されて、また、凪の静けさを取り戻していた。こういう時の楢崎くんは、とても付き合いやすい…。

そして金曜、今週ずっと在宅だったミナガワとランチに出ることになって、時間に合わせて慌ただしく作業をまとめているときに、デスクに置いた携帯にメッセージが入ったのが見えた。見ると、奏太だった。

頑張れてる? 大丈夫かー

鈴香はオフィスを見渡した。奏太はいなかった。そうか、確か…今日は、柏の方の研究室に直行直帰だ。鈴香は、あの朝、洗面台の前で歯を磨いていた時の、湿った暗い影を、急にざわりと、感じて、唇を噛んだ。

うん
結婚 することになった
いま、幸せかも
しばらくがんばってみる ありがと

送信して、携帯と財布をランチ用のポーチに放り込んだ。時間だ。ミナガワはたぶん、鈴香を急かさないように、連絡をしてこないだけだ。鈴香は、昼時で混み合っているエレベーターに、頭を下げながら体を捻り入れて乗った。降りて、画面を見ると、奏太から返信が来ていた。

そっか
頑張れー

鈴香は、返信しなかった。待ち合わせの広場を見渡すと、同じように広場に視線を巡らせて鈴香を探しているらしいミナガワが、見えた。

ボディラインが見事に出た、袖レースのアイボリーのトップスに、ウエストを強調したサマーオレンジがまぶしい、光沢感のあるロングスカート…8センチはあるだろう太ヒールの、黒いサンダルに、ジェルネイル風の真っ赤なペディキュアが、新鮮に映えていた。左脇にポピーピンクのハンドバッグを抱えたミナガワは、照れ臭そうに上げた右手を、鈴香に向けて振って、ゆっくりこちらへ歩いてきた。ブレスレットこそお揃いだけれど、それも一見では、同じブレスレットに見えないだろう。髪も染めない、オフィス一色なパンツスーツ姿の鈴香に比べると、流行りのメイクをして、ほのかにラメを仕込んだふわふわの淡い髪を、彩りが不思議な月兎モチーフの髪留めでアップした今日のミナガワはとても、色鮮やかで、まるで果物のようで…鈴香はミナガワを見つめる自分の奥から沸き起こる、見たこともなくらいに大きな花束を両手で受け取っているような、胸苦しいほどの高揚感に圧倒されながら、同時にその内側に、茎の柔らかいところを探して蠢く幼虫のように、欲情と困惑が隠微に紛れ込んでいるのを見つけて、いたたまれなくなった。ああ…。

ミナガワは、本当に、恋をしているのだ。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。