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春を謳う鯨 ⑳

◆◇◇◇ ⑲ ◇◇◇◆

その…指輪ね、実は、3連で1組なの。

…。あ、…。

残りの2連、私がつけてても、いいかな…?

鈴香は何と言っていいかわからなくなって、ミナガワに、長くて深いキスをした。ありがとう、大事にするね、いつもつけとく、と、囁いて、指輪をつけた手の甲を、ミナガワに見せた。ミナガワは泣きそうな顔をして、小さく頷くと、鈴香に唇を返した。ミナガワはすっかり、鈴香をうっとりさせるようなキスを覚えてしまっていた。鈴香は、ミナガワが鈴香の口蓋を、味わうように熱い舌でなぞるのを、ときどき感じすぎて背中を反らせながら、受け入れた。

唇を離して息を継いだミナガワは、私はあとでつけるけど、鈴香はそのまま、つけていて、と言って、また優しく、唇を重ねながら、鈴香の内腿に指を、滑らせた。

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◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

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結婚かあ…僕は特に結婚に関しては、あまり、いい先輩ではないからなぁ。

今日は午後を、文字通りまるごと空けて来たから、シャワーを浴びてすっきりしても、まだまだ、時間があった。佐竹さんは間食に、横浜に行くといつも買うらしいクリームサンドを、昨日の散歩のお土産だと言って鈴香に手渡した。ベッドの上で腹ばいになって個包装を開ける鈴香の、右手に光る、二本の指輪を、佐竹さんは螺子でも締めるみたいにくるくる回しながら、物思いに耽る様子を見せた。鈴香はクリームサンドを、佐竹さんにもひとくちあげた。佐竹さんは、鈴香の指に残ったかけらを、啄むような仕方でつんつんと食べてから、しまった、コーヒーいれなきゃね、と言って、立ち上がった。

ああ、お湯を沸かすところまでは、忘れてなかったのになぁ。ちょっと、待ってね。…しかし、その子、たっくんだっけ? 勇気あるっていうか…すごく、鈴ちゃんのこと、好きなんだろうね。

さあ。そういえば、…同じようなこと言われたな…私のこと、そんなふうに好きになるには、覚悟が要る、みたいなこと。

鈴香は全裸でコーヒーをいれる佐竹さんの、恥ずかしげのない後ろ姿を眺めた。背丈だけ大きな、幼稚園か小学校の男の子みたいだと、鈴香は思った。プールで遊んでいた頃の男の子たちの、するりとした裸体が、鈴香の頭をよぎった。ラップを巻いていた、端のところが、あんなに暴れていたからだろうか、うっすら赤く、跡になっていた。

佐竹さんにはそういえば、ミナガワのことは全然、話していないけれど…まあ、いいか…と、鈴香は食べ終えた包装をゴミ箱に放り込んで、ティッシュで、手についたクリームを拭いてまたゴミ箱に放り込んで、頬杖をついた。ミナガワは…なんて言ったっけ? あとでまたゆっくり、思い出してみよう、と鈴香は思った、鈴香はミナガワと過ごした時間を、思い出すのが、好きだ…。鈴香は親指で、指輪の位置を確かめた。

ふうん…その子も、鈴ちゃんのこと、すごく好きなんじゃない? 当たり?

ん…たぶん…。

ほらね、勇気がいるよ。だって、みんな、好きなんだもん。嬉しいような、困っちゃうような…鈴ちゃんは本当、仕方ないなぁ…。

佐竹さんは鈴香のぶんのコーヒーをサイドテーブルに置いて、自分はベッドの縁に腰掛けて、コーヒーを啜った。

こどもは考えてるの…? と、コーヒーを飲み終えてからやっと、佐竹さんは口を開いて、寝転んで頬杖をついたままの鈴香の頭に腕を伸ばして、鈴香の髪を耳に掛けた手を背中に移しながら、鈴香の顔を覗き込んだ。既視感…ああそうか、…奏太は、枕にうつ伏せた鈴香を、どんな気持ちで、見つめていたんだろう…かーわいいね、すず。俺はすずといる時間、好きよ…か…。誰にでも、言っているのかもしれないな…。

うん。たぶん。今までだって半同棲だったから、スムーズな気はしますけど、人との暮らしに慣れるまで、1年はかかると思うから…そうだなぁ、30までには、一人…。その頃、私、どうなってるのかな…。

佐竹さんは、話す鈴香の耳をなぞり、少しずつ近寄って耳をぺろりと舐めて、耳元で囁いた。

きっと、そんなに変わらないよ。少し大人びて、むしろ綺麗になってるかもしれないな。ね、…赤ちゃんができたらね、僕が合わせてどうにか時間を作るから、毎月どこかで、会っておくれね。だんだん膨らんでいく鈴ちゃんのお腹、触りたいな。

ん…どうでしょうね…? その頃には私、あんまりこういうのは…。

作家の友人の、たっての願いで取材を受けるだけだよ。半分は、それで本当でしょう。

残り半分は?

そりゃ…残り半分は、鈴ちゃんを吸い込んで窒息死したい、僕のエゴさ。ふっくら膨らむ鈴ちゃんのお腹に頬ずりして、ぱんぱんになっていく鈴ちゃんのおっぱいに、顔を挟んでもらうんだよ。

鈴香は、…鈴香はそんなふうに自分の体が変わることを、きっと受け入れるしかないとしても…佐竹さんが話すほど当たり前のことのようには、思えなかった。鈴香にはたくさん、知らなければいけないことがあって、たくさん、考えて決めなければいけないことがあって、たくさん、話し合わなければいけないことがあって…たくさん、たくさん、失うものがある…鈴香は…鈴香はいっそ、このまま人生がすとんと、終わってしまえばいいのに、どうして人は何十年も生きていかなければいけないんだろうと思うことが最近、増えて…もう、鈴香の時間は、終わりかけているみたいに見えて…けれど、「それ」を受け入れなければいけない時が、迫っているのだ…。鈴香は別に、望んでいないわけでは全然ない、ずっと…ぼんやり…子どものいる30代の自分いうことは考えていた。ただ、ひとりぼっちなだけだ、少し、死んでゆく人のような、寂しくて悲しい気持ちに、なるだけ…。

鈴ちゃん…。

佐竹さんは、鈴香の横顔をじっと見つめて、鈴香の横に滑り込んだ。

鈴ちゃん…君はいま、怖いんだね…おいで、ねえ、なんにも怖くなんかない。君は素晴らしい人生を歩もうとしているよ。それはとても勇敢で、鈴ちゃんらしいことなんだ。ね。

佐竹さん…。

鈴香は、佐竹さんがシャワーのあと、香水をつけ直していたのだということに、いま、気づいた。ああ、思い出す、いつもそう…遅れて思い出す…佐竹さんの匂いだ、と、鈴香は思った。

君みたいな人でも、怖くなるときが、あるんだね…。

鈴香は、答えずに、目を閉じた。佐竹さんは鈴香の頭に頬を押し付けて、指でそっと、髪を撫でた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。