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春を謳う鯨 ㉑

◆◇◇◇ ⑳ ◇◇◇◆

鈴ちゃん…君はいま、怖いんだね…おいで、ねえ、なんにも怖くなんかない。君は素晴らしい人生を歩もうとしているよ。それはとても勇敢で、鈴ちゃんらしいことなんだ。ね。

佐竹さん…。

鈴香は、佐竹さんがシャワーのあと、香水をつけ直していたのだということに、いま、気づいた。ああ、思い出す、いつもそう…遅れて思い出す…佐竹さんの匂いだ、と、鈴香は思った。

君みたいな人でも、怖くなるときが、あるんだね…。

鈴香は、答えずに、目を閉じた。佐竹さんは鈴香の頭に頬を押し付けて、指でそっと、髪を撫でた。

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鈴香はうっすら滲んだ涙が引くのを、待ってから、起き上がった。ぬるいコーヒーに口をつけて、クリームサンドをおかわりした。佐竹さんは鈴香が間食するあいだ、鈴香の膝に頭を乗せて、鈴香の下生えの際を蛇のようにちろちろ舐めてみたり、鈴香の胸を下から交互に持ち上げてみたりした。

…。ね、鈴ちゃんはね…徳が高いんだから。心配いらないよ。何があったって。

徳…?

鈴ちゃんの周りを、電子か星かって感じできらきら、くるくる回ってる、その沢山の好意のことさ。つまりは、さっきのカフェで君がもらった、ラムネ菓子のこと。

鈴香は瞬いて、首を傾げた。たしかにマスターはお会計のとき、またどうぞお越しくださいと言って…葛が原料の、マスターの生家近くでしか売っていないという空色の大粒ラムネをふたつ、鈴香に渡した。ラムネは…ホテルのエレベーターに乗っているあいだに、鈴香と佐竹さんの口の中で混じり溶けてしまって、もちろん…もう、なかった。

ああ、あれですか? ほんとに、口どけよくて優しい味で、美味しかったですね…? でもそんな…よくある話だと思うし、たまたま、余ってただけじゃないかなあ…。

うーん。ねえ、鈴ちゃん…まずね、「よく聞く話」ではあれ、「よくある話」ではないんだ。そして、余ってるからってだけで、人はそれを誰かにあげたりは、しないんだよ。マスターは鈴ちゃんに何かあげたくて、それでたまたま、ラムネが余ってたんだ。順序が違う。

それは、…みんな、そのときの気分で、あげたり、もらったりして、世界が回ってるんじゃ…? 常連の佐竹さんがひとまわりも若い女の子を連れているのをみれば、マスターだって、からかってみたくなるでしょう。

僕が理由? まさか、と、佐竹さんは、困ったような顔つきで、肩をすくめた。

おやおや、だな。そういえば、言いそびれてたかもね…僕、鈴ちゃんに会って、そのことで本当、びっくりしたって。

びっくり…?

うん。例えば、そう…鈴ちゃんと食べに行くと、いい席に通してもらったり、1品サービスされたり1個多かったり、進んで片付けてもらえたり、お得な情報や素敵なエピソードを教えてもらえたりするだろ。きっと職場や旅行先でも、そういうことがあるんだろうし…推測では、いままで、鈴ちゃんが付き合ってきた子たちだってみんな、なんだか嬉しそうに鈴ちゃんになにか、してくれるような人たちだったんじゃない?

…。

思い当たる節があるね…? あのね、鈴ちゃんは、あらら、またちょっと得したな、くらいにしか思ってないだろうけどね。そんなことは…僕の領域では決して、起こらないようなことなんだよ。僕は鈴ちゃんに会って、なんだこの世界はと思ったし、いま、ラムネ菓子の話をする君をみても、現在形で、思ってたよ。なんという世界だろうね、まったく…。

鈴香は、コーヒーを飲み終えたところで、佐竹さんの頭を枕に戻して、胸元まで、掛け布団を手繰り寄せて、佐竹さんの隣で膝を抱えて座った。

そんな大げさな…。たしかにまあ、…みんな、ふわっと、優しいのかなとは、思いますけど…別に、溺れかけたところを助けてくれるとか、多額の寄付をしてくれるとかじゃないですから、とどのつまりそんな程度っていうか、そんなきらきらくるくるした話では、ないんじゃないかなぁ。

甘い。甘いよ鈴ちゃん、と、佐竹さんはその、さらりとした額に手を当てて、髪に埋めるようにそれを回し、整えながら、ため息をつくように、話した。

世界というのは、もっと厳しいんだよ。対価を払って得るだけの、なんの余剰もない僕の日常を見せてやりたいな。

余剰…?

うん。思い出してもごらん、前は焼肉屋で、ランチで出してるとか言ってえらく旨い煮込みカレーをつけてもらったし、去年も、遊園地でチケットがちょっと足りなくて話し合ってたら、通りすがりの人が残りの金額の券をくれた…僕は鈴ちゃんがあまりにも普通に「あ、ありがとうございます」とか言ってるから、え、やっぱりそんな感じ? って、思ったんだ、よく覚えてる。今日のカフェでも、僕だけのときと鈴ちゃんが来てからの、ウェイターの顔つきの変わりようったらなかった、鈴ちゃんが座った途端にいそいそと髪とエプロンを確かめて、それでメニューを渡しにきたんだから。なんだかどぎまぎしてたのはたぶん、普段しない丁寧さで注文を取ろうとしたからに違いない。しまいにはマスターまで、出てきてさ。コンビニだって払ってるのは僕なのに、店員の女の子は袋を受け取ろうとした君に妙な照れ笑いを投げかけてたし、君が出ようとしたら、ちょっと離れた外で男の子が、君を通すためにナイトみたいな顔つきで待っていたよ。僕の世界にはこういう一切合切が、ないんだよ。ないんだ。ないの。

ふうん…?

思うに、ただ可愛いだけじゃたぶん、こうはならないんだ。もちろん鈴ちゃんはすごく、その、可愛いだけじゃなくてね、男の、そうだな性欲だけじゃなくて、食欲とか睡眠欲とか排泄欲とか、あとはなんだろう、支配欲、探求欲、庇護欲、屈従欲…とにかく、欲という欲をそこはかとなく、そそる女の子ではあるんだけど、いやはや、それを上回る、人徳っていうか後光っていうか…。僕、こんなにすうっと人に好かれる人、鈴ちゃん以外に見たことないもの。とにかく鈴ちゃんといると、みんな、優しいんだよ。僕にまで優しい。たぶん、勇気を出して鈴ちゃんの前に出て、鈴ちゃんを守っている僕を、みんな、応援してくれてるんだろうな。うん。

鈴香は、くすぐったい、優しい気持ちになってきて、佐竹さんの隣に潜り込み、佐竹さんの指に指を絡めて、空いた手でその、陶器のような腕を撫でた。佐竹さんの腕は、冷房でひんやりしていたけれど、その奥のほうに、まだ燠火のように、気だるい熱気が流れているのを、鈴香は静かに味わった。

佐竹さんは、私のこと、守ってくれてるの…?

たぶんね。わかりにくい形かも、しれないけど、きっと。そう願うし…いま、言いながら考えたけどね、鈴ちゃんといると、僕はみんなから鈴ちゃんのために選ばれたんじゃなかろうか、なんて、思われてきて、それできっと、落ち着かない、妙な気分になるんだよ。で、叫びたくなるんだな。踏んでくださいとかね、言っちゃう。

やっと冷静に、なりましたね。

冷静なわけがない。最高に高揚した気分さ。

鈴香は微笑んだ。微笑んだ鈴香の鼻先を、佐竹さんは指でつついて、顔をしかめる鈴香をみて、遊んだ。

君は、溺れかけたところを、助けられてみたいのかもしれないけど…まずもって、溺れかけること自体がないだろうって、僕なんかは思うよ。みんな、鈴ちゃんを守ってるもの。直接守れない人たちもね、見えないところから鈴ちゃんに、鈴ちゃんを守る人たちを送り込んで、その人たちを励ますわけだ。僕とか…たっくんとか、その、新参者の誰かさんとか、ね。

絡めていた佐竹さんの指の背に、鈴香はゆっくりと、口付けた。佐竹さんは目を細めて、鈴香の手を取り直して掌に、唇を押し付けた。

そうなんだよなぁ。鈴ちゃんには、見えてないんだものね…ね、鈴ちゃんに少しずつ、少しずつ渡される好意は、総量にしたらそれはもう、凄まじいものなんだよ。僕には鈴ちゃんは、財宝の詰まった宝箱みたいに見える。

言葉を見つけはじめたらしい、佐竹さんの声の波が、少しずつ高まるのが、わかった。鈴香は、つられて、自分の胸のどこかが、静かにときめいているような気がした。

うん。鈴ちゃんからはね、…むせかえるように、善良な生命の匂いがするんだ。たとえるなら鈴ちゃんは、夥しい量の花の、真ん中に座っていて…たった数人の、少しばかり強い想いだって、ちょっとは目を惹くけれどそのなかの、単なる彩りに過ぎないんだよ。

…。

そう思うと、この嬉しい感じにも、納得がいくというか…鈴ちゃんといるときだけ、みんなが優しくなる理由も、わかる気がするね。僕という瀕死の、透明な中年男は、君の隣にいるときだけ、花に、なってるんだ…そうか…。

…。

あとほらさっきの、多額の寄付っていうのもね…? たっくんが鈴ちゃんに、彼というひとりの人間の、生涯を寄付しようとしてるじゃないか。あくまで推論の域を出ないけど、たぶん、彼は何かを返せと言わなかったろう? 鈴ちゃんに、代わりに何かをしろとは、言わなかったろう? 鈴ちゃんは、ただ受け取って、鈴ちゃんでいればいい。それがどんなに幸せなことか、鈴ちゃんがきっと知らないのは、僕には涙が出るほど美しく見えるよ。

鈴香は…急に、光が陰ったような気持ちになったのを、隠した。微笑みを絶やさなかった。「たっくん」は鈴香に、他の誰にも…佐竹さんにも…できないようなことを、してくれるかもしれないけれど、他の誰かといたなら知らずにすむだろう、苦しい気持ちにもさせる…鈴香はたぶん、諦めているだけ…。楢崎くんはあんな人だから、たしかに鈴香に「生涯を寄付」することを決心しているかもしれない、けれどそれが、鈴香がずっと欲しいと思ってきたものかどうかは、鈴香にもいまは、わからない。たぶんかなり近いけれど、全然、違ってもいて…なんて言えば? 鈴香は佐竹さんには、話せるかもしれない。でも、だからって、なにが変わるわけでもないのだから、…だから鈴香は、ここに来るまでにいろんなことを忘れてきてしまったかのように、黙ってぼんやり、微笑んで、いる…。

ところで…。

ん…? なに…?

あのね…今日はほら、なんていうか、鍵と鍵穴的な展開があったようで、なかったっていうか…。

鈴香は、下唇に指をあてて、考えた。

扉は、開いたんじゃないですか。「あった」判定でいいと、私は思いますけど。

でもね、ほら、今日はまだ、時間があるでしょう。ゆっくり食べに出ても、僕はこのとおり半分老人で、少食だし…。

…だから?

佐竹さんはちらりと、鈴香の顔色を伺った。

お薬、飲んでいい…?

鈴香は軽く、首を傾げながら、苦笑して頷いた。




最後に一度、ごく普通のセックスをしようとして、結局…佐竹さんは遂げられなかったから、「一緒にいけてとても幸せごっこ」をして、鈴香は、一本締めみたいと言って笑った。佐竹さんはツタンカーメンのふりをして、有終の美と元素の話をした。バーで軽食を食べた。駅で、電車が来ているのに気づいて、ふたりで階段を駆け上がった。佐竹さんはあと三段のところで立ち止まり、穏やかな笑顔で軽く手をあげ、鈴香を見送っていた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。