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春を謳う鯨 ⑫

◆◇◇◇ ⑪ ◇◇◇◆

えー、なんだろ、余ってたのかな、生ハム?

うん。ミナガワが可愛いから、足してもらえたんじゃない? ここあんまり、ミナガワみたいな感じの人、来ないみたいだし。今日は…髪も、すごく素敵だね。

ミナガワはどきりとした風に、グラスを取って、水を口に含んでから、忙しないキッチンのほうに目をやって、また鈴香を見て、俯いて照れながら、ブレスレットに、手を当てた。店には、イタリア語のオペラが掛かっていた。ミナガワは、しばらく、話題を探している様子をしてから、不意に思い出したというように、顔を上げた。

あ、そうそう…ちょっとちょっとちょっと聞いて、中山くんがね。

鈴香は、自分の息が一瞬、止まるのを感じた。

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そんな、たった一晩…まさか、奏太が…? そんなわけない、だいたい、ミナガワは奏太とは、同期として生き残ってきたというだけで、面識がある程度の仲のはず…それに、この感じは鈴香には関係ない話題のはずだ、まずは…落ち着いて…。

高円寺でね。中山くん、倉沢さんと手、繋いで歩いてたのー。あのね、人の恋路を邪魔するつもりはないって言いたいけど…だめだったなぁ。生理的な嫌悪感、半端なかった。

え。…倉沢さん…?

鈴香は、目を見開いた。驚きというか…想像力が追いつかないというか…夏ともなれば、ビキニで海岸に寝そべって、カメラマンに写真でも撮られていそうな、倉沢さんの細くて白くて柔らかな肢体が、鈴香の頭をかすめた。

見間違いでしょ…?

まさかー。中山くんはともかく、倉沢さんを見間違えるわけないじゃん。え田中さんじゃないよねってガン見したら、中山くんだったの。思わず隠れちゃったよ。はあ。

だよね…倉沢さんって田中さんと…たしかに、愛人みたいな年の差だけど…こないだの同期飲みで、なんだか、将来見えてきてる感じだったよ…?

でしょ。と思うでしょ。私も人づてで聞いてはいたからね、目を疑って、尾行しちゃったの。そしたら、路地裏に入ったとこの、電信柱の陰でね、ぶっちゅうううって。え。ないわー。ないわー。だって中山くんだよ? 田中さんみたいな人いるのに? いるから? 中山のくせになにやってんのまじで。きーもーいー。って、思った…。もうどこから突っ込んでいいかわかんないよ…信じらんないけど見ちゃったもんは見ちゃったわけで…。ショックだった…。

…。いつ?

ええと…先々週かなぁ。

ミナガワは不思議そうに、あれ? 結構前だな…と首を傾げた。

そっか私、ダメだったんだバッタバタで…今週からはちょっと楽になったのね、で来月には、普通の感じになるはず。終息するする詐欺じゃなければ。そうだよ…鈴香とも全然…ね、ごめんねツイッターも、なんか薄ーくなってたよね…。

鈴香は、脚を組み替えて、ミナガワに寂しそうな笑顔を見せてみた。そうだとにかく、冷静に…。

まあ忙しそうだなって、さすがにわかる薄まりかただったよ? 上がってるのか下がってるのか、わかんないから、とりあえず淡々と月水金にツイートしてみた。かな。

真面目か! と、ミナガワは軽く突っ込んで笑ってみせてから、目を伏せた。

うん…下がってたんだ…。でも、かっこつけたくて。なのに、かっこつける余裕なくて…ねえ、鈴香…ありがとね…。

鈴香は、ミナガワを見つめた。テーブルに乗り出して、少し小さな声で、大丈夫、かっこいいよ。と、囁いた。ミナガワは、もう一度、今度は蚊の鳴くような声で、うん…うん、ありがとね…と、言った。

じゃあ高円寺って、仕事?

うーん、うん、うーん…。なんか、みんなで、やけ酒? チームの人と、今日はもうやめだやめ、おわんねーよ無理しないで均して、土日出ようぜって話になって、水曜とか木曜とか…たぶん、週の真ん中だったんだよね、来てたメンバーみんな都心在住なんだもん、私だけ逆方面だから、早く帰らないといけなくて、途中で抜けて出たの。それで、見ちゃって…。

なるほどね…。

さっき午前に、先月の健康診断の精算でやっと人事行ったら、まあもちろんそうなんだろうけど、倉沢さん、後ろめたいことなんて、なーんにもしてません、って顔しててね。うわー、これきついなー、って思った…。

…。きついね…。

鈴香は、ミナガワから話を聞くか、もう興味がないことにして話を打ち切るか、躊躇っていた。

聞いて、どうする? 鈴香はだって、もう、決して…。

わかんないなぁ。田中さんもわかんないっちゃ、わかんないけど、中山くんなんて…。中山くんのほうから、きっと、なにかしらあったんだよね? それ考えると、もうゾワっとして。ほんと、やだった…。あの感じだと、現在進行形で「なにかしら」が続いてるんだろうし…やだなぁ…。たまにしか見かけないからって言っても、黙ってなきゃいけない私にはこんなの、暴力だよ…あーあ。

ミナガワはため息をついて、ね。うー、ぶるぶる。と、身を震わせる仕草をした。

…ブレスレットだ。

鈴香は体を、すうっと、薄ら寒い風が吹き抜けるのを感じた。

あの日、鈴香はブレスレットを楢崎くんの家に忘れて、出社してしまったのだった。出た時に、気づいてはいた。けれど、喧嘩した直後で、取りに戻れなかった。楢崎くんの家には鈴香用の小物入れがあって、その中に入れていたから、なくなったりはしない。実際…翌朝、楢崎くんが鈴香の家に来ていたときには、鈴香の家のアクセサリーケースの、いつもそれが入っている区画に、ブレスレットは物言わず、戻っていた。

するよ。恋愛。でも、叶わないの。

…あの時、奏太は誰のことを考えていた…? 違う、別に誰のことでも、いいし、倉沢さんだってもしかしたら、鈴香みたいに…。

鈴香は、せめて会社では普段通りのパフォーマンスで行こうと思って、自分を騙して頑張って…結局、奏太の家で眠りにつくときまで、楢崎くんとの朝の出来事や、ブレスレットのことは、忘れてしまっていた。思えば、はっきりとした違和感に気づくのが…自分が、違う世界に迷い込んでいると気づくのが、妙に遅かった。そうだ、ブレスレットがないから、わからなかったんだ、いつもなら、もしかして…。鈴香は、唇を噛んでいる自分に気づいて口元を開き、やり場のない手でグラスをとって、自分で自分を、誤魔化した。

わかっていた、つもりなのに。楢崎くんのいない、ミナガワのいない、佐竹さんのいない鈴香に気づく人たちは、「よくない」人たちだ。そういう人たちは、そんな鈴香にすぐ気づいて、少し頭の悪い、素朴な人のような顔をして、鈴香を、汚しに、揺さぶりに、来る…。

…ごめんねなんか、やな感じの話、しちゃった…でも、…鈴香は中山くんの近くにいるから、心配で…。

えー? 何の心配…。もともとそんな…器用じゃないの、わかるでしょう。ミナガワだけで、正直、いっぱいいっぱい。だし、さすがに、私も中山は…ちょっと…ないっていうか…。もともと、同期ってだけで、親しくなる要素ないし。中山だって、倉沢さんが大本命なら、私なんかに構う暇ないでしょう。

わかんないよ。中山くんは絶対、鈴香大歓迎って思ってるじゃん。ていうか誰でも、そう思うよ。みんな狙ってるよ。みんな、状況悪いか、自信なくて、いかないだけだもん。

なにそれ。ないよ…。ミナガワが私のこと…その、好きでいてくれてるから、そう見えるんだよ。

ミナガワは説得を諦めるような表情をした。

鈴香はもっと自覚したほうがいいよ。ほんと、心配なの…。ねえ、鈴香、私に気を遣って、私に頼るの、やめとくとか、ないよね…? 困ったり、弱ったりしたときは、私がどう思うかなんて気にしないで、一番に私のところに、来てね。私がどうとかは、考えなくていい。まず、言って。ね、私のところに、まず、来てほしいんだ。

ん…。ミナガワ…ありがと…ごめん、ね…。

謝んないで。私、…。

料理が来て黙り、そのあいだに友達然とした雰囲気を取り戻したミナガワは、我に返ったように、うわー私、暑っ苦しい…でも、ほんとの気持ちだよ。と、言い足した。

ううん。ちゃんと、言ってもらえると、安心するし、嬉しいよ…?

鈴香は、丸パンをちぎって、運ばれてきたメインディッシュのソースにつけて、口に放り込んだ。もっと…ミナガワのことを、考えながら、ミナガワとランチをするつもりで、鈴香は今日を楽しみにしていた、のに…。

というか。ミナガワって、倉沢さんみたいな人、やっぱり、好きなんだ? って、嫉妬、されたかったりする? ちょっとキャラ、被ってる感じは、するんだよねたしかに…で、私のほうが身近な感じで、いいんでしょう?

ミナガワは、フォークとナイフを構えながら、被ってない被ってない、つか鈴香こそ高嶺の花じゃん、何言ってんの怒るよ、と苦笑した。

嫉妬なんていらないよ。むしろ、疑われるなんて、辛いからやめて。ね?



お会計は、来週泊まらせてもらうのだからと言って、鈴香が持った。外で待っているミナガワに追いつき、地上へ出る階段をミナガワを先に登らせようとして…鈴香はふと、思いついて、自分が先に登った。

踊り場に出る直前に、地下と地上の様子にさっと目を走らせた鈴香は、ミナガワの唇を、掠めるように、奪ってみた。

ミナガワは、地上に出るまでずっと、口を手で押さえて、にやつきそうになるのを、必死で堪えているみたいだった。

もう。鈴香…。いいもん、来週、仕返しするんだから。

ぞくりとした。ミナガワは、とても楽しみにしてくれている…早く、ミナガワと…。

土日休みとか久々だよー。日頃は、まあいっかもう仕事しちゃおうって思うけど、来週はしっかり休み取るためにめっちゃ、頑張るね。また、レベルアップしちゃうなあ。

そのあともずっと、ミナガワは、鈴香のこの土日や来週の予定を、訊かなかった。



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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。