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春を謳う鯨 ⑬

◆◇◇◇ ⑫ ◇◇◇◆

踊り場に出る直前に、地下と地上の様子にさっと目を走らせた鈴香は、ミナガワの唇を、掠めるように、奪ってみた。

ミナガワは、地上に出るまでずっと、口を手で押さえて、にやつきそうになるのを、必死で堪えているみたいだった。

もう。鈴香…。いいもん、来週、仕返しするんだから。

ぞくりとした。ミナガワは、とても楽しみにしてくれている…早く、ミナガワと…。

土日休みとか久々だよー。日頃は、まあいっかもう仕事しちゃおうって思うけど、来週はしっかり休み取るためにめっちゃ、頑張るね。また、レベルアップしちゃうなあ。

そのあともずっと、ミナガワは、鈴香のこの土日や来週の予定を、訊かなかった。

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鈴香はランチから帰って席に着いても、しばらく、集中できなくて、苦労した。

春からチームの進捗管理も、鈴香の仕事になった。鈴香は他の人たちの仕事を見渡すことができるようになり、自分の仕事ぶりが確かに、目立っていたのは、自覚できた。とはいえ…それは鈴香が、自分の仕事に集中できていたからでもあって…いま、鈴香は試行錯誤しながら、自分のペースでは仕事をしない、ということを、学んでいた。学んでいるというか…。鈴香は、ひとりごちた。砂漠を前にした旅人のような気持ちになるときがあるのも、確かだ。デザイン用の方眼紙を思わせるほど細かい格子模様が、ただただ続いているように見えてくる。メンバーの仕事内容の把握はもちろん、色分けを使いこなすのもひと苦労な、WBS…。

奏太はもう…いい。

部署に帰るエレベーターを降りてから、デスクまで歩くあいだに、もう考えないと、鈴香は決めた。そうと決めるのは、それほど難しいことではない。鈴香がどう思っているかだけが、問題なら、そして、鈴香が何とも思いたくないなら…何とも、思わなければいい。それだけのことだ。奏太があの調子で時々メールをしてきても、大して相手をしなければいい。あとはたぶん、今週と同じに過ごせる…危ないのはもしかしたら、倉沢さんのほうかもしれない。ミナガワにそんなところを、目撃されているようでは…。でも、それももう、他人事だ。

他人事だ。鈴香には、何も起こっていない。

あの、何も起こらなかったようなセックスと一緒だ。鈴香には何も、起こっていない…。

ミナガワ…。

別れ際に少し触れた指先から何かが、じわじわと、侵食していた。体が熱かった。1年前にもちょうど、そわそわとデスクに着いていた…鈴香はまだ、その時のまま…。

本当はもっと頻繁に、ミナガワに会えればと思う。けれど、ミナガワはあのとおり忙しいし、鈴香は土日があまり空けられない。鈴香が言えばミナガワが首を縦に振るかもしれないといっても、平日は仕事のことも、半分は楢崎くんとのこともあるのに、そのうえミナガワと会う余力は、正直なところ鈴香には、なかったし、…なにより、ミナガワと「会う」には、きちんと時間が取れたほうがよくて、今日のように、ミナガワが会社に出てきた日と、鈴香が外回りに出ていない日が重なって、ミナガワの胸の高鳴りに震わされながら、ランチに出るのは、ミナガワと過ごす数少ない時間の、ひとつだった。

いまも、ミナガワのほうに相変わらず微妙な距離感があるのを、鈴香はうっすらと、感じてはいた。それは…性的なことかどうかはわからないし、だとしても鈴香には干渉する権利はない、とにかく…ミナガワには、ミナガワの時間がある、ということの、あらわれだった。

えー? 一人の時の私…? きっと、鈴香にはいまいち想像つかないよ。なんっにも、ないもん。虚無とまではいかないけど、たぶん無だよ、無。ほぼほぼ仕事で、それ以外は庭仕事とかの趣味がちょこちょこあって、おおむね技術の勉強してて、あとはただ、一人で暮らしてるだけ。一応ちゃんと友達もいるし、家族ともうまくやってるし、たまには遠出するし。でもほんっと、淡々とした日常生活、って感じだよ。こんなピヨピヨした感じになってるの、鈴香といるときだけだと思うな…。ほーらー、想像つかないでしょ。実は、全然、違うんだよね。でも、きっと鈴香といるこの私が、本当は私なんだろうなって、思うよ。最近は、特にね。それで、ああ幸せって、これなんだなぁって、思う。

ミナガワにはミナガワの考えがあって、ミナガワには、ミナガワの生活がある…ミナガワが鈴香にこんなに、夢中になっているのは、おそらく、鈴香に楢崎くんがいて、ミナガワが鈴香にとっての、はじめての女の子だからだ、ということを、鈴香はわかりかけてきていた。ミナガワだって単に純粋というわけでもない、ということは、鈴香をどことなく、安心させはした。鈴香にミナガワが「ちょうどいい」ように、ミナガワにも鈴香が「ちょうどいい」のだということに全く思い至らないほど、鈴香はおめでたくもない。ミナガワは鈴香のことが、たぶんとても、好きだけれど、それは鈴香が鈴香だけで好きというのもあれ、鈴香の今の境遇と抱き合わせで、一層、好きなのであって…でも? そう、でも、もちろん、それは鈴香には「都合がいい」ことだ…。

ミナガワは、鈴香のことがたぶん、とても、…好き…?

ミナガワはすぐに、鈴香が、激しいセックスがあまり得意ではないことに、気づいた。鈴香は本当は口の中が大好きで、舌を指でやんわり引き出して擦ってもらったり、優しく天井を触られるととても、ぞくぞくする。服の上から体温や気持ちを感じる時間が好きで、丁寧に、見つめられながら、服を脱がされるのが、好き…鈴香は、手足の甲や背中をそっと、愛撫されたい。見つめあって触り合うのは気持ちが高まって、嬉しい。感じているときは、耳元でひそひそと、好きだよと言われたい。べったりと体をくっつけて、キスに没頭するのが、好きだ。愛撫の途中に体を褒められると、どう思われているか気になって、集中できない。体のなかは、ゆっくり探ってもらうと、大事にされていると思えて、蕩けたような気分になる。触っているか触っていないかくらいの触りかたで外側をずっとなぞられるのが本当はいちばん楽しめる。わがままを言っているようで、なかなか言えないけれど、気持ちいいと思うことはやめないで、ずっと、ずっと、…ずっと…してほしい…。

何回かに分けて、ミナガワは鈴香の「本当は」をひとつずつ、暴いて、ひとつずつ、丁寧に、叶えていった。鈴香は、そっと、ミナガワに触ってみることもあった。ミナガワのたっぷりした、なめらかで、張りのある体は、皮膚が意外に薄くて、静脈が透けて見えるほどで、どこもかしこも、繊細にできていて…鈴香は、女の子にそんな風に触れるのは初めてで、触れるだけで、気持ちが一杯になってしまう、こんな、自分が、いたなんて…。ミナガワは、まだ鈴香は慣れていないし、ミナガワが鈴香のことを覚えるほうが先だからと、鈴香だけがミナガワに触る時間をあまり、作りたがらなかった。鈴香は、ミナガワばかり鈴香を気持ちよくするのは損な気持ちにならないか、訊いた。ミナガワは優しく笑いかけて、ううん、そんなこと考えたこともないよ全然、だって、嬉しいよ、鈴香のこと大好きだもん、私で感じてる鈴香が目の前にいるなんて、こんな幸せ、ないよ。と、鈴香に、もう少し深く、指を埋めた。

鈴香が信じて、体を預けてくれるの、すごく嬉しい。私、ずっとしてたいんだよ。

ミナガワに捕まって息を呑み、喉を鳴らした鈴香の瞼に、ミナガワは優しく、口づけた。

本当に…? そんなこと…だって、暇じゃ、ない? きっと、ミナガワには、単調で…ミナガワは、何にも…。

鈴香。私が、鈴香のこと大好きって、こういうことなの。暇なわけないじゃん。感じてる鈴香を感じるので、とっても、忙しいよ。だんだん…鈴香も、近づいてきてくれてるって、わかって…私、いま、とっても、満たされてる。もっと、来て。





そうやって…ミナガワと鈴香は、少しずつ、けれど確実に、近づいてきて…ミナガワは鈴香を、ひたひたと、隅から隅まで、満たして…鈴香は、溺れそうで…この前、会ったときのことだ、もう、1ヶ月近くも、前のこと…長い、長い愛撫のあと、ミナガワはベッドの下から、何かを取り出した。ベッドに横たわった、恍惚とした視界の隅に、ぼんやりと、透明な、…波打つように隆起した、グロテスクな形を認めた鈴香は、ぎょっとして、起き上がった。

ミナガワ…?

んー…?

そそり立ったそれに、ミナガワはコンドームをかけた。

新品だし殺菌も、しといたけど…鈴香はこの方が、安心でしょう。ただねーこれ、わかるよ、ちょっとこれ形がねー…おしゃれなのが、よかったね。ごめん…。けど動くやつよりしっかり、挿れられるし、音出るのはきっと、鈴香は集中できなくて、苦手だもんね?

鈴香だって、全然、経験がないわけではない。けれど…。

私、ミナガワにそういうの、求めてるわけじゃ…。

ミナガワは、楽しげに、鈴香に顔を近づけて、眉を唇で食んだ。

鈴香…これは「そういうの」じゃないよ。鈴香、ね、鈴香はもっともっと、気持ちよくなれる。これは、鈴香が思うような「そういうの」じゃないんだよ。すれば、わかる。いっぱい、いっぱい、気持ちよくなってね。

鈴香。鈴香、大好き。大丈夫、いつもみたいに、ゆっくり、ゆっくり、楽しもう…? と、ミナガワは囁いて、ベッド下から一緒に出していた、潤滑ゼリーを、手に取った。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。