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創作の悦びとその絶頂:『愛を犯す人々』ができるまで①

【合わせて読みたい:これは一話完結の連作短編集『愛を犯す人々』のスピンオフエッセイです。こんにちは世界がふとしたきっかけで物語の端緒を掴み、糸の絡まりや編図に頭を悩ませながらも一生懸命、慣れない手つきでやっと小品を編み上げる様子を、日々の静かな口調でお届け。実はお仕事にも使えます、個人的なルール、楽しみで仕方のないこと、最も美しい瞬間 他】

 平素は格別のご愛顧を賜りまして誠にありがとうございます…!

 全5篇の3作目まで無事公開できた『愛を犯す人々』、ご自分のコメ欄を利用してご感想くださる方もあり、身の程に余る愛と沢山のご質問をいただきまして…どうやってこういう作品ができるのか、メソッドというほどでもないですが、私がちまちま、編み編みする様子をば、ここでお伝えして、皆さんにも私の書きあげる喜び(歓び?悦び?)をお届けできたらば…と、書き綴ります。ちょっと長いかも…切った方がいいかな。適当に切ります。①は全体論、②は具体例でいきましょう。ね。

※今回②のデモに使う未完成品:陽菜子篇、の裏で実はもうひとつ起動してました、理理子篇です(詳細は②で…)。これを機会に何かしら進展するといいなぁ。

方法論について

 私が採用している基本的な手法は、顧客体験設計とかマーケティングとかやってる人には大変身近な「ペルソナ法」という手法です。

(マーケ詳しくないけど漫画に詳しい人なら、『ジョジョの奇妙な冒険』を始め様々の漫画キャラクタや単発BLコミックにおいて、同様の手法がとられているのは、ご存知かもしれません。)

 「ペルソナ法」とは、ターゲットにしたい人を名前、年齢、最寄駅、家のタイプ、ライフスタイル、から、座右の銘、将来の夢、購買履歴、友人関係、平日休日の過ごし方、実家との関係、悩み、口癖、思い出の写真に至るまで、力の限り具現化した状態で、その人がサービスを利用する局面を考える、という、サービス設計技法です。顔写真もフェイスブックとかから適当に拝借して、その人のことを想像。なにかイベントがあったときに「いや、タカシはそんなことしない」とか、「タカシはオレンジ無柄の折りたたみ傘をいつも持ち歩いている。タカシは背が低いけど、雨の日なら恋人は彼をすぐに見つけてくれる。ちなみにその恋人は、タカシの社会的地位にあまり満足していない」とかもう、どうでもいいことが勝手に出てくるところまで想像するんですね。

 ペルソナ法において面白いのは、サービス設計局面に至ると、個人が捨象されて「顧客」として再解釈されるところ。

 こんなに一生懸命考えるのに、設計されるサービスには「個」の細部は何にも残らないんです。

 しかしながら設計におけるインサイト(本質的な課題や要件に対する気づき)の成否は「いかにリアリティのあるペルソナを想定できるか」にかかっています。味のある技法なんです、とても。

そして『愛を犯す人々』へ

 『愛を犯す人々』では、このペルソナ法をサービス設計に活かすのではなく、ストーリー展開と人物描写に活かしています。

 マイルールは、「婚外」「幸運と幸福」「ギリギリありえる」。そして、「裏設定には頼らない」…必ず、本篇だけで物語が成り立ち、私の裏設定はあくまで想像や妄想の域を出ず、他の人物像があってもいい、というスタンスを保てるよう、本篇を綴ること。

 相手の相手の愛を蹂躙し、或いは自分の愛のルールを破り、或いは踏み越えたら戻れない一線を、そうと知りながら踏み越える人たち…彼らを美しく着飾らせ、寓話的なストーリーに乗せたところに、性愛と姦淫のスパイスをひとつまみずつ効かせたのが、この『愛を犯す人々』連作です。

 noteという媒体を見て、私が最も魅せられたのは、私がペルソナ法を採用すると捨ててしまう裏設定が、付録として楽しめる構造になっているところ。私にとってここはとても、素敵な場所です…。

書く楽しみについて

 詳しくは②に譲りますが、これだけ無駄に裏設定をすると、書いているうちに登場人物たちが身近に感じられてくるんですね。あまり覚えてない夢を一生懸命思い出す時のような手つきで、私の筆が彼らの輪郭を少しずつ、けれどもたしかに、なぞる、この時間が、私はとても好きです。

 どう言ったものでしょう?

 ホームズが、さっき見た事件現場について思いを馳せる時、記憶を辿って例えば、絨毯のちょっとしたズレを思い出すことで、たちまちに事件が解決するような、そんな思い出しかたです。何か違うなぁと思ってエピソードをばっさり切る時も、彼らに出会える瞬間が近くなってきた気がして好きだし、彼らに出会えたあと、少しピントを合わせて細部を見せてもらうのも好き。

 一番嬉しいのは、彼らが本当にどんな人かを、ふとした仕草や言葉で見せてくれる時です。ヒロセの沈黙、蒼唯がプルトップを開ける音、紬の「足りないところ、全部、埋めてあげるよ。」とかですね。これはなんというか、私が意図して生まれてきた事象ではなくて、カメラを回していたらたまたま入ったような気持ちで見た、彼らの姿。自分の下書きをじっと見ていて、なんだかここもつれてるなぁ、なんだかここ、スカスカだなぁ、なんだかここ、掛け違えてるなぁ、みたいなところがあって、編目をひとつずつ直していくんですね、その作業の中で、ふと、捩れが直る時があって、それはこんな時。こんな時、彼らが私に託してくれたほんの小さなスケッチを中心点に、まるで「大」が「犬」になるような、形式上の転回ではない、物語の意味論的な転回があります。これは書くときにとても、楽しみにしている瞬間で、そこに至るまでの全ての無駄な手の動きをさえ、私は愛してやみません。

書くことの愉悦について

 ラストラインに向かって音楽が収束していくさまを、武満徹は川と海に喩えました。個々の音符は彼にとって、音楽が、川としての生命を終息すると同時に川という道から解放され、海という、水としての自己を見失わずに新しい形の生を得るまでの、まさに水先案内人と言えるでしょう。ここに音符がある、その音符は、楽譜の中でエンディングへのベクトルをちゃんと持っているわけですね。

 私の手に乗っているのは音符ではなくて、言葉ですが、そのひとつひとつは楽譜の中の音符のような存在。言葉の全ての連なりが、ラストラインに向かっているのを感じるとき、私は自分の紙面が、私の人生という薄闇のなかで優しく光っているのを感じます。

(そんな時は、少しのあいだ目を閉じて、言葉という光の雨が慈雨のように、私に優しく降りかかるのを、静かに楽しみます。)

 そして、そのラストラインの先には何の言葉もなくていい、と感じるとき…私は、私は書き終えた、と思うのです。




:『愛を犯す人々』を集めたマガジン。なんども読んで味わっていただけると、それが何より、嬉しいです。気に入った曲をリピートして聴くみたいに読んでもらえたらそれは、とても、光栄なことです…。

ありがとうございます。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。