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砂漠、薔薇、硝子、楽園、(24)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》物語概要 / 登場人物紹介

》》》23.
「あなた自身より深くあなたの人生に関わる人間からの、親切な助言だ」

>24.ニキ_

信じていた…誰を?

仁綺は足裏に、自重を感じた。砂に立った裸足が、半ば埋もれていた。重心を移動させると、乾ききった砂粒が、足をくすぐった。

砂漠だ。

夢か…。それとも、記憶を喪っていま、ここにいるのかもしれない…? いや、やはり夢だ。太陽がないのに、こんなに明るいのだし、なによりもまず、温度の感覚がなかった。雲ひとつない、絵に描いたような空色の青空の下に、絵に描いたような、砂漠が続いている。仁綺はあたりを見渡した…見渡す限り砂の世界が、広がって…仁綺の後ろはすべて、どこかほかの惑星の大地のように無機質に、陰影こそあれ、地平線まで、砂色一色だった。前方は…なだらかに、丘になっていて、向こう側は、見えなかった。

夢は嫌いだ…仁綺は、自分が白いタンクトップに、脚を切ったショートジーンズ姿で、左足首にミサンガをしているのを、見下ろした。端の擦り切れた、灰緑色のミサンガだ。仁綺は、こういうのは、好みじゃない…自分自身にも、他の誰にも、仁綺は約束など、しないのに。

夢は、嫌いだ。

仁綺はひとりごちた。ああ、夢なら、目が覚めるまで、することがないな…。

仁綺は、丘のほうへ向かって、砂の上を歩いてみた。意識してみると、感触が冷たいことに気づいた。そのうちに、心なしか砂にも重みが出てきて、仁綺は感覚の変化を確かめながら、淡々と、歩き続けた。高いほうに行けば、そこから何か、見えるかもしれない…あまり、期待はしないけれど。

…雨…?

ふと、腕に感触をおぼえて、仁綺は立ち止まった。雨を受ける形に、手を広げてみる。何も、降ってこない。腕を下ろそうとした時、仁綺はびく、と、体を震わせた。

い、た、い…?

突然、針で刺したような鋭い痛みが、走ったのだった。仁綺は雨粒を感じた右腕を、持ち上げた。ちょうど、そう、雨が落ちたところ…肘の少し、上の、表側…。

1ミリほどの穴が空いて、煙が立っていた。

焼けている。

仁綺は、空を見上げた。

何もない。奥行きもないような、のっぺりとした空色だった。まるで惑星写真のような、無感情な色味…。

仁綺は、あたりを見渡した。

あの、砂丘の向こう側には、何かあるかもしれない。何もないかもしれないけれど、とりあえず、少しでも高台に向かって歩くしかない。歩いているうちに夢が覚めるかもしれないし…それに…仁綺は「穴」に手を当て、剥き出しになった組織が擦れる痛みに、体を強張らせた。それに…そう、ここでは何が起こるか、わからない。屋根があるところを早く、探さなくては…。

砂が、風で舞い上がって、仁綺を通り過ぎた。仁綺は顔を庇いながら風が過ぎゆくのを待ち、また、砂丘を登った。足は次第に深く沈むようになり、一歩、一歩と、仁綺の歩みは遅く、鈍くなった。

あ、…。

「雨」が、仁綺の頬に落ちた。仁綺は動悸を抑えようとした。

これは、…夢だ。夢だ…痛みは、概念だ。痛みは信号だ。痛みは、電荷…。

ほどなく、刺すような鋭い痛みが走って、仁綺はびくりと顔を振るい、立ち止まった。さっきの「穴」がまだじんじんと痛む、仁綺は右腕を持ち上げて、同じように痛みはじめた、頬に触れた。

い、た、い…。

痛い。

指先が組織液で薄まった血で、濡れていた。

痛い…。

焼けている。

ここは、駄目。

ここは駄目だ。早く、屋根のある場所を探さなくては…でも、なかったら? 仁綺は痛みに構わずに、駆け上がろうとした。後ろには何もない。でも、もしかしたらこの丘の向こうに…せめて、丘を越えるまで…仁綺は登るにつれ深く足が嵌って重くなる歩みを、引きずるように無理矢理、早めようとした。

あ、…。

…これは? これは、何? 薬品? 雨ではない。こんな雨が、…仁綺は肩を抱き、俯いた。痛い。

痛い。痛い。痛い。

痛い。雨粒はやがて、駆け出すようにどんどん落ちてきて、仁綺を文字どおり、貫きはじめた。肌に落ちた時にはもう、穴が空いている。痛みが、遅れて、光のように走る。痛い。針で刺し貫かれるようだ。どうにかしなければ。痛い。…痛い。痛い。痛い。…痛い、痛い…仁綺は登るのをとうとう、諦めて、目の前の砂の傾斜の中に潜り込んだ。痛い。ここは駄目。痛い。痛い。いまは、いまはとにかく、隠れなければ、駄目…。

砂を被る。穿痛が浅くなるいっぽうで、点々とすでに焼けた箇所が、砂に洗われた。剥き出しの傷が砂に触れる痛みに涙が溢れる、仁綺は目を閉じて、砂の中に必死で、潜った。もっと潜れば、きっと、やり過ごせる。きっと…。

腿に。

何かが、絡まった。砂を被った足元を見た仁綺はぎょっとして、足を振り上げて「それ」から逃れようとした。

手だった。

男の、手だ。所々黒く窪んだ…湿っていて、表面は浮腫んでいるのに、枯れ木のように硬い、…腐りはじめた、男の手だった。手が掴んでいる、その下の傷に走る痛みに耐えながら、触れなければいけない嫌悪感と戦いながら、仁綺はその手を外そうとしたけれども、仁綺の細い、白い腿に食い込むほどの力で掴みかかっているそれは、皮膚がずるりと剥け、肉が滑り、骨が見えてもなお、振り払える気配さえしない。仁綺の、被せた砂が落ちてしまった裸の脚にはそして、ひっきりなしに雫の当たる感覚があり、剣山を打ち込まれるような痛みが、仁綺を襲い、そのたびに、仁綺は体を痙攣させた。痛い。心を失うようだ。痛い。痛い…。

やめて。

やめて? 誰に言えばいいの? やめて。もう、やめて。…頭の中には悲鳴が響いていても、ここに、それを叫ぶ相手などいない。

「やめて」…? 誰が何をやめれば、助かるというのだろう? 私はどうして、逃げなければいけない? 死んでしまえばいい、このままいなくなってしまえば、…生は苦痛、生は痛み、痛みは仁綺を殺すことができない、命は、仁綺を殺すことができない、誰もいない、仁綺はいま、ここでひとり、苦痛と恐怖で縮こまって、…夢だとわかっている。わかっているのに、わかっているなら、どうして、生きようとしなければいけない?

誰に助けを求めているの?

誰も、いないのに。

…い、…た、…い。

痛い。痛い、痛い…。

仁綺は体を折ろうとしたけれど、丸まることはかなわなかった。いつのまにか、腕も、脚も、掴まれていた。沢山の手に…沢山の、凹んで、黒ずんだ、歪んだ、腐った手に、掴まれていて、仁綺は本当に、声をあげようとした、けれども、開けた口に砂が入って、すぐに口を閉じなければならなかった。口を閉じ、目を閉じ、四肢を掴む無数の手に抵抗して体を丸めようと、仁綺はもがきながら息を止めた、その間にも痛みが降り注ぎ、仁綺は苦しさで、痛みで、意識が遠のくのを感じた。

駄目だ。

駄目だ。ここも、駄目…。



仁綺は、目を開けた。薄暗い。車中だった。横に凭れていた姿勢から、体を起こして、背中をシートに預けた。呼吸が苦しく、心臓は空回りしそうなほど、早く打っていた。
「おはよう。ニキ。まだ少し、時間がかかる。そのまま、眠っておいたら?」

右隣から、イヅルの声がした。仁綺は、ワインレッドのカクテルドレスを着ていた。足元に、蛇革の赤いヒールが斜めに、倒れ置かれてあった。礼装をしたイヅルが、手袋から抜いた手の指先で、仁綺の頬をそっと辿った。
「君、泣いているよ。また、夢を見ていたの?」

「ん…」
仁綺は頬を辿るイヅルの指を取って、絡めた。虚空を眺めるような、茫漠とした眼差しで、呼吸を鎮める仁綺の横顔を、イヅルは静かに、見つめていた。車は、林道を走っていた。二人はリムジンの左側に、仁綺を前側にして、並んで座っていた。偏向ガラスの向こうには、針葉樹林が広がっていた。
「眠りが…浅かったんだか、深かったんだか…。できればもうちょっと早く、目覚めたかったな。でも、…夢でよかった。夢でなければ、とても、つらい…」
「……」
イヅルは、絡めた指の上から、もういっぽうの手で仁綺の手を包み、そっと、摩った。仁綺は、イヅルに寄りかかって、合わせているイヅルの手を、まだ力の入らない指先で、握った。

「夢で、よかった」

二人は、しばらくは黙って、リムジンの振動に体を委ねていた。そのうちに、目が合って、二人はどちらからというわけでもなく、ゆっくりと顔を近づけ、躊躇いを楽しむ慎重さで、柔らかく、唇を重ねた。舌を出しかけた仁綺の舌先をくすぐった、その舌先でイヅルは仁綺の唇をたどり、睫毛をを震わせて甘く息を漏らした仁綺の、頬に手を当てながら、顔を離した。

「スグルは…元気かな? 騙すみたいに置いてきてしまったから、きっと、怒ってる」
仁綺が呟くと、イヅルは優しげに、微笑んでみせた。
「どうだろうね。ただまあ、彼の場合、追われるより、追うほうが燃えるんじゃないかな。今ごろ、君を血眼になって探しているに違いないが…彼にしてみれば、当面の生き甲斐ができていい、というくらいだろう」
「きっと色々、誤解してる。私がイヅルといると知ったら、さらに、怒るだろうな」
「薄々、感じてはいるとしても、彼がはっきりと知ることはない。黙っておけばいいさ」
「意地悪」
「慈悲だよ」

仁綺は、話しながら絡めていた指先を緩めて、イヅルの甲をつついた。

「意地悪だよ」
「思い遣りだ」

二人は、見つめ合った。イヅルは仁綺の双眸に、感嘆するような、明るく濡れた視線を注ぎ、仁綺の目尻を指差して、口付け、頬に添えていた手を、仁綺のカクテルドレスのデコルテの、露わな肩に置いた。

「やっぱり、不思議だな…」
「? なにが…?」
「ん…? そうだね…君が…僕のことをたまに、イヅルとかスグルとか呼ぶことについて、僕は特に異論を唱えてこなかったろう?」
「……」
「君は、『イヅル』や『スグル』を、心から大切に思っている。僕には、それがとても、愛おしく感じられるからね。けれどもやはり、不思議な感じがする。君にはどうやら、『現実』に対する疑念がない。君が狂っているのかな。それとも、僕が狂っているのかな。あるいは、二人とも…?」

「……」
仁綺は、体を引いて、両手を外腿の下に入れた。
「あなたはイヅルじゃ、ない…?」

イヅルは、答えずに、微笑んだ。仁綺はイヅルを見据えながら、腿の下の手に、力を込めた。

「…あなたは、…だれ?」

「さあ…? 僕にしてみれば、誰でもいい。正確には、僕が誰なのかは、僕にはわからない。考えてもご覧。僕は、僕にとっては僕だが、君にとっては、僕でない誰かだ。そしてそれは、『僕にとっての僕』が誰であるのかとは、関係がない」
「……」
仁綺は、呼吸が早くなるのを感じた。ここは、…ここはどこ?

イヅルは、どこ?

「イヅル」は脚を組み、隣の仁綺を覗き込んで、楽しげに、話しかけた。

「とはいえ…せっかくだから、僕も、訊き返そうかな。本当はね、僕のほうこそずっと、尋ねたかった」

「イヅル」は、組んだ脚に置いた手指で小さく、ゆったりと、リズムを取りながら、体を固くして「イヅル」を見つめ返す仁綺に、穏やかな春の日の日向のような、害意のない微笑みを向け、そして、静かに尋ねた。

「君は、だれ?」


仁綺は、目を開けた。




>次回予告_25.スグル

「君たちの表現で言うなら、『カチャッとしてピ、するやつ』だよ」

》》》》op / ed



今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。