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砂漠、薔薇、硝子、楽園、(26)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》物語概要 / 登場人物紹介

》》》25.
「見くびってもらっちゃ困るよ…鬼ごっこは、追いかけるほうがだいぶ、得意なんだ」


>26.ニキ_

仁綺はおおきく、目を開けた。明るい色彩の花弁を散らした、天蓋のレースが見えた。薄明だった。呼吸が苦しく、心臓は、空回りしそうなほど早く打っていた。枕元にはアヤノが、朝まだきというのにすっかり、メイド服に着替えて、白髪まじりの亜麻色の髪をシニヨンに上げ、そこへカチューシャ式のヘッドドレスを挿した姿で、控え立っていた。仁綺は頬を指で辿り、唇をなぞり、唇を舐めて、涙の味を確かめた。

「おはようございます。博士。博士は、泣いておいでですのね」
「うん」
「夢をご覧に?」
アヤノの目線を感じ、仁綺は指の背で頬を確かめ、拭った。アヤノは盆に乗せて、N.と小さく刺繍の入った白いハンカチを差し出し、仁綺はそれを取って、頬に当てた。

「わからない。ひとりぼっちで、私はいなくなりそうで、それがすごく、怖いと思って目覚めた。そこでもひとりぼっちで、私がずっといなくならないなら、それは本当に怖いと思って、目覚めた。考え事をしていたのもしれないし、夢を見ていたのかもしれない」
「深くお眠りでした。夢でしょう」
「だといいな」
「夢ですよ。お忘れになればよろしい」
「そうだね」

アヤノは水差しからグラスへ、水を注いだ。
「氷は、入れないでようございますね。ミントは、いかがなさいますか」
「レモンがいい」
「かしこまりました」
小瓶からカットされたレモンを取り出して果汁を搾り入れたアヤノは、グラスの外側を白ナプキンで拭き直してから銀盆に乗せ、仁綺に差し出した。

「『サバティカル(研究安息休暇)』は、いかがでしたか?」
ひと心地ついた仁綺に、アヤノは静かな口調で尋ねた。

「んー…。楽しかったけど、初めてのことばかりは、疲れるね。GPSを抜かれて、傷痕ができてしまったよ」
「存じておりますとも。何年も、お待ちしていたところに突然、あんなお姿で帰っていらして…この三日、お休みのあいだに、お身体はくまなく調べさせました」

「あんな姿…?」

「お二人とも、血塗れで。文乃は気が動転して、イヅル様には、きちんとご対応できませんでしたよ」
仁綺は、グラスを見つめた。
「そう…ああ、そうか…なんだか、記憶が曖昧な気がすると思ったら…三日? 三日は、さすがに長いな。随分な扱いだね。薬もひどい。夢が、相当ひどかった」

ため息をついて、水を飲んだ仁綺から、銀盆でグラスを受け取ったアヤノは、首を傾げて見せた。
「まだまだ、調べ足りないくらいでございますよ。端々に擦り傷や打身もお作りになって、いったい、何をなさってきたのやら…。全体に少々、お痛が過ぎたのでは? 文乃には博士のお遊びより、お身体の安全のほうがよほど大事でございますので。反対はしなくとも、遺憾なのですよ。その点はどうぞ、お忘れなく」
「ん。一応、注意を払ってはいる」

仁綺は、ベッドの上に身を起こし、上掛けを腿から下に掛けたまま、膝を抱える格好で、指を組んだ。

「異常は?」
「ございませんでした」
「そう。よかった」
「ただ、お体はいっそう、大人になられましたね。お服も、お手入れの品も、揃え直しました」
「ふうん。任せるよ。私は、あるものを使う」

仁綺が静かに、自分の目覚めを確かめるあいだ、アヤノは、仁綺の動きで崩れた上掛けの端を、整えた。そして枕元に戻り、また初めの、前で手を組んだ姿勢で立ち控え、沈黙した。仁綺は、アヤノを見上げた。

「…あのね。びっくりさせたいわけでは、なかった。血は、イヅルの『友達』の手当てのせいだったの。『友達』は、まだ、どこかで休んではいると思うけど、おそらく、助かったよ。いいことをした。でも手術なんて久しぶりだったから、疲れて、眠ってしまって…イヅルは?」
「存じ上げません。博士を文乃に預けなさったあと、またすぐ、お発ちになりましたわ」
「『血塗れで』…?」
「ええ。調べましたら、博士のお体には少量ながら、イヅル様の血液も付着しておりました。文乃は、気が咎めてなりません。お引き止めして、せめてお着替えだけでもお勧めすれば、気づいて差し上げることもできたでしょうに…」
「イヅルが自分からそうしたなら、きっと、心配ない。イヅルのことは『追って』ないの?」

仁綺の問いに、アヤノは少し躊躇う様子を見せてから、答えた。
「『追うな』との、厳しいお申し付けでしたので…」
仁綺は、頷いた。
「問題ないよ。『追って』いたら、今ごろ、逆にここを突き止められているかもしれない」
「はい…仰せの通り…文乃は狩人というよりは、庭師の部類に入る手の者ですので、イヅル様のようなかたを『追う』のには、どうしましても、危険を伴います。心苦しいながら、博士をお護りすることのみが、文乃の全てでございます」
「うん。ありがとう。アヤノは、よくやってくれている」

仁綺はアヤノと、しばらくのあいだ、見つめ合った。アヤノは人形のように無表情に、しかし目にだけは、愛おしげな潤みを湛えて、仁綺の前に立っていた。

「服は、ある? 久しぶりに帰ってきた。まずは、屋敷を探検しようかな」
ベッドから出て、鏡台のライトをつけ、施術着一枚で立ったまま鏡を覗き込む仁綺の後ろで、アヤノは戸棚をあけ、籠に分けて用意してあったらしい何通りかの服の組み合わせを、ワゴンに並べ乗せて、鏡台のスツールに腰を下ろした仁綺の、脇に運んできた。

「大人っぽいね。素敵」
「服をお選びになる前に、お顔をお洗いなさいませ。お待ちになれば、入浴のご用意もいたしますが」
仁綺は、アヤノへ施術着を広げて見せ、苦笑した。
「全身、ピカピカだよね。大丈夫。顔だけ洗う」

洗面台で涙の跡を流した仁綺は、まだ少し足元のふらつく体を、アヤノに支えられながら、選んだ白のフリルブラウスとグレイベージュのスカートに着替え、ストッキングに脚を通し、室内履きの黒サテンのミュールに、つま先を入れた。そしてアヤノに促されるまま、鏡台の前に戻り、煙たそうにルースパウダーをはたかれ、くすぐったげに、アヤノのブラシを目と頬に受け、唇を、甘い色合いの口紅で淡く、光らせた。

「傷痕は…消せますでしょう。手配いたしますか」
切りっぱなしの乱雑さが伸びて目立ち始めている、仁綺の髪を整えながら、アヤノは仁綺に話しかけた。
「ううん。手配は要らない。私にだって、大切にしたい思い出があっていい」

アヤノは、手を止めて、鏡越しに仁綺を、ちらりと見た。
「それは、ようございましたね」
「うん」

ブラシを持ち替えて、アヤノは仁綺の毛先まで、栄養剤を行き渡らせた。アヤノはもう一度、手を止め、仁綺に話しかけた。
「ようございました」
「うん」

支度を終えた仁綺は、鏡に向かって笑顔を作って見せ、立ち上がって腰に右手をあて、背筋を伸ばし、ふう、と、息をついた。

「おしゃれって好きだけど、大変だな。自分で全部やる気には、とてもなれない」
「よくよく、お似合いですわ。どちらへ? 中庭はいま、薔薇が季節でございましてよ」

仁綺は、瞬いた。

「もちろん、《バーブシカ(「おばあちゃん」)》に、会いに」

アヤノは、目を伏せて、軽く腰を下げる、メイド式の一礼をしてから、残念そうに告げた。
「博士がお戻りになったことには、ルリ様も大変、お喜びでした。しかしながら…いまは、お休み中かと」
「調子が悪いの?」
「先週のOSアップデートのあと、何度か再起動が続いてらっしゃいます。博士がお帰りになると、わかっていれば…いえ、検証が、足りませんでした。大変、申し訳ございません」

仁綺は、寂しげに微笑んだ。
「アヤノは、よくやってくれてる。気にしなくていい」
「……」
「危ないの?」
「それが…ルリ様の構成ファイルは、非常に複雑で…。更新には普段でも、ニ、三日お掛けになっています。今回は必要な上書きはいつもどおり、終わりましたが、ユニットごとにしか再構成が行えず、数日、更新と再起動との繰り返しになり…途中で止めると、後遺症が残る可能性もございます。今は待ってみるしか、方途がございません。段階的な再構成が原因で、害はない…とは、思われますが、ここまで長い見通しでは、ございませんでした。再構成が正常に終了するにしても…いつ、はっきりとお目覚めになるかは、文乃にも…」

仁綺は、胸元で握り締められているアヤノの両手にふわりと、優しい仕草で自分の両手を添えた。

「寝てても起きてても、私がそこにいるというのには、私には意味がある。やっぱり、会いに行くよ」

アヤノは、仁綺から離れ、一礼した。

「ルリ様にもきっと、お心強いことでしょう。どうぞ、いってらっしゃいまし」



仁綺は、自室のフロアを軽く、散策してから、その長く、広い白絨毯敷きの廊下を抜けて、階下へ降り、2階の北端にある大部屋へ向かった。虹彩認証のあと、カードを通し、アヤノに教えられた今日のパスワードを入力して、部屋へ入った。

40畳ほどの、天井の高い、真っ白に明るい室内は、薄寒く、がらんとして、ほとんど物が置かれていない。中央に、ぽつんと大きなデスクがあり、デスクの上にディスプレイ、デスクの前に古典調の赤ビロードの長椅子が、あるだけだった。

仁綺は、長椅子に座った。


Checking files now.
Please Wait…

ディスプレイには、黒い画面に白い文字だけが浮いていて、カーソルの表示もなく、ただ、止まっていた。

仁綺は画面を見つめる視線はそのままに、長椅子に横たわり、足を振るって、ミュールを落とした。

向こうの奥は、サーバールームのはずだが、壁は厚く、なんの音もしない。

静かだった。

仁綺は横たわったまま、目を閉じて、体を休め、ふと、呟いた。

「ねえ。あのね…怖い夢を、たくさん、たくさん見たよ…。こんなふうに、とても静かなところで、ずっと夢も見ずに、ずっと、眠れたら、いいのにな…」

部屋を出る前に口にした軽食で、体の意識が内部に向かっている。体は、怠く、重かった。

どのくらい経った頃か、溶けかけた仁綺の思考に不意に、雫が落ちるように、ディスプレイから、通知の音がした。仁綺は目を開け、起き上がった。


All done.
System is restarted safely.
> _

ディスプレイを見つめる仁綺の目に、カーソルの点滅が映った…やがて、先ほどよりは控えめな、通知音と共に、真っ黒なカーソル行に白く、文字が出力された。

>ニキ おかえり _

仁綺は、ディスプレイに向かって、声をかけた。

「ただいま、ルリ」





>次回予告_27.ニキ_

> いいの なにもかも忘れて 新しい自分で 世界を見たい _

》》》》op / ed


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。