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愛を犯す人々⑤理玖

 戸田先輩から4年ぶりに電話が掛かってきたのは、奈那子がコンビニのトイレに行っているのを待つ、車の中だった。

 え、嘘、出てくれるなんて、思てなかったから何、話してええかわからんやんか、とりあえず、元気?

 相変わらず、くすぐったい関西弁混じり。相変わらず、鈴が鳴るようなイントネーションの、相変わらず、甘くて高い声で、先輩は相変わらず、訳のわからないことを言った。

 ええ元気ですよ。どうしました?

 あんね…や、いまさ、奥さんといる?連休明けやから…なんか…音楽かかってんね…?買い物中とか?

 休みでしたよ。いま、車で待ってます。向こうがコンビニで…すぐ戻ってくると思いますよ。

 えーめっちゃタイミングええやん、いま、ドキドキしてるんじゃない?

 理玖は一瞬悩んだ。ときめきではないけれども、心拍数は確実に普段より高い。自分はいま、…どうして、「嫁」とか「奥さん」とか言わなかったんだろう。

 先輩にじゃないです。

 いーねえ。変わらへんなぁ。あのさ、3日週の金か土、飲みに行きたいんな。今、どこに住んでるの。

 …清澄です。

 うっそ、近!

 はあ。

 うち、いま錦糸町!

 流石に…驚きました。お隣さんレベルですね。…いいですよ飲みに行くくらい。その金曜なら、空いてます。

 やったぁ、ありがと嬉しいなぁ。あ、それがわかれば、もう切るよ。メール生きてる?

 あんまり変えませんけど、どうですかね。

 うち持ってるの、ナナナリク@ジーメール的なやつ。

 あ。使ってないです。

 おお、バッサリきたねぇ。いまちょっと、深めに切り傷、ついた…。iPhone?

 はい。

 じゃあメッセージでいいや。明日の昼くらいにまた連絡するね?職場、もう一緒じゃなかったよねぇ。

 ? …誰かから聞いたんですか?ええ、向こうが転職で…。

 まあ、もう、悪いことするわけじゃないんから、こそこそしなくてもいいのにねぇ?なんか、悪いことしてるみたいにすると、興奮するよね。

 理玖は先輩の冗談を、苦笑して受け流した。

 変わってるとこ、変わんないんですね。俺は疑われるのはごめんですよ。今日も含めて、連絡は平日昼以外、しないでいてくれると、無難ですね。

 何言ってんだ俺は、と思いながら、理玖は、コンビニで何かを買っている奈那子を見ていた。何やってんだ、俺は。

 OK、今後はドッキリ仕掛けない。約束するよ。じゃあね…相変わらずいい声してんね?好きだなぁ。

 急に投げ込みますね。

 余裕ないんかもね、明日ね、じゃあ。

 はい、と答えるのを待たずに電話が切れた。理玖は、着信履歴を消して音声ファイルを探した。奈那子が帰ってきて、何をしていたか訊くに違いないからだ。…何やってんだ俺は、何やってんだ、何やってんだ俺は。理玖の頭の中を、2度だけ見た先輩の白い裸体がよぎっていた。脱ぐと意外にむっちりしていて、情欲をたぎらせながら吸い付いてくる、なめらかで、やわらかな手触り…。

 お待たせ。ごめんね、トイレもレジも並んでて。

 奈那子は助手席に座りながら、理玖に小さなレジ袋を差し出した。

 小腹空いてない?ピザ饅買っちゃった。半分こして、食べたら帰ろう。今日はなんだか、疲れたよね。あ。これお茶。

 ん。サンキュ。帰ったらすぐ、風呂入って、寝ちゃおうぜ。

 待っているあいだ、理玖がなにをしていたか、奈那子は尋ねなかった。



 近くのホテルお願いします。

 理玖は先輩のあとから座席にもぐりこんで、運転手に声をかけた。

 ホテルですか。ホテルというと、どんなホテルがよろしいんですかね。

 運転手はとぼけた声で尋いてきた。

 あー、エッチなとこで。

 あは。エッチなとこでぇ。

 先輩は陽気に笑って、理玖の手を探って、繋いだ。先輩の結婚指輪が、理玖の指に硬く当たった。

 いいですよ、と言ったのはなぜだろう。

 タクシーの中にながれる微妙な空気と、酒で上気して汗ばんだ先輩の手のひらを感じながら、理玖は自問していた。

 いいですよ、と言ったのは、なぜだろう。

 先輩は知らないうちに二児の母になっていた。…知らないうちにというのは、少し違うかもしれない。理玖が部下として隣のブースに引っ越した時には、先輩はちょうど新婚で、それから2年ほどすると、つわりを理由に休職し、程なく、会社から籍を抜いてしまったのだった。理玖が先輩となんとなくそういうことになったのは、仕事を覚えてから先輩のつわりまでの、ほんの数ヶ月のあいだの話だ。理玖は結婚式の二次会には先輩を呼んだ。先輩は、育児を理由に来なかった。先輩とはそれきりだったから、理玖は先輩の二人目の出産を、知らなかった。

 子どものいる生活って、どうなんですか。

 理玖は何の気なしに、家の話を振った。純粋に、子どものいる生活への興味もあった。先輩は一瞬眉を曇らせたが、悪戯めいた笑みを浮かべて、呟いた。

 そういうのは、盛り下がるねぇ?

 焼き鳥の串で、先輩は理玖の手首をつついた。

 いった!痛いよなにすんの。

 理玖は笑って返した。まっすぐな黒髪になって、付け睫毛もしなくなっているらしい先輩の様子に違和感をおぼえながらも、二人で昼飯を食べに出たり、夜遅くまで説明会の準備をしていたりしていた日々の感覚が、ぼんやりと、戻ってきていた。

 うちの胸の痛みは、それくらいはあるよぅ。ね、三谷くんさ、最近仕事どうなの?

 そりゃ年齢なりに頑張ってますよ。こないだは一人で提案営業もかけに行ったし。 

 まーじで。金澤さんのお墨付きってこと。て、金澤さん健在?まだ怒鳴ってんの?

 健在です。まあ、お触れが出て、ずいぶん頻度は下がりましたよ。俺は正論だと思うこと多いですけどね、だからこそキツいっていう、それは変わんないな。営業は…苦手って思ってましたけど…なんだかんだで勉強ばっかだし、準備作業めちゃ細かいんですよね。相対なんて一瞬で。俺、先輩の下についた時はプログラム触れなくなって不安だったけど、今考えると性格的にはコンサル部の方が、向いてるかもしんない。やっぱり、それなりにシステム見えるから足場もあるというか。

 答えながら、拾いそびれた先輩の言葉にようやく気づいて、理玖は話に集中できなくなっていた。先輩はいま、なんて言った…胸の痛み…?

 うんうん。金澤さんだって長年、人選んで、人に裏切られて、て、繰り返してるわけやからねぇ。信じてもらって、結果出してあげれるって、三谷くん、金澤さんにも、ええことしてあげてるねえ。

 先輩は?そういえば、仕事どうしてるんです?

 カウンターに乗せた先輩の腕に押しつぶされている膨らみに、理玖はそっと目をやった。先輩の言った胸の痛みというのは無論、心の痛みのことだろうけれども、食い込んだブラでくびれているのが丸わかりの、ラメ入りの白ニットのアウトラインを、ちらちらと見るくらいのことしか、理玖にはできなかった。先輩が何を考えているかなんて、会ってから一度も、分かったことはない。いつもそうだった。意味もわからず降ってくる仕事をとりあえず片付ける、するとなぜか、それが後で上の上司から褒められた。なぜそんな細かいことをこんな忙しい時に、と苛立った時に限って、そのせいで客先で褒められたりした。今ならわかる。今なら、それが大事で、あれが大事でなかった、それがわかる。けれどまた、いま…理玖は、メニューを見るために耳に髪を掛けた先輩の、和かな横顔を見つめた。先輩の左耳の裏にはそういえば、2つ並んだほくろがあった。その辺りから香水でも体臭でもない、不思議な熱気が立ち上るのを、お決まりの、くだらない定型句を浴びせながら、貪るように吸い込んだ夜が、自分にはあったのだ。薄暗いベッドの上で、ラベンダー色の総レースのブラを外した時に、零れ落ちた、あの、白い乳房の重み…。理玖はハイボールの氷を鳴らして、串から外されたままひとつだけ残っていた砂肝を、口に放り込んだ。

 あ、これ下げてください、それと注文2本ずつ、ネギマとぉ、梅つくね、ハツ、ネギマだけタレで、あと塩で。以上で。…うちは、いま無職で職業訓練中なん、資格も色々あるから、隙間時間に勉強してるんよ。ただ、戻るとしても、別の会社かなぁ。もっと自由に働けるとこじゃないと、いまの生活との兼ね合いがねぇ。

 そうですか。先輩、仕事向いてましたもんね…このマイクロマネジメント野郎、って思ったけど、結局、俺もそのおかげで、ちゃんと気が回るねって言ってもらえたりしますよ。

 ちょ、野郎はないでしょう。まあねえ、仕事ってそういうとこ、あるよねぇ。

 ちょっと神がかってて、意味不明なとこ、ありましたけどね。いや…いま聞けば、わかるのかもしれないな。俺、結構頑張ってるんで、もう先輩を超えてると思う。

 生意気言ってぇ、と先輩はまた、串で理玖の腕をつついた。

 理玖はもう少しで、先輩の下についた頃の、先輩の年頃だ。超えられるかどうかは、わからない。ただ、よく見ると前よりもずっとくすんでいる先輩の頰を見つめた理玖は、先輩は歩く速さを少し、緩めたんだな、と、思った。

 あ、そう。ふーん。いーねぇ、私、できる人、好きやよ。いーねぇ。

 先輩は、いーねぇ、と囀るように、繰り返していた。

 上機嫌で焼鳥屋を出た先輩は、もう一件どこか行こうよ、うち、日頃は監獄生活やからさ、今日は満喫したいんよなぁ、と、理玖の背中に手を添えた。

 いいですよ。ちょっと雰囲気変えて、バーとかにします?

 はしごもええけど…と先輩は少し言い淀んでから、理玖の肩に手を置きなおして、耳元で囁いた。

 二人きりでいちゃいちゃ、できるところ行けたら、もっと嬉しいかな。



 先輩に跨ったまま、枕元に備えつけられたコンドームに手を伸ばして、封を切ろうとした時だった。

 何やってんだ、俺。

 先輩の瞳は挿入への期待に潤んでいる。自分自身も、いきり立っていて、早く楽になりたい、楽にさせてくれ、と訴えている。

 奈那子と理玖は、3年間、避妊していない。

 違う。そうじゃない。

 そういうことじゃないんだ。でも…。

 切り掛けた封を見つめて、理玖はさっと酔いが覚めてくるのを感じた、…いや、酔ってなどいない。もともと酔ってなど、いなかった。魔がさしたわけでもない。理玖はずっと、先輩を抱かない理由を探していて、けれども見つからないまま、今の今まで来てしまった。でも…。

 だめだ。

 たとえ理由がわからなくても、わかることはある、これは、だめなことだ。…今ならまだ…。今、ここでこの封を切ってしまったら…後悔する。奈那子に一生、このことは言えない。

 理玖は目の前の、特別眺めがいいとはいえ、どこまでも無個性な、ありふれた、何度見てきたかわからない光景から、目を逸らして、伏せた。

 よくあること、よくあったこと、これからも、あるかもしれないこと。

 違う。

 これは、違うんだ。俺は奈那子に、一生、このことを言えない。打ち明け話にも、笑い話にも、失敗談にだってならない。奈那子を守るためには一生、奈那子から隠さなければならない、俺は今、そういうことを、しようとしている。

 理玖はパッケージを枕元に置きなおして、先輩を抱きしめた。

 どした?

 先輩は理玖を腹から尻へ、そっと撫でて、脚の間から理玖の裏側をやんわりと触った。

 いえ、…やっぱり俺…。

 先輩の表情が曇った。この期に及んでなにを、と思ったに違いない。自分だってそう思っていると、ほんとうは、声を大にして伝えたい。ここまで来たらどうせ、でも…。

 理玖は先輩の首筋に唇を這わせて、肩先にキスしたあと、頰を押し付けながら、呟いた。

 やっぱり、先輩に申し訳ないです。

 先輩の視線が素早く、理玖の顔色を窺って走り、理玖の口元で止まった。なにかを考えているのは、はっきりとわかった。なにを考えているのかは、理玖には相変わらず、わからない。賢くて、優しくて、…欲望まみれで、いつも少し、不幸そうな人。理玖は体を少し、引いたが、先輩は脚で理玖を止めた。

 や、しない方が申し訳ないんだけど。気持ちはともかく、体が熱くて苦しいやんか…。三谷くんもさ、こんなにして、それでもってこと?

 まだ萎えきっていない理玖を優しく握って、先輩はそれよりもさらに優しく、苦笑した。

 …。ね、わかってて言ってるだもんね。三谷くんらしくてええよ。うん。ええよ。…それで、いいんじゃないかな。

 先輩は、理玖の手を取り、指に指を絡めて、親指で甲を撫でた。

 …我に返っちゃった、ってやつ?

 理玖は答える代わりに、先輩を抱きしめなおした。あたたかくて、柔らかくて、わかりやすい身体。すぐに震える甘い声、触れるか触れないかぐらいに触られるのが好きなところ、意外に受け身なところ、4年前にはなかった、妊娠線…。

 俺には、先輩を傷つけられません。俺には先輩が大事な人だから、できないんです。できません…。

 先輩の呼吸が少しの間、止まった。吐息交じりに、先輩は小さな声で、大事ってなん、大切にするようなセックス、してくれれば、それがいちばんなんやけど…? と、言った。

 できないです。すみませんとしか言えないです。俺は…できないんです、けど…。

 けど?

 今日はせっかくなんで、いいところ、散々触り倒してあげます。先輩は黙って、あんあん言っててください。

 えー?ええよ別に、そうだ慰めるのに腕枕して?   …あ、え、ほんとええんよ、別に…。

 耳の中や、脇の際や、足の甲がものすごく弱いところ。少し右側の奥を擦ると、切なそうにうねって、堰を切ったように濡れ始めるところ。本当は少し押さえつけられるくらいが好きなところ。頭を撫でると、伏し目がちになって、すっかりおとなしくなるところ。理玖はどうして、そんなことしか、思い出せないのだろう。たった2回のことなのに、どうして、そんなことばかりをこんなに鮮明に、思い出せるのだろう。

 嘘でしょ、こんなに勃ってますよ乳首、期待してるんでしょ? なんかじんわり、出てきてるし。母乳?

 理玖は先輩の乳首に唇で触れながら囁き、その根元を舌でしごきながら、ぽってりと熱を帯びて濡れそぼった、先輩の入り口を、焦らすようになぞった。

 先輩は恥ずかしげに目を伏せながら、小さく頷いた。



 もうさあ、なんなわけ。

 潮でびしょ濡れになったシーツの上にバスタオルを敷いて、先輩は裸のままベッドに寝転がり、自分の隣を叩いて手招きした。

 なんなわけって言われても困るとしか言えませんよ、誰のせいですかこれ。うわ、冷た!ああ俺、頑張ったわー。

 小さいが面倒な案件が終わった後のような気分だった。まるで昔に戻ったようだ。うつ伏せで寝転がる先輩に下着を投げて、理玖は仰向けに寝転がった。

 理玖は、先輩がすぐ隣で、あ、違うよこれ、こっちやんか、などと独り言を言いながらかたかたとキーボードを叩いたり、そうかと思えば手を頭の後ろに組んで、ため息をついたりしていた、あの頃のことを思い出していた。

 三谷くんさ、覚えてる?昔ちょうどこんな感じの…。

 上布団を手繰り寄せて抱き抱えて、先輩は上目遣いに理玖に尋ねた。

 ああ。俺も思い出してましたよ。

 理玖は先輩の頭を撫でた。

 「俺、結婚したあとも先輩と、こんな風に普通に会ってるんじゃないかな。先輩となら、こんな風に、普通に、ずっと」。ちょうど今日のような、ダークウッド調のホテルで…。あの時も、誘ってきたのは先輩の方だった。

 ちょっといいと思てたんだよね。三谷くんは、セックス好き?

 先輩は直球だった。そんな剥き出しの言葉を投げられて、自分がどうして引かなかったのかを、理玖は思い出せない。今となっては、どこをどうしてどのホテルに入ることになったか、本当に思い出せなかった。けれどその時は、自然な流れだった…覚えていないほど。そうだ、奈那子は? 理玖と奈那子との社内恋愛はいつも、会社では冷やかしの種だった。奈那子はまだ、同じフロアにいて…たぶん、同棲前だったからだ。なんとでもごまかせた。たった4年なのに、なぜか…どうやって、そうなった? ホテルに急ぐあまり、水を買い忘れたのは、覚えている。猛暑日だったことも、たぶん21時くらいで、なぜかもう眠かったことも。先輩は翌週のプレゼンの練習に付き合ってほしいと言った。理玖は会議室で先輩のプレゼンを聞いた。会議室を出るときには、もう、セックスのことしか考えていなかった気がする。2回目もそうは変わらない。記憶の中の先輩は、仕事をしているか、裸かのどちらかで…。

 なんかさぁ。男の人って、自分が考えてるほど、悪いことできなかったりするんよね。あーあ。もっとさ、楽しんでこうよ。

 まぁ今日は、うちは楽しめたけどね、と、先輩は悪戯めいた眼差しを理玖に投げかけて、でもやっぱり、やりたかったよ? と、ため息をついて見せた。

 あー…ちょうど、いま、自分で自分に驚いてます。こういうの結婚してから全然、なかったんです。いざ自分が結婚してみると…俺、先輩が他の誰かの大事な人なんだって、やっと、わかって。俺が先輩を大事にしたい気持ちって、結局、ここでやったら壊れちゃうと思うんですよね。遅いですかね。すみません俺、…俺、本当はすごく、いい奴でした。

 は。自分で言う? …ま、謝らんでええのよ。こういうのはね、向き不向きがあるよ。誰でもできるわけじゃ、ないからね。わかって、よかったんじゃないの、自分を大事にね。

 不意に先輩は、頭を撫でていた理玖の腕を引き離し、理玖の顎を指でなぞったかと思うと、べたべたにさせちゃったねぇ、シャワー浴びて、帰ろか、と、呟いた。



 先輩と別れて、帰りの電車に揺られていると、やっと、はっきりと、あのときの先輩の答えが蘇ってきた。

 結婚しちゃったらそうでもないんやないの。三谷くんは悪いことできなそうよ。今は悪い奴やけどね、どやろねぇ? うちは、ずっと時間が経っても、三谷くんのこと好きな自信あるよ。だから、三谷くんがもし能村さんと結婚しても、そのあともずっと普通に好きやと思うなぁ。あ、告白しちゃった…。

 理玖は先輩が、理玖の腕の中で妙に照れて、はにかんでいたのを、思い出した。

 自分は結婚してる癖に、この人は何を言っているんだろう。

 そう思った。理玖はあの時の息苦しさと、いまの息苦しさの、どちらで苦しいのかが、自分でもよくわからなかった。吊革を掴む自分の腕を見ると、先輩に串でつつかれた、左手首の内側には、小さな引っ掻き傷ができて、赤くなっていた。

 最後にさ、一回、ぎゅってして?

 ドアから出る直前に、先輩は理玖の前で腕を広げた。思い切り背伸びをして、上から理玖に抱きついた先輩は、理玖の背中を二度、優しく叩いた。

 ほんと、今更やけど。好きやったよ。

 理玖は吊革を握りなおした。迫ってくる息苦しさを、そのまま、受け止めるしかなかった。理玖はただ、車窓に流れゆく、夜の街の風景を、焦点の定まらない思いで、じっとみつめるしか、なかった。

 翌日の昼休みに、先輩から、昨日はありがとう、というメールが届いた。

 理玖は返信しなかった。先輩から二度と連絡はないだろう、と、理玖は思った。

 二度と、連絡は来なかった。


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。