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人物造形のヒント② 魅力的な人には安定感と意外性がある

タイトルをぜひ、復唱してください。

魅力的な人には安定感と意外性がある。

つまびらかにしていきます。

冗語法かもしれません、しかしやはり、物語の上での魅力的な人というのは常に魅力的なので魅力的なんですね。

より正確に言います。

常に「この人は魅力的な人だ」と読み手が思っているから、その人は魅力的な人なんです。

え…それは、魅力…?

思い出しましょう、「物語世界では、現実とは違う力学が働いている」。現実では《魅力的》と判断される特性を持った人物を描出するのは、本当に楽しいんですよ、きっとほらその特徴を、その姿を、その声を、現実にこんな人がいたらとっても魅力的だなぁ、とため息をつきたくなるような仕上がりで、描けていることでしょう。でも、実際的技術的な観点から申しますと、「現実にいたら」《魅力的》な人であるかどうかは、物語の世界では重要なことではありません。(凡庸の極みのような主人公の物語を、熱に浮かされたように追ってしまう理由について…それに憧れて自分で、単純に凡庸な主人公を描いてもなぜかその「何か」がない、その理由について、私は話しています。)

物語では、「常に"この人は魅力的な人だ"と読み手に思われている」人物、あるいはぱっと見では《魅力的》でなくとも、「話素として"魅力ある人としての要件"を常に満たしている」人物が、魅力的な人です。つまり、書き手は魅力的な人物を描きたいときには、読み手に対して心理的要件、または物理的要件を常に満たす必要がある。

心理的要件を満たさずに物理的要件を満たすのは、技能を要します。これは…そのための霊感はプロローグでほんの少し示せたかもしれませんが…答えのない課題として置いておいて、ここでは心理的要件の満たしかたについて、考え進めていきましょうか。

そうですね、なぜ、「常に」満たさなければいけないのでしょうか。

読み手の心理というのは非常に保守的です。基本的には、安心して読みたい。それは緊迫感に対する安心というようなちょっぴり難しい安心かもしれませんが、とにかく安心したいんですね。誤解、勘違い、思い込み、無知、忘却といった人間関係上の「しくじり」から、自分だけは読者として特権的に離れた、精神的に安全なところで読んでいると思いたい。魅力的な人物ならなおさらですし、魅力的だと判断したあかつきには「こんな人が、いるのだな…」というあの、神秘とも言える体験を、十分に味わいたい。あー美味しい、と思って飲み干した真夏のアイスコーヒーのグラスをふと見ると、死んだゴキブリが入っていた、ような絶望感を味わうのは、ほんのたまにでいいか、要らない人さえいるのですね。

もっと会いたい。

もっと知りたい。

堪能したい。

魅力的な人物を捉えたときの読み手の心は、こういった「たい」に突き動かされています。没頭して、ある人物を思い描くというのは心のエネルギーをおおいに消耗する。ですから、登場人物の魅力の発現にムラがあって、魅力的だったり魅力的じゃなかったりすると、読み手はその人物のために自分の心的リソースを確保すべきかどうか、不安になってしまいます。また逆も言えて、(ここが面白いところでもあるのですが)読み手は、安定的に魅力を訴えてくる人物に対しては意識的無意識的に「お墨付き」判定して、安心して心的リソースを割き、更なる魅力を探るようになります。

はい。もう少し具体的に見てみましょうね。誰かが出てきた時の読み手の注目点は以下のようになるでしょう。

・「いい」人か「悪い」人か?
・「美しい」人か「醜い」人か?
・「強い」人か「弱い」人か?
・この人は信用できるか?
・この人はぐっとくることをしたり言ったりする、注目すべき人か?

こういう判断は、一度してしまったあとは、読み手としてはあまり裏切られたくない判断なんですね。これをいたずらに裏切って、ばんばんキャラぶれさせると、読み手は安心できません。ただでさえ不可解な事件が起こったり知らない人の気持ちを推測したりで忙しい読み手に、キャラぶれは言うなれば、常なる心の雷雨。いけません。

読み手に安心して読んでもらう。

これも大事。あまり頻繁に読み手を裏切らないように、気をつけましょう。

OK。では読み手に訴えていく魅力そのもののほうに視線を移してください。ちらりちらりと触れているように、魅力というのは必ずしもポジティブな要素である必要はありません。いいですか、キーワードは安定感です。「悪い」「醜い」「弱い」「信用ならない」人でも、それが徹底されてさえいれば読み手にはとても魅力的に映ります。なぜならというと、そう、基本的に読み手はスジを追うだけで心が疲れているからですね。そこに、そんなふうに安定的に描かれている人物が出てくると、読み手は未知との遭遇の連続でちょっと心が疲弊してるので、都会で親友に会ったかのごとく、海難中に筏を見つけたかのごとく、、と思って真面目に読んじゃう。意味のないギャップと意味のあるギャップについてはどこかの記事でお話する予定ではいますが、その人物を魅力的でいさせたいなら、書き手には雑音を取り払う努力が求められます。せっかく考えたんだから、より魅力的になってほしいものです。そもそも論を呼び起こすような雑音が混じっていないかどうかには、十分注意しましょう。

さて、読み手の気持ちを大切に! みたいな書きぶりになっているようにみえて、書き手にとってもこれは読み手の注目をコントロールする手段のひとつです。つまり、腕の見せ所。なのですね。ね?

安定感があれば、読み手は自分の想像力で人物を補強してくれます。そこで読み手は、しかしながら自分の想像力では埋められない空白を見つける。そしてそれを埋めるために、また吸い込まれるように、ページを繰る。むしろこの、魅力的な人物だけが持ちうる独特な空白こそが、物語の登場人物の魅力の本質なのだとさえいえるでしょう。

ええ、そうですとも。そのような「魅力としての空白」は、書き手にしか作ることが、できません。書き手もまた空白を埋めているのですが、空白を残して他はしっかり埋める、これが大事で、それは書き手にしかできない大切な仕事なんですね。読者を歓待するためにも、ここはぜひ、頑張りたいところです。



はい。次の段に入ります。

以上のような次第で、強靭な特性を持って魅力的な登場人物が読み手の前に現れる。この人がですね、くだんの魅力的空白を持つところまで書き上げられているとき、没頭しきった読み手は何を期待するか? それが、意外性なんですね。

いま安定感て言ったとこじゃん…!

そう。そこなんですよ。ちょっと気をつけたいのが、これはギャップではありません。ここで違う球を新しく投げ込まないのがポイントなのです。

今までの読みを一旦棚上げさせるようなのは、読み手には嬉しくありません。読者が期待するのは、いままで自分はちゃんと読んできた、と思えるような意外性です。一だと思ってたら二で、二だと思ってたら三で、三だと思ってたら川だったみたいな意外性です。

これが急に、一じゃなくて初めから@だったのでした、やーいやーい、とか言われると、タイムロス感がハンパないのですよ。これをして称賛されるのは、その「やーいやーい」を目的とする特殊な形態の小説だけです。

ここでは一応、オーセンティックな小説について話しておりまして、したがって、覆すんじゃないんですね、騙すんでもないんですよ、順を追って、意外な真実の発見に、寄り添ってもらうんです。そうやって読者を裏切らずに真実へ読者を導くことができるなら、その時こそ、その真実は意外であればあるほどいい。その意外性は確実に、読み応えに通じます。

読み応え。ね。読み応え、大事です。

では、最後に…深呼吸として、黙々とパズルをする人を想像して、この投稿を閉じることにしましょうか。

ピースに欠けはないはず、違うパズルのピースが混じったりも、していないはず…とにかく、全てのピースは必ず正しく結び合い、整然と一枚の絵に仕上がるはずです。今はまだ、どれもどの部分か定かではありませんが、全体に美しい色彩が見えて、目を喜ばせています。初めは手掛かりもなく四辺のピースを繋げたり、わかりやすい輪郭を繋げたりする。だんだん詰められてきて、はっきりしないピースに描き入れられた、些細なヒントを観察するようになります。木の葉の影だと思ってたら猫の背中だった、窓だと思ってたら柱だった、やったやっぱりここに入った、こんなところに入るとは思ってもみなかったけれど確かにここの絵のここだった、着実に絵ができてきて、ついにラストピース、嵌めたい、いや、これを嵌めたら終わってしまう…。

魅力的な人物というのはこういう気持ちにさせてくれます。…たぶん。


しつこいな!今回のまとめ:
魅力的な人には安定感と意外性がある。


次回までの宿題:
主人公がいる小説、とくに一人称の小説において、「主人公の視点からしか他者の心理を記述できない」「主人公から見える範囲にしか他者を描けない」「物語上の出来事が主人公の存在している場所でしか起こらない」といった制約は、どのように乗り越えればよいのでしょうか。 →答えがある宿題ではありません。これは「きっかけ」という、私なりの感謝の表現形(のつもり)です。ひらめきがあったらぜひ、教えてください!

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。