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『松之助の臨死体験~死人の花嫁~』

 ――本作は、前作『めでてぇ朝顔』、‘’ほたると七助のふたりの縁結びの赤い糸であったのくだり‘’のつづきとも読める。しかし、この「松之助の臨死体験」のみでも、十分に楽しめる読み切りの、完結した物語になっていることを、あらかじめお伝えしておこう――

時は、七助とほたるが晴れて夫婦(めおと)になってから、1年半ほどが流れていた。
 場所はお江戸の下町。季節は夏の盛り。もうすぐお盆がやってくる頃である。 
 
店先の竿(さお)には、ちょうど、めでてぇ朝顔も咲いてある。
 近ごろ、お江戸で評判になっている蕎麦屋……、ではなくて、寺子屋。ここは、七助がはじめたばかりの、なんとも初々しい学び舎(まなびや)なのである。
 藍染の粋な暖簾(のれん)に、「とびうさぎ」の白い文字が、さわやかな風を感じさせてくれる。

 「おいらはかけ蕎麦一杯!」
 「こっちは天ぷらの上(じょう)で!!」笑い声とともに、子供たちがからかった言い方をする。 
 「へい、論語、お待ち! しっかり、そらんじてみな。こっちは、リスの毛でできた上等な毛筆だよ!! それで文(ふみ)をしたためるんだ」七助だって慣れたものである。

 店じまいをした小さな蕎麦屋を、そのまま寺子屋として使っていた。だから、子供たちの席は、ついこの間まで客席だった椅子と机。そこで本を読んだり書きものをしたりしている。
 奥には、2畳ほどの座敷になっているところもあって、ちょっと正座をしたいときにも都合がよい。 
 いかにも、学びの場という風情(ふぜい)ではないのが、子供たちには新鮮でおもしろく感じられるのだろう。通りかかってここを見つけると、自分も中に入ってみたいと、ついつい思わせるおもしろみがあるようであった。
 この七助という男は、そうした子供心というものを自然とわかる特技をもっていた。だから、あえて、蕎麦屋風な暖簾まで出して、遊びながら学べるようにしていた。

 「あれ? 蕎麦屋じゃなかったかい?」まちがえて戸を開ける大人たちもいる。
 そうして、わざとまちがえる、大人たちもいた。 
 「よっつ、蕎麦屋の旦那っ!」
 「あいよ! 近ごろ、寺子屋になったんでさあ。ご存じのはずじゃ……、まあ、なんでもいいや。オメエさんの顔が見れたんだからな」この若きお師匠(ししょう)さんは気さくだし、いつだって、すがすがしい笑顔で答えてくれる。口調も粋な江戸っ子のべらんめ。切れ長の瞳に、色白の肌ときている。ちなみに、年は27だ。
 
 戸を閉めながら、みんなが言うことは、「いい男だねえ!」のひとこと。
 「こんなことなら、アタシが通いたいくらい!!」
 「ほんとうに、あの歌舞伎役者そっくりじゃないか!」
 「たしかに、ありゃ、男から見ても、いい男だよ~」
 「つい、この間まで、古着をかついで売り歩いていたっていうじゃないか。なんで、気づかなかったんだろうね?」
 一日中、日の光をあびながら、力仕事をしていたとは思えない。すらっとした背丈のうつくしい男なのであった。

 なにしろ、あの吉原でも絢爛豪華(けんらんごうか)で名高い遊郭(ゆうかく)、朧乃卯(おぼのう)、――お江戸の人々には「おぼろうさぎ」の名で親しまれているが――、その最上位の花魁(おいらん)であった蛍燈太夫(ほたるびだゆう)がひと目で惚れてしまうくらいの折り紙つきだ。
 
 そして、その「おぼろうさぎの蛍燈太夫」その人が、(いまは「ほたる」という本来の名)ここの女将さんに収まっているのだから、まるで富士山に鶴が舞い降りたような景色である。ちなみに、年は25という女っぷり! 
 いち早く、年季(ねんき)が明けてしまうのも、うなずける器量というものだ。
 ちなみに、年季というのは遊女の借金のことで、それが明けるというのは、すべて返し終わったという意味である。一般的には27歳くらいまではかかるようであった。
 彼女を、戸の隙間から、すこしでも垣間見(かいまみ)たなら、そりゃ、男たちは、みんな釘(くぎ)づけになってしまう。小股の切れ上がった、ほんとにいい女である。

 だから、子供たちばかりではなくて、その母さまや父さまたちだって、ここへ顔を出すのがうれしくてしかたがないらしい。
 ひとりで来られるような子にだって、やたらと、つき添いが多くなってしまうのが、その証拠というものだ。
 蕎麦屋もどきの寺子屋の店内は、そうしてわいわいとにぎわっていた。

 もちろん、この寺子屋「とびうさぎ」の売りは、美男美女などではけっしてない。
子供に好かれる性分の七助。その、なんとも人なつっこい性格こそが、だれからも親しまれるものなのである。彼なら、どんな相談を持ちかけても、よ~く聞いてくれそうな感じがする。
 さらに、女将であるほたるは、吉原でも指折りの高嶺の花だったから、読み書きだけではなくて、さまざまな芸事にも通じている。そんな彼女が、ときには礼儀作法の手ほどきまでしてくれるというのだから、実際にこんなにありがたい場所もなかなかないものだ。
 こうして、まっとうなやり方でもって、よい評判が江戸中に広まっていくのだった。
 
 本音を言えば、いまのところは、やはり、ふたりの容姿端麗なところが目だってはいる。しかし、寺子屋「とびうさぎ」が、堅実に、この地で根を生やしはじめていることは確かなことといえる。


 ところで、この日のめでてぇ朝顔たちの、なんと物悲(ものがな)しく感じられることだろう。
 いや、それどころか、不吉な予兆(よちょう)すら感じさせている――。
 
 にわかにくもりはじめた、煙(けむり)のような雲がそうさせているのか。花びらの白い帯状の部分だけが、すっーと隠れてしまったようだ。
 いきなり、赤い帯状の部分だけが変に強調されて……、これではまるで彼岸花のようにみえてしまう。
 しかも、それは、妖鬼(ようき)を身にまとって、あやかしの不気味さを帯びた、真っ赤な血の色の彼岸花にみえてくるようだ!!
 あの世へとつづき、死者をふたたび招(まね)くような、鬼灯(ほうずき)の赤。
 この世の者を、道連れにして帰るような、牡丹燈籠(ぼたんどうろう)の霊魂のようだ。
 いま、この朝顔たちは、そんな情念をただよわせていた。
 

 飛脚(ひきゃく)が足早にやってきて、この寺子屋の戸を開けた。
 「そ、そんな……!」
 「ほたる?」
 「鈴音からの文(ふみ)で……」
 戸の隙間には、ほたるの青ざめた顔。やはり、不幸があったのだ。
 彼女の華奢(きゃしゃ)な肩を七助が抱く。彼の胸に泣きながら顔をうずめる、ほたるの姿がみられた。

 的中してしまった、朝顔たちのわるい予感――。
 それが気になるところではあるが、場面はここで「とびうさぎ」からは、いったん離れることになる。

 あの世へいくにも、いくつかの道があるようだ。かならず死んでいる必要はない。
 臨死体験と呼ばれるものである。しかし、これは亡くなった者が、奇跡的に、息を吹き返すのだから、やはり、いったんは死んでいる必要があるのかもしれない。
 あっという間に、前言撤回(ぜんげんてっかい)である。
 
 『日本霊異記』(正式には日本国現報善悪霊異記)の第22にも、死んだ男が7日後に生き返ったという話しがのっている。ここでは、急死したこの男を思って、彼の家族がその遺体をすぐには火葬をしないでいたことも、記憶にとどめておきたい箇所である。
 
 しかし、あの世にいくにも、やはり、いくつかの道があったようだ。
 平安時代の官僚、小野篁(おののたかむら)にまつわる話しは有名であろう。彼は、昼は朝廷(ちょうてい)、夜は閻魔庁(えんまちょう)につとめていたという。
 このことは『今昔物語』など、いくつかの書物に記されている。また、彼が冥土(めいど)へ通うためにつかっていた「黄泉がえりの井戸」は、京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)に発見されている。
 
 そうなると、先ほど前言撤回したものを、また撤回する必要がある。かならず死んでいる必要はなかったのだから。
 

 地獄絵に描かれているのは、一見すると、亡者(もうじゃ)と鬼ばかり……。
 けれども、よ~く目を凝(こ)らしてみれば、いにしえの修行僧(しゅげんじゃ)たちの存在にも気がつく。きびしい修行のはてに、他界幻視や他界通信、されには他界遍歴(へんれき)さえもしていた者たちがいたからである。
 巫者(ふしゃ)や密教験者たちなど、自発的な意思をもって、あの世へ足を踏み入れていた。生きたままの人間が、きびしい修行のはてに、あの世の地獄をめぐっていたのだ。
 
 世捨て人ばかりではない。普通に、俗人(ぞくにん)たちの身にもあるかもしれなかった。
 たとえば、『熊野観心十界図』の地獄絵の中にある、愛欲に溺れた男女がいくという刃葉林(とうようりん)のあたりを見てほしい。
 ここでは刃物でできた葉っぱに、体中をズタズタに切り裂かれてしまうのだが……。血だらけになりながらも、なお、愛恋の情に狂ったまま、そこから抜け出せないでいる。現生の男女たちが、いくらでも混じってはいないだろうか。
 
 生きたままでも地獄に落ちることがある。
 私たちは、私たちが思っている以上に、ずっと、あの世とこの世を行ったり来たりしてきた。いにしえの書物に記されたものから、だれにも知られないでいるものまで。
 おそらく、数え切れないほどの前例があることだろうと思われる。
 
 
 はてさて、この「松之助の臨死体験」というのも、そんな罪を犯した者たちがむかう険(けわ)しい道、あの世の地獄へと向かう崖っぷちからはじまるのであった。
 この話しは、先ほどの修験者や愛欲に溺れる男女のように、壮絶(そうぜつ)なものではないかもしれない。
 けれども、この種の話しというものに、おもしろおかしさを求めてもしかたがないだろう。ましてや、優劣のあるなしとは関係のないこと。
 ただ、そこには「松之助の臨死体験」があるのみ。特筆するべきは、「彼が本当に体験したこと」という一点のみであるはず。
 下手な脚色は邪魔でしかない。嘘やいつわりのない、真実だけが、人々の興味をそそる。
 それが臨死体験談というものである。

 


 時は江戸時代。場所はあの世。もっと、くわしくいえば、地獄の入り口へとつづく道。さらにいえば、いくつかある地獄のうちの、とある地獄へと入るための門へとつづく道である。
 しかも、ここは生きている人専用の道なのであった。
 
 武田松之助は、そんな不気味な道を歩きながら、とくに疑問に感じることはなかった。
 彼が普段の自分をわすれていたからではない。強いて言えば、寝ているときにみる夢の中にいるようであって、どんなに不可思議な状態でも、すんなりと体験するがままでいるしかないのであった。
 上等なお召(めし)の着物に、うつくしく結われた髪。あつらえた麻の足袋に、さわやかな夏用の草履をはいている。

 いま、彼は、切り立った崖っぷちの上を、ひとりで歩いていた。道幅はせまく、足場もわるい。おとな一人が、おそるおそる前に進んでいくしかないようなところである。
 あたりには煙のような、灰色の霧がたちこめているが、自分が見ようと思ったところだけは、その霧がよけてくれるのか、はっきりとわかる。
 「ここから落ちたらひとたまりもないな……」深い谷底を見おろしながら、彼はつぶやいた。
 ちなみに、下に流れている川こそ、三途(さんず)の川である。
 

 松之助は、江戸で有名な老舗の薬問屋、「松壽屋(まつじゅや)」のひとり息子であった。年は23で、そろそろ嫁をとる話しもきていた。
 温厚な性格で、まじめな彼は、とくに地獄へいくようないわれを持たない若者であった。それどころか、彼の商(あきな)いが人助けそのものといえるので、これは徳(とく)を積んでばかりの日々と思われた。
 
 彼は病(やまい)に苦しむ者があれば、金銭に都合がつかない貧しい者にも、やすやすと貴重な薬を施(ほどこ)してやったりしていた。
 それでいて、恩着せがましいところなどがまったくないのだ。むしろ、大事な薬を、ちゃんと役立ててくれたことに、こころから感謝をしてみせるくらい。
 だから、人からは「仏(ほとけ)の松さん」などと呼ばれて、慕(した)われて敬(うやま)われている。年若いのに、たいした器(うつわ)だと、うわさがうわさを呼ぶばかり。もちろん、この松之助の人気を妬(ねた)むような者はいない。
 なにしろ、彼自身は、どんな称賛(しょうさん)に対しても、たいそう腰が低いからだ。こちらが褒めているのに、なぜか頬を赤らめて、もうよしてくださいと、恥ずかしがるような男。彼でなければ、天狗(てんぐ)になってしまうだろうに。
 それにしても、松之助は、いま実際にあの世にきている。それを思うと、この「仏の松さん」という好かれようも、なんだか、おかしいな響きに思えてくるじゃないか……。
 
 しかし、彼のこうした姿勢は、彼の考えひとつというものではなかった。
 実際には腕利きの商人である父、虎蔵(とらぞう)がほとんどやらせていることであった。
 「よいか、松之助。薬で病(やまい)がなおる者がいれば、自然とよい評判がうまれるだろう。この、よい評判というのは、ほしくても手に入るとはかぎらないものなのだ。それをよく覚えておくのだぞ。もしも、よい評判が得られるのであれば、かならずしも金銭によるやり取りばかりにとらわれるべからず。商(あきな)いは、ときには評判とも、取り引きをするべし」という父親の教えによるものであった。
 
 考えてみれば、この虎蔵の手のひらの上で、松之助も町の人々も転がされているだけなのかもしれない。
 まあ、そこは、大事な跡取り息子を立派に育てようと、あれこれ画策(かくさく)している親心がさせるだけのこと。べつに、これを悪知恵みたいに言うこともないだろう。
 虎蔵にとっては、目の中に入れても痛くない、かわいくてしかたのない息子。松之助にしてやれることがあるなら、なんでもしてやりたい。それで、親も息子も病人も、すべてが丸く収まっている。これの、どこに目くじらを立てる必要があるだろう?
 すくなくとも、地獄へ行かされるような、そんな罪な理由はないはずである。
 

 しかし、松之助は、いま、陰惨(いんさん)な地獄へとつづく、断崖絶壁の闇深い道を歩いていた。
 「あれ?」彼は思わず、ハッとした。
 いままで気がつかなかったが、なにやら、足元を灯(とも)す、提灯(ちょうちん)のようなあかりがあったのだ。
 「旦那、どうも、どうも」
 「な、なんだい? 気味の悪い!」骸骨(がいこつ)の柄の提灯に、松之助はゾッとして言った。
 「はあ?」
 「な、なん……!なんなんだっ!!」つぎの瞬間に、彼が気がついたことは……! とても言葉にはできなかった。

 それは、骸骨の柄の提灯などではなくて、まさに「骸骨そのもの」だったからだ。 
 なんということだろう!! 人の頭蓋骨が、ふわふわと浮かんでいるなんて……。
 しかも、中に蝋燭(ろうそく)が灯してあるから、目や口や鼻などの穴から、その炎がゆらゆらと揺(ゆ)れて見えるではないか。
 「ひえ~~っ!!!」怖さのあまり、松之助の口からは、叫び声しか出なかった。

 「気味が悪いとか、人を食うような奴に言われたくはないね」その髑髏(どくろ)が、さも冷静な口調で言った。
 口が動きもしないのに、どうやって声が出せるのか。まったく仕組みはわからないが、とにかく、相手はしゃべっていた。
 「……」松之助は、凍りついたような表情で、その場に立ちすくんでいた。

 「薬も毒も人もわからない。ワシは、おまえらみたいな奴の方が、よっぽど不気味でしかたがないよ」
 「あ、あの……」恐る恐る、松之助は声を出した。
 「はあ?」
 「よく出来ていますね」
 目を凝らしてのぞき込んでみても、上から糸などでつるした様子はない。丸い両目の穴からは、蝋燭のあやしい灯火(ともしび)がはっきりとゆらめいてみえる。それに、人骨を思わせる生々しさがこのしゃれこうべにはあった。
 「……」
 「いや、本当に。まるで、骸骨(がいこつ)が浮かんでいるように見えますよ」
 「嫌味な人だな。普通はそう見えたって、そこは遠慮して、そうは言わないと思うけどよ?」
 「そうですか……」彼は、まだ、この状況がよくわかっていなかった。はやり、これは、なにかの仕掛けでできた人形だろうと思っていた。ほかに声の主がいるにちがいない。松之助はキョロキョロとあたりを見まわした。
 しかし、だれの姿も見あたりはしなかった。
 

 灰色の霧が一段(いちだん)と立ちこめてきて、松之助の足場はどんどん悪くなってきていた。
 水たまりのようなぬかるみはない。つまづきそうな石ころもない。いかにも人の手によって作られた、歩きやすい山道といえる。
 けれども、なぜか歩きにくくて、前に進むのに苦労をした。
 せまい道幅。ここから落ちたら死ぬという恐怖が、おそらく、彼の両足に重いかせをきかせているのだろう。
 
 「――」松之助は、いま、何と言えばよいのかわからなかった。
 
 それにしても、この道は、なんとも異様な感じがする。
 山や土にあるぬくもりが、まったく感じられなくて、どこにも命がないようだ。
 草や木。虫や鳥。なつかしい故郷(ふるさと)の匂い。そんな記憶さえも消し去ってしまう。
 生きとし生けるものの、ゆたかな営(いとな)みや育(はぐく)み。そういったことが、もはや、松之助には無縁のことのように感じられた。
 光りもなくて、色もなくて、時が動いていないような……。
 シーンと静まりかえった空間で、唯一、彼に聞こえてくるものが、この髑髏(どくろ)の提灯(ちょうちん)の声なのであった。


 松之助は歩きながら、この、ふわりふわりと浮かんでいる燈籠(とうろう)から、いろいろな説明をうけていた。
 「それでは、この先は地獄の入り口なんですね?」
 「まあ、そんなところ」
 「じゃあ、私は死んだのか……」
 「まあ、そんなところ」
 「……」松之助は黙ってしまった。自分が死んだと聞かされても、あまりにも突然であるし、まったくの予想外のことであったから。
 
 下に流れて見えるのが、三途の川だということも、彼はこの骸骨(がいこつ)から教えてもらった。

 「本当にありがとうございます」
 「?」
 「いままで、あなたのおかげで、歩きやすかったんですね。あなたが、そうして、私の足元を、灯(とも)してくれていたから。私は……、一人じゃとても耐えられそうになかった。あなたのおかげで、こんなにも心強いんです」
 「……」
 「もしも地獄へ行って、閻魔大王(えんまだいおう)にでもお目にかかることがあれば、あなたにこうしてお世話になったことを、ぜひともお伝えしなければいけません」
 「……」
 
 
 ところで、冥界(めいかい)の旅の案内書ともいえる『地蔵十王経』によると、死んだ者たちは、まずは険(けわ)しい死出の山道を登っていかなければならないとある。そして、そのあとで、十王のもとへとおもむく。つまり、閻魔王だけではなくて、10人の王に会うことになっているのである。
 死者は初七日から三周忌まで、決まった日毎に十王の王庁に送られるのだ。
 ちなみに、閻魔大王のもとで、生前の行いや罪業が裁(さば)かれるのは、死後57日目である。
 
 松之助は毎日、仏壇に手を合わせるような青年であったが、あまり、あの世の知識というのは持ちあわせていなかった。
 実際に、自分が死んだなら、どういう手続きを経(へ)るのか、くわしくは考えてみたこともなかった。
 生と死の境界について。身体からの霊魂の遊離(ゆうり)について。そのようなことは、書物などからでも、学んでみようなどとは思いもよらなかった。
 
 いにしえより、あの世とこの世を、生きたまま行ったり来たりした者たちがいる。
 それどころか、いったん死んでしまってから、もう一度、生き返った者たちさえもいる。
 
 しかし、彼は、人間の死というものが、いかにして決定されるのか。もしも、蘇(よみがえ)ることになったら、自分はどうするのか。そんなことを想像してみたことがなかった。
 まあ、それは松之助に限ったことではないだろう。実際に、あの世に行ってみて、はじめて気がつく人は多い。死んでから、いろいろと知らされる。そんなことは、よくある話しだ。
 
 松之助は、いま、生きている人専用の道にいる――。ということは、はっきり言ってしまえば、まだ、死んでいないことは確かなようだ。けれども、そのことを本人はわかっていない。気の毒といえば、まったく気の毒な状態ではある。

 「ううう……」床に臥(ふ)せった松之助のくちびるがゆがんだ。
 現実の彼は、浴衣を着ていて、髪もみだれるばかりの病人だった。
 布団に隠れて見えないが、もちろん、足元は裸足にちがいない。髭ものびたままの、汗まみれな危篤(きとく)者であった。
 「松、松之助! しっかりするんだ!!」意識もなく、うなされるばかりの息子に向かって、虎蔵は声をかけた。
 「もう、5日間もこの状態か――。衰弱もはげしい。あらゆる中国の漢方……。オランダ船の、ミイラ(木乃伊)もつかっておるんだがなあ」お医者の藤庵和尚(とうあんおしょう)はそう言って、煎(せん)じ薬の方に、ギョロリと目をやった。
 
 ミイラ――。そう、古代のエジプト王、ツタンカーメン等で知られている、あのミイラである。
 これは人間の死体である。けれども、エジプトのミイラには腐敗を防ぐために、天然の成分からつくられた防腐剤がぬられていた。これが、たいへん高価な、天然の抗生物質といえるものだった。
 成分のほとんどは、ミツバチの巣から、ほんのわずかした採取できないプロポリスという栄養のかたまりである。
 そのため、エジプト産のミイラは、万能薬として、江戸の人々に、とても珍重(ちんちょう)されていた。
 
 江戸時代。たしかに日本は鎖国(さこく)をしていた。
 けれども、徳川幕府は、長崎や薩摩(さつま)などの貿易港をいくつか認めてもいた。
 人々は、そこから、中国やオランダなどを通じて、さまざまな輸入品を手に入れることもできたのである。
 
 「松之助! この薬湯(やくとう)を、もっと飲むのだ」虎蔵は、松之助を抱き起こすと、無理矢理にミイラの入った茶碗をその口に押しあてた。
 「あとは、マムシの肝でも持ってくるか……」あわれな父親の姿をみかねて、藤庵和尚(とうあんおしょう)はつぶやいていた。
 「マムシがありましたか! ああ、薬問屋の私がなにもわからなくなっている……。どうか、和尚、この子を助けてほしい!!」
 「そりゃ、あんたのためだ。マムシでもスッポンでも、とにかく飲んで、あんたも精をつけないと」そう言って、虎蔵の肩をポンポンとなだめるように叩いた。
 「和尚、どうか、私のことなんぞ、かまわないで……」
 「ああ、ああ。わしのためだ! わしの手をな、これ以上、焼かせないでほしいからじゃ。これで、あんたまで病人になってみろ。それこそ、難儀(なんぎ)をするじゃろ?」いたわるように嘘をついて、藤庵和尚は虎蔵をなだめた。そうして、深~いため息をつきながら、この絶望的な寝床のある部屋を出ていくのだった。
 
 ちなみに、藤庵和尚というのは、れっきとした薬師(医者)である。しかし、妙なもので、山にある尼寺の廃墟に住みついていた。そして、その本堂だった場所で患者をみていた。たいそう立派な藤棚がある場所である。
 しかも、お堂の方には、なんと、尼さんが一人で暮らしていた。
 本堂とお堂とは……、もちろん、目と鼻の先だ。つまるところが、ふたりはそういう間柄、夫婦(めおと)なのだろうと思われた。
 境内(けいだい)にはちいさな池があって、そこには縁結びの伝説があった。藤棚とならんで、この池も名所といえる。
 そんなこんなで、この先生は、仏門とはまったく関係がない身でありながら、いつしか和尚と呼ばれるようになったのであった。

 「お雪、まだ松之助を連れていかないでおくれよ」一人になると、虎蔵はそう言って、仏壇の方に話しかけた。
 お位牌(いはい)にお線香、供えたばかりの菊の花――。
 虎蔵の女房、お雪は三年前に他界をしていた。
 
 このお雪というのは、お客相手の女将らしきことは、ぜんぜんやりもしないで、勝手気ままにふるまう豪快(ごうかい)な女だった。
 とりわけ旅をするのが趣味で、放浪癖というのだろうか、ひとりで全国を歩きまわる。あちこちの名湯をめぐっては、そのご当地のうまい肴(さかな)や酒をかっ食らう。
 まるっきり、店どころか家にもいないのだから、松之助がなつくはずもないものである。彼は、幼いころ、乳母がほんとうの母親だと思っていたくらいだ。
 
 しかし、虎蔵は、これをこころよくゆるしてやっていた。
 松之助が、この母の陰口(かげぐち)をたたこうものなら、父として、夫として、彼はきっぱりと言うのだった。
 「口をつつしみなさい!」
 「いいえ、あんなのは、母上でもなんでもない。父上だって、そうでしょう? いっそうのこと、離縁をして、後添えをおもらいになった方がよいはずです。いつまで待っていたって、あの母上に老舗の薬問屋の女将がつとまるわけがない。この先、ずっと、遊んで暮らすつもりでいますよ!」
 「おまえは生んでくれた母にむかって、なんという愚かなことを言うのか! そりゃ、女将はつとまらないだろうな。それでも、私の女房はつとまる。なにより、おまえにとってはこの世で唯一の母上さまなのだ。そんなことを言ってはいかん。まさか、この父ひとりに育てられたとは思っていないだろうな!」
 なぜ、店番ひとつしない女房を、この父上はかばうのか――。松之助には、到底、理解のできないことだった。
 
 「……お雪、松之助がそっちへ行ったなら、かならず追いかえしておくれよ」虎蔵は、仏壇にむかって、そう言葉をつづけた。


 
 崖っぷちにいる、松之助の方に、場面を戻すとしよう。
 
 この髑髏(どくろ)の提灯(ちょうちん)が、なぜ、その身体をなくしてしまったのか?
 やはり、それは、先ほどからの流れで察(さっ)することのできる、そのとおりであった。
 
 「まさか!! 私があなたを飲み込んでしまったと?」
 「まあ、そんなところ」
 「ああ、地獄の業火(ごうか)の恐ろしさ。それが、いま、ようやくわかりましたよ。自分の罪に向き合うこと、これは罰なんかじゃない。私はこれから、身に覚えのない罪を知らされていく。そうして、それから逃れられない。私はほんとうに罪を犯していたのだから!!」
 「まあ、まあ……、ちょいと大袈裟がすぎるかな」
 「とんでもない! 私は何といってあなたにお詫びしたらよいものか」
 「うわばみじゃあるまいし。旦那が飲んだのは、ほんの一部で……。そんなところ、これっぽちも気にしちゃいませんよ」
 「しかし、その因果(いんが)で、私たちはこうしてめぐり合っているのでしょう?」
 「あ、まったくの見当違い」
 「?」
 「第一ね、善良な旦那が、こんな地獄にむかう道にいるのも、案外にこちらの非によるところだと思いますぜ~。毒を食らわば皿までというらしいが、つまり、ミイラといっしょにそいつまで腹に入れちまったんでしょう」
 「いったい、それはどういうことだい?」
 「こう見えてもね、ワシは立派な軍隊の司令官だったのよ。勇者だとか、英雄だとか、みんなら称(たた)えられるような。しかしね、それは表向きの姿ってやつで。裏でしていたことを思えばね……、へへへっ。地獄をぐるぐるめぐりめぐって、あちこちどれだけ往復したって、まだまだ足りないっていうあさましさよ。もちろん恨むやつも軍隊ぐらいの数がいた。そいつらがね、ワシの心臓をナイルの川に投げ捨てちまってさ。こうして永遠に死んだままってわけなのよ」
 「心臓がないと生まれ変われないのか?」
 「アホか! よみがえることが叶わないのよ!!」
 「よみがえる? 生き返るってことですか? 死んでしまったのに?」
 「あんたは、そういうこと、ちゃんとしていないのか? 死んだら、死んだままなのか?」
 「……」
 「もういいや。宗教のちがいってやつだろう。そいつは耳にタコができた」
 「いえ。あなたは哲学的なお人だ。神秘的な死生観をもっていらっしゃる。私は、はじめて、考えています。もう、自分の死体は土に埋められたのか。いやな虫に食われて、悲惨な姿になってしまっているのか。おっしゃる通りだ。そうなったら、もう二度と生き返ることはできないだろう」
 「安心しな。ちゃんと畳の上で寝ているよ。それに、旦那は生死をさまよう病人で、まだ死んだとはいえない状態だから」
 「なんか、安心できない。けれども、よくぞ教えてくれました」
 「さっきも、ワシの体の一部を飲み込んだばかりでさ」
 「それは、どうも。本当に申しわけありません」
 「万能薬なんだと!」
 「それは、すごいですね……」
 「よく言うよ!」

 
 不可思議な珍道中をくり広げていると、なんともなまめかしくうつくしい娘が見えてきた――。
 近くまで進んでいってみると、彼女は片方の足を山の壁に突っ込んだ(?)まま、抜けなくなってしまっているらしい。
 年は15、6という頃であろうか。白い死装束(しにしょうぞく)の旅支度(たびじたく)、そんな典型的な死人の衣装に身をつつんでいた。
 しかし、松之助が彼女を怖がることはなかった。
 たとえ幽霊のような出で立ちであっても、顔にはちゃんと血の気があるし、長く垂れた黒髪にも生きている者の艶(つや)を感じる。
 第一、こちらは、ふわふわ浮かぶ髑髏の提灯を連れているのだ。この期(ご)に及(およ)んで、彼がおどろくことなど早々(そうそう)にないだろう。

 「あの、もし……。どうかなさいましたか?」松之助が彼女に聞いた。
 「別に」娘はひどく不機嫌で、ふてくされたように答えた。
 「どうやら、お困りのご様子。私でよかったら、この手をお貸ししましょう。私は、江戸の松壽屋という薬問屋のせがれで、松之助という者です」
 「そんなこと言われても知らん」
 「あなたは?」
 「名乗らなきゃいけない?」
 「いや、これは……、お気を悪くされたなら、どうもすみません」
 「慈音天真童女(じおんてんしんどうじょ)」
 「じおんてんしんどうじょ、さん?」
 「何?」
 「いや、ちょっと、想像していたお名とはちがうものだったので」
 「じゃあ、どんな名前ならばよかったっていうの? まったく、どれだけ期待をすれば気がすむのよ」
 「いえ、そういう意味では……」
 「ほたる姉さんが、さっき、与えてくださったのよ。知らない? とびうさぎって評判の寺子屋の女将さん。幼くして死んだ私をあわれんで、わざわざつけてくださったのよ」
 「とびうさぎ? ええ、ええ、その名前だけは、うわさで聞いたことがありますよ!」
 「で、何の用?」
 「いや、これでは、どうにもお困りでしょう」松之助は、彼女の足に目をやった。
 「ぜんぜん。私が望んでやっているの。こうしていれば、崖から落っこちることはないし。こう見えてもね、あたしは高級な遊女になるはずだったんでありんすよ、ほたる姉さんみたいにね! 気安く話しかけないでほしいでありんす!!」わざとらしく遊女言葉をまじえている。
 「ムキになっちゃって。まるで旦那に、口説かれたと思っているような、くちぶりじゃないか……」骸骨の提灯が、からかうように言った。
 「それ以外に男の考えることがある?」
 「こいつは、へへへっ……」提灯が笑った。
 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」松之助が彼女に手をあわせた。
 「何すんのよ! 勝手に拝まないでよ!! まだ、完全に死んだわけじゃないんだからっ。ここは生き人(いきびと)専用でしょう? 薬問屋のせがれのくせに、そんなこともわからないの? たくさんの人の生死をみてきたんでしょうに、このぼんくら!」
 「なぜに、そんなに喧嘩腰(けんかごし)?」髑髏が、彼女に聞こえないようにつぶやいた。
 「男だからよ。男ってやつが、頭にくるやつだからよ! 私はね、安い女にはならないんだよ!! この、おばけの提灯野郎(ちょうちんやろう)」けれども、ちゃんと聞こえていたようである。
 「おばけの提灯野郎って……。まったく、ひどい言われようだな。いまでこそ、こんなお調子者で、三枚目な風情(ふぜい)だが、もともとは大軍をひきいる司令官だったのよ~」
 「まあ、いつの時代の話しかしら? そんなの見る影もないけど。せいぜい落ちぶれたことを認めてみなさいよ!」
 「いいさ。ワシはいまできることを、やっているだけなのだ。君の言うとおりだ。頭はすっからかんの、からっぽだからな、こうして火でも入れてよ、おばけの提灯野郎にでもならなきゃな。すこしでも誰かの役に立てばと思うのが精一杯な老いぼれだ。ここで、人の足元を灯すことでさ、功徳(くどく)をつめば、あるいは身を清めることになるかもしれない、これしかできない落ちぶれた司令官だ。もう昔の、あの頭がよくて男前で女にも金にも困らなかった、立派なワシはとっくに死んで消えてしまった」
 「ごめんない! あなたはとっても立派よ。おばけの提灯の中でも、とりわけすばらしいおばけの提灯の方だわ! だってそうでしょう? いまの境遇(きょうぐう)をただ嘆(なげ)いたり、神仏にすがったりして、すべてが終わるものではない。まるで吉原の花魁(おいらん)姉さんみたいに、あなたにも、凛(りん)とした潔(いさぎよ)さがあるわ! すべてを受け入れて、できることをしっかりとやって、己(おのれ)の力で救われようとしている。その姿勢は、まったく見上げたものよ!!」
 「どうも。どうも」
 「ううう……。本当に立派なお人だ。立派なおばけの提灯だ。そんなあなたを、私は飲み込んでしまっている……」話しを聞いていた松之助も、感激のあまり袖(そで)で涙をぬぐった。
 「ワシの話しはどうでもいい。罪も犯した、立派じゃないとわかっている。それより、娘さん、この先は地獄だぜ?」
 「ええ。でも、あたしは地獄に入る門の、その前に流れている川に用があるの」
 「この下の、三途の川とはちがう、川が他にもあるのかい?」松之助が聞いた。
 
 そのとき、カアカアと、陰気な烏(からす)の鳴き声が、遠くからきこえた。
 死を告げる鳥であろう。死者の脳髄(のうずい)をすすり、眼をついばむ。おそらく、行き倒れになって、野たれ死にでもした屍(しかばね)が出たにちがいない。
 ようやく生き物の鳴き声を聞いたけれど、松之助にはただ薄気味悪さが増すばかりだった。

 「ちがう川があるのよ。地獄の門番がね、ときどき、そこで釣りをしているの。生きている人を釣っているのよ。なんでも、その川で泳ぐ人たちは、みんな鯉(こい)にみえるらしいのよ」娘が答えた。
 「そんで……、鬼にでも食われちまうのかい?」松之助が、ふるえながら聞いた。
 「とんでもない! そこで釣られた人はしあわせよ。だって、地獄の門番は鯉になった人に、すばらしい夢をみせてくれるのだもの。この世はうつくしい!! あたしたち、みんながどんなに恵まれていてもかまわないっていう……。ねえ、それって、ほんとうに夢のような、夢だとは思わない? そうして、また元の川に戻してくれるの」
 「たしかに、よさそうな話しだね」松之助が言った。
 「そうなの!! だから、あたしは、それをお願いしに行くつもりなの」慈音天真童女はしずかな口調で言った。
 「それじゃ、君はその夢をみたいんだね?」髑髏が言った。
 「あたしじゃなくて、釣っていってほしい子が、吉原にいっぱいいるのよ。だって、たとえ眠っている間のひとときであっても、そんなしあわせな夢をみた人は、それを忘れないで生きていけるようになるんだもの」
 「しかし、ちょっとうますぎるような、よい話しだよね……」松之助が言った。
 「べつにうますぎやしないわ。地獄といっても、それは門の中。外はまだ生き人専用の道のつづきなんですもの。川だって、三途の川とはちがう。生き人専用の川だわ」
 「そうなのか」松之助はうなづいた。
 「あたしにはね、生まれつき、不思議な力があったのよ。死んだ姉さま方とお話しができたり……。それで、その特別な川のことを知ったのよ。お百度参(おひゃくどまい)りをして、こうして、やっと来ることが叶ったのだけれど。あたし、ここで足をとられてしまったの」そう言って、彼女は右足に目をやった。
 「よしっ! 私が、引っぱってあげましょう」そう言って、松之助は手をさし出した。
 「ええ……」ようやく彼女も素直になって、その小さな手を彼の方へとさし出してきた。

 

 「松之助っ! どうした!! しっかりするのだ!!!」すうーっと、布団からさし出された手を、父の両手がしっかりと握りしめた。
 「ううう……」
 「おまえが、もし、いま、戻ってきたなら、この父は……、なんだって聞いてやる! どんなことでも許(ゆる)してやる!! 思いつくまま、わがままを言うがいい。どんな無理難題だって、きっと、この父が解(と)いてみせるぞ!!」涙ながらに、虎蔵は誓った。
 「本当ですか? それは?」そう言うと、松之助はいきなりガバッと目を見開いた。そうして状態を起こすと、「とびうさぎに行かなければ~ッ、なりません!!!」と叫んだ。
 「ま、松之助? おまえ……! よかった!! よく戻ってきた!!!」感激のあまり、泣きじゃくりながら、父は息子をひしと抱きしめた。
 「父上。一刻の猶予(ゆうよ)もありません。寺子屋の、とびうさぎに参りたいのです!! いま、すぐに、です!!!」
 「寝ぼけているんだな、無理もない。意識がもうろうとしているだろう」
 「いえ、私は、ほれ、このとおりピンピンしております。それよりも、いま、死にそうな娘がいるのです!」
 「あ、ああ……。わかったよ」虎蔵は、昏睡(こんすい)状態からさめたばかりの息子の、この、ただならぬ気迫に圧倒(あっとう)をされていた。
 「坊ちゃん!!!」番頭さんがやってきて、松之助の起きているのをみて感激をした。
 「早く、籠(かご)を用意するのだ!!」虎蔵が彼に言った。


 5日も何も食べていない松之助。病みつかれた顔は、のびきった髭(ひげ)と髪のみだれがむさくるしい。身なりも寝ていた浴衣のままで、そのへんにあった下駄をひっかけていた。
 ふらつくからだのまま、彼は籠に乗ると、簾(すだれ)を閉めたくないと言った。まさか、行き違いになるといけないから、町の様子を確認しながらすすみたいというのだった。
 こけた頬には、不自然なくらい、両目だけが血走っている。
 「慈音天真童女というのです。そういう戒名(かいみょう)がつけられて……。もしも、火葬にでもあったら、取り返しがつきません!」
 「ま、松之助~っ!!」息子が気がかりな虎蔵は、後ろの籠には乗らずに、松之助の乗った籠のとなりを、なんと並走してきていた。この5日間、ほとんど寝ずに、つききりで看病をしてきたのだ。なんだか、いま、この父の息切れをする状態も、死にそうでおかしい。
 「旦那も、乗ってくだせえ!」籠の担(かつ)ぎ手たちは、ひたすらに、虎蔵を説得しながら走っていた。
 「い、いや。か、構わない~っ」異様な形相(ぎゅうそう)になりながらも、この父は息子の横にはりついていた。
 お江戸の人々も、これはいったい何の騒ぎだろうという顔で、この一行を見ていた。


 ようやく、寺子屋とびうさきの暖簾(のれん)の前に、場面が戻ってきたようである。実際には、あれから時がすこしばかり過ぎた場面ではあるが……。
 
 涙を拭きながらうつむくほたる――。
 そんな彼女を、そっと、七助がうながしている。
 「楓(かえで)ちゃんも、きっと、これで浮かばれる」
 「そうね、そうよね」
 「お葬式ができてよかったね」七助がやさしく言うと、ほたるはまた涙を流した。
 戸には、「忌中(きちゅう)」と墨でかかれた半紙が貼ってある。
 
 生きては苦界、死しては浄閑寺(じょうかんじ)。そんな川柳があるように、身寄りのいない遊女というのは、投げ込み寺の共同墓地で埋葬されることが多々あった。
 楓の遺体も引き取る者がなくて、吉原でもどうしたものかと相談をしていたところ、ほたるが名乗り出たのであった。
 蛍燈太夫として遊郭(ゆうかく)にいたころ、ほたるには鈴音というかわいい妹分がいた。彼女とは、いまも文などのやり取りをしていて、今回の訃報(ふほう)もそうして知ることができた。
 鈴音と楓は、たいへんに仲がよかったのだ。
 
 「お三味線がほんとうに達者(たっしゃ)な子でした……」ほたるが、楓の生前をしのんで言った。
 「お気の毒さま。成仏してくださいよ」道行く人も、足をとめて、楓のために手を合わせてくれたりした。
 
 おおきな樽(たる)のような棺桶(かんおけ)。その中に、楓は、手足を折り曲げ座った格好で納棺されていた。
 男二人が、これを棒でかつぐと、ほたるも七助も、あとにつづいて歩きはじめる……。
 ほたるの手には、お位牌(いはい)が抱えられていた。

 
 「あっ! 慈音天真童女さ~ん!!」それをみつけた松之助が、むこうの通りでとんでもない叫び声をあげた。
 
 「……?」ほたるが、不思議そうに松之助の一行をみた。
 「ン?」七助もいぶかしげにみた。

 「ちょっと、待った!! その棺桶~~っ!!!」ふたたび、松之助がおおきな声をあげた。
 そして、彼を乗せた籠の一行は、ぐんぐんとほたるたちの方へと迫って走ってくるのだった。


 棺桶の前までくると、蒼白い、いまにも死にそうな形相のその若者は言った。
 「からだは、からだは、まだ、どこもなんともありませんか?」
 「残念ながら……、すでに亡くなっております」七助が丁寧に答える。
 「いえ、まだ、その中に、無事でいらっしゃるんですよね? お位牌を、どうか、女将さん、お見せください! 慈音天真童女さんにまちがいはありませんよね?」松之助が聞いた。
 「ええ。あの、どうしてそれを……?」ほたるが、ちょっと怪訝(けげん)そうな顔で松之助をみつめた。
 「申しわけございません。せがれは、ちと、あれを、これしまして……」虎蔵が、自分の頭を指さしながら、実は、この息子は頭をやられている、というような素振りをしてみせた。そうして、それをわびるように両手をあわせている。
 「――」呆気にとられて、ほたると七助は見つめう。
 「私はいたって真面目です! それにお嬢さんにすっかり惚(ほ)れてしまっています! こんなに、はっきりと、気のしっかりとした娘さんに、はじめてお会いしたと思っているのです!! ぜひ、お嬢さんを、私にください!!! いえ、助けさせてください」
 「まあ、楓の、お知り合いの方だったんですね……」ほたるが涙ぐみながら、お位牌をみせてくれた。
 「んん、慈音天真童女……、まちがいないな。ほんとうは楓さんというのか!」戒名を確認しながらそう言うと、「ようやく知りたかった名前が聞けたような」とつづけてつぶやいた。
 「――」松之助のすさまじい勢いに押されながらも、事態が飲み込めないほたると七助は、立ち尽くすばかりである。
 「よかった~っ!!! まだちゃんと棺桶にいてくれて! だけど、いつまでもそんなところにいちゃだめだ。ほら、もう、みんなから死んだと思われているじゃないか」そんな二人のことは気にもとめずに、七助はそう言いながら、猛烈ないきおいで棺桶にすがりついた。「さあ、私の手を取ってください! あなたを地獄の壁から引っ張りだしてみせますから」
 「申しわけございません!」虎蔵がもう一度、息子は頭がおかしいという、手振りをしてみせた。
 「いや、蓋(ふた)を開けるわけにはいかねぇぞ!」七助は、どうにかして棺桶をこじ開けようとする松之助を、引きとめるのに精一杯だった。
 「七さん、いいわ。どうぞ最期のお別れをしていただきましょう」涙ぐみながら、ほたるは静かにそう言った。知り合いの死というものは、誰だって信じられないし、信じたくもない。無理のないことだと思ったからである。

 こうして、楓の入れられたお棺(かん)は、いったん、寺子屋の2階にある寝室へと戻されることになったのだった。 さすがに、人々のいる通りで、棺(ひつぎ)を開けるわけにはいかないだろうから。

 
 カアカア……。夕焼け空を、数羽の烏(からす)たちが飛んでいく。
 時はすぎて、夕暮れになっても、楓の顔は蒼白いままで、まるで死人のようであった。

 虎蔵、七助、ほたる、それから事態を聞いて駆けつけてくれた藤庵和尚を前に、松之助はいままであったこと、ことの経緯(いきさつ)というものをすべて語って聞かせていた。
 また、松之助の方でも、楓が身寄りのないあわれな娘だということを知らされていた。
 4人はかかしこまって正座をしながら、畳の上で横になった楓の遺体を囲んでいた。
 当初、楓の顔には白い布がかぶせてあったが、松之助の臨死体験を聞いてからは外されている。
 
 「不思議な話しもあるものじゃなあ」藤庵和尚が言った。
 「おそらく、病床で、夢でもみていたんだろう」虎蔵が言った。
 「いいえ、父上。ほんとうのことなのです! すべては実際に私の身に起きたことなのです」松之助がきっぱりと言ってみせた。
 「楓ちゃん、まだ、生きているの? ただ、眠っているだけなの?」ほたるは、楓にむかって、そう話しかけた。
 「ほたる……、気持ちはわかるけど。息はしてねぇし、心臓も動いていねぇ。しかも、もう3日も経つんだ。あまり、思いつめちゃいけねぇぜ」七助が、かわいそうな女房をいたわるように言った。
 「薬師としても、すでにお亡くなりになっていると思います。それにこの季節だ。埋葬が早すぎたなんてことはありゃしませんよ」藤庵和尚もほたるに、そう言ってうなずいた。
 「ほんとうに申しわけない。どうにも頭に栄養が足りていない状態でして。どうやら、せがれは5日も生死をさまよって、あちこち正気を失っているようです。どうか、なにとぞ、ご容赦(ようしゃ)くださいまし。いや、ほたるさん、七助さん、この度はとんだご迷惑をおかけいたしまして……、楓さんにも、なんとご無礼をいたしましたことか……」虎蔵は、汗をぬぐいながらそう言って、何度も何度もぺこぺこと頭をさげていた。

 ふと、思い立ったように、松之助がポンッと膝をたたいて言った。
 「この世に未練が足りていないのかもしれない。父上、私の頭に栄養が足りていないという、そのお言葉で助かりました。楓さんには、もっと、現生(げんせい)における強い執着……、たとえば、私との縁(えにし)が必要なのかもしれません」
 「?」虎蔵はポカンと口を開けている。
 「どうぞ、彼女との婚儀(こんぎ)をお許しください。今宵、祝言(しゅうげん)をあげて、私たちが夫婦となれば、楓さんとて、死んでいる場合ではなくなるでしょう。善し悪しは別として、この私とつながりができてしまえば、黙っていくことはできなくなるはずです。この際、文句でもかまわない。なんぞ、言ってやりたい気持ちが、楓さんの生き返りの役に立てばそれでよいのです」
 「……、ほんとうに申しわけございませんっ!」虎蔵は、もう一度、みんなにむかって、深く頭をさげていた。
 「父上っ!!」しかし、松之助は引きさがらなかった。
 「……、ほんとうに申しわけございません。せがれは、正真正銘に、頭をどうかしてしまったようです。しかし、この情けない父親も、せがれ以上にまた馬鹿者なのでございます。私は、もはや、人としての道にそむいたとしても、このせがれの申し分を聞いてやりたいと思うのでございます。実は、この松之助の望みを、なんでも聞いてやると天地に誓ったときに、ようやくあの世から戻ってきてくれたのでございす。いま、私が問われているのは、まさしく、このせがれの生死――。あまりにも荒唐無稽なお願いだとはわかっております! けれども、これを許さないとすれば、せがれは、今度こそ、私の前からいなくなってしまう。そんな気がするのでございますっ」そういうと、その場にいるみんなにむかって、虎蔵は土下座をしながら、必死に頭をさげたのだった。


 そうと決まれば、行動あるのみ、である。
 ほたるは婚礼のための特別なご馳走をいそいで用意しはじめて、七助も預かっていた子供たちをそれぞれの家まで送り届けた。
 藤庵和尚は、祝儀のための座敷をあれこれと趣向をこらして飾りつけていた。
 本来であれば、これは嫁ぎ先となる松壽屋で行うべきことかもしれない。けれども、そこは楓さんの状態を考えてやめにした。ふたりの祝言は、いま彼女の体がある、この場所でとり行われることになった。さすがに、列席者も、あえて呼ぶことはしない。


 虎蔵には、苦しい役目があった。
 それは鶴池神社の通称つるつる神主さんに、ふたりの婚儀ををお願いすることである。松之助はともかく、楓さんのことを思うと、全身から変な汗が出てきてとまらなかった。
 
 緊張のあまり、カチコチになりながら、彼は思い切って口火を切った。
 「何? 死人(しにん)の花嫁だと?」つるつる神主さんが声をあげた。
 「驚かれるのも無理はないんですが……」
 「いや、いや。そういうこともあるさ。さほど驚きもしねえぞ。こちとら長く神主をやっているから」意外にさっぱりと引き受けてくれたものである。
 
 つるつる神主さんには、婚礼を間近にひかえていながら、急に亡くなってしまった花嫁。それをあまりにも不憫(ふびん)に思う父母が、せめて心残りのないようにと、その娘と許嫁(いいなずけ)の祝言をあげさせたことがあったそうだ。また、年頃で亡くなった娘を持つ親と、ちょうど時を同じくして、年頃で亡くなった若者を持つ親とが、そのふたりを弔(とむら)うために、たがいに夫婦として結びつけてから埋葬したということもあったそうだ。

 「まさか、そんなことが……」
 「お江戸は人情だからな。こういうのは冥婚(めいこん)などといって、あちこちで行われている風習でもある。だれが馬鹿者呼ばわりするものか」
 「……」
 「大丈夫。魚心あれば水心、親心あれば神主心もありじゃよ。まあ、死人(しびと)は急だからな。実は、こんなときのために、大中小と、婚礼の衣装も用意してあるのさ」ことわざをもじりつつ、おちゃめな表情で笑ってみせた。
 衣装はもちろん買い取りだったが、(前作『めでてぇ朝顔』にも登場した)七助の古くからの知り合いでもある、又吉(またきち)兄貴の店であつかっていた。さすがに急成長をとげるだけあって、その呉服屋(ちなみに店名は「八服屋」という)では、他ではありえないような衣装でも、ありとあらゆる着物を取りそろえてあるのだった。
 「ありがたい。ほんとうに、ありがたい」そう言って、虎蔵は涙を流して感激をした。


 こうして、松之助と楓の祝儀は、おごそかにうやうやしく行われた。
 新郎新婦の高砂(たかさご)の席の両脇には、急きょ、藤庵和尚が描いた鶴と亀の柄の、おおきな絵ろうそく(!)が置かれいた。あやしく細長くゆらめく、それらの炎は、いくら縁起の良い絵つけをしていても、仏壇の飾りを思わせてしまう。
 
 羽織袴の凛々しい新郎……というよりは、痩せこけて病みつかれた顔の松之助。しかし、髭はそられて、髪もちゃんと結いなおし、お風呂にも入って、それなりに生まれ変わった姿はしている。
 その隣には、まったく、微動だにしない白無垢姿の楓が座らされていた。すこし深めの角隠し。その下の表情は、影になっていて推し量ることもできそうにない。
 ただ、これまた縁起の良い絵柄(赤富士山、雲遊(うんゆう)、松竹梅などてんこ盛り)の入った盆提灯が、花嫁の白い衣装に、幻想的な走馬燈(そうまとう)を映しだしている――。
 これは、もはや、うつくしいやら不気味やら、ゾッとするやら火の玉にみえるやら……、筆舌に尽くしがたいものであった。

 仏門には縁もゆかりもない藤庵和尚の思いつきで、精霊馬(しょうりょうま)という、きゅうりに割りばしが刺さった飾りまで、高砂に置かれていた。なすの牛はない。あれは送り盆のときに、足の遅い牛に見立てたなすで、ゆっくりと帰ってもらうものだがら。今回まったくの無用なものである。
 障子(しょうじ)にも、あちこち、これでもかというほどの鬼灯(ほおずき)の実が……。 
 彼によれば、きゅうりでできた足の速い馬に乗って、鬼灯の赤をたよりに、颯爽(さっそう)と楓は帰ってくるらしい。
 あの世の霊魂をこの世に呼びよせそうなものは、この際、なんだって飾りつけておいた。そんな切実な願いを感じるから、だれも悪くは言えなかった。
 しかし藤庵和尚のおかげで、怪奇的な印象ばかりが目立つ、鳥肌ものの婚礼の場となってしまったことは確かなようだ。
 
 「松之助ときたら、急に夫婦になりたいなどど言い出しまして……、あっはっはっは」と虎蔵。
 「はやり老舗の若旦那は隅に置けませんな。こりゃ、めでたい! めでたい!! ちょっと、踊りましょうか。唄いましょうか」と藤庵和尚。
 「楓ちゃんも、三味線の名手なんだよなあ?」と七助。
 「こんなに立派な花嫁さんになって。とっても綺麗よ!」とほたる。
 そんな中で、つるつる神主さんだけが、ずっと無言でいるのだった。
  
 そんなこんなで、宴もたけなわ。
 松之助が夫婦固めの祝いの盃(さかずき)を口にする。
 楓には、ほたるが手助けをしてやった。

 だれもが口にはしなかったが、この三々九度の盃の儀式も終わるころになると、みながどうしようもない虚無感におそわれた。
 おごそかにうやうやしく……、そして、つつがなくとり行われて、このまま婚礼が終わってしまう。それは、楓の死を決定づけてしまうことになるだろう。
 もちろん、はじめて経験するような失望感だ。百物語を終えたあとの、なにも怪奇現象が起こらない気まずさ。そんなものの比ではない。
 特に、松之助の落胆を思えば、永遠に三々九度の盃をくり返してほしいくらいの気持ちで、みんながみんな彼を見守っていた。


 「今宵は妻とふたりきりにしてください」松之助がほたると七助に言った。
 「……」ほたると七助はうなずいた。
 気持ち悪くは思わなかった。むしろ、まだあきらめない松之助が頼もしくさえ感じられた。
 
 そうして、すべては終わり、夜はふけていくのだった。


 明け六つ(午前6時ごろ)――。
 楓はそっと、その目を開けた。
 「ぎゃあ~~!!!」隣りに松之助が寝ていたので、彼女は叫び声をあげて驚いていた。
 「楓さん!!! やった~っ、やったよ~っ!!!」その声に起こされた松之助が、よろこびのあまり声をあげた。
 「まさかっ! まさかっ!!」そう言って、彼女は襟元(えりもと)を正している。
 「い、いえ。指一本、触れてはおりませんよ! さすがに、そういう気分にはなれなくて……」
 「当り前よ! こんなところで傷物(きずもの)にされちゃたまらないわ。あたしのからだはね、幼いころより大事にしてきたものなの。もう、高く売れなくなったら、あやうく死ぬところだったわ!!」

 ほたると七助が飛び起きて、ふたりのいる部屋に駆け込んできた。
 「楓ちゃん! 信じられない。楓ちゃん、生き返った~~!!」ほたるが、たまらず、楓に抱きついて、そう言った。
 「姉さん、あたし、きれいなからだよ。ほんとうよ!」
 「楓ちゃん?」ほたるが聞きかえした。
 「あたし、姉さんみたいな、売れっ子の花魁(おいらん)になるんだもの!」
 「楓ちゃん……」ほたるは泣いていた。こんな状態になっても、いまだにそんな健気(けなげ)なことを言う。「いい? 楓は死んだの。いい? 楓は死んだの!!」
 ほたるの言っている意味は、遊女ならわかることだった。その瞳のきらめきが、すべてを教えてくれていたから。
 吉原に売られた娘は、そこから抜け出る方法が3つしかない。すなわち、身請(みう)けされるか、年季が明けるか、死んでしまうかである――。
 「じゃあ、あたしは?」
 「自由よ! もう、吉原に戻ることはない」
 「……!!!」楓の瞳から、どめどなく涙があふれてきた。「姉さん……、あたし、自由になったよ……」泣きじゃくりながら、彼女はほたるにしがみついていた。
 
 
 楓がぜひとも見たいというので、4人はそろって、寺子屋の前にある朝顔を眺めていた。
 「これが、ほたる姉さんと七助さんの縁結びの赤い糸なのね。ほんとうに、紅白なのね、めでてぇ朝顔なのね」楓が言った。
 「そうよ。だけど、楓ちゃんと松之助さんだって……」そう言って、ほたると七助がほほえんだ。
 「……」楓が思わず、頬を赤らめていると、松之助が言った。
 「楓さんは、まだ幼いな。子供な分だけ、うぬぼれも強いみたいだ。ちょうど裏山で猟師の罠(わな)にかかった、いつか私が助けた子狸のようだ。まあ、タヌキよりはキツネって感じだけれど。そのときは私の手を噛みつくと、礼も言わずに母狸のもとへ逃げていったよ。あなたの言葉を借りて言わせてもらいましょう。私もね、安くはない男なんです。だから、楓さんの命は助けたけれど、それ以上は望まれても困るなあ。世の中、そうそう願ったとおりにはいかないものですよ」
 「なに、この、感じの悪い男は! ほたる姉さんも、聞いたでしょう? ねえ、ひどくない? こんな言い方、ひどくない?」楓がほたるにしがみついて言った。
 「そうね。松之助さん、それはあんまりじゃないの。昨日は、惚れているから夫婦になりたいって、そう言ってくださったじゃないの?」
 「……」七助はなにも言わなかった。
 「あくまでも、事のなりゆきが、そうさせたのです。どこの馬の骨ともわからぬ娘と、たったの一晩過ごしたくらいで、まさか一生を添い遂げるわけもないでしょう? 楓さん、私が欲しければ、あなたもそれなりに誠意をみせるべきです。ちゃんと手続きを踏んで、それでも一緒になりたいというお覚悟がありますか? 私はあなたの親でもなければ兄弟でもない。いまは、夫でもないと思っています。 つまりは、ほんとうの意味で、自由になったということですよ。どこへ行こうと、だれと会おうと、もはや、私の知ったことではない」松之助が、楓を突っぱねるように言った。
 「はあ? 言われなくても、そうさせていただきますよ!」楓はぷいと顔をそむけた。

 しかし、今朝の朝顔たちはうつくしかった。
 昨日の、あの陰惨な彼岸花の表情が嘘みたいだ。
 朝露をあびて、きらきらと輝いて、めでてぇ朝顔はやっぱり、日本一(ひのもといち)のおめでたい色をしているのだった。


 それから、季節は移りかわって、いまは紅葉(もみじ)や銀杏(いちょう)の葉の、紅葉(こうよう)の重なりあうのが、錦(にしき)の織物のごとくきらびやかにみえた。
 藤棚と縁結びの言い伝えがある池――、ここは藤庵和尚の診療所のある山寺の廃墟である。
 そして、それらの立派な名所や境内からすこし離れた奥のところに、あらたに加えられた駆け出しの名所があった。

 「――」お線香をたむけると、その新しく建てられた供養塔を前に、松之助と楓は手をあわせて祈っていた。

 その石碑には、「白闍卿(はくじゃきょう)。死後なお迷える人々をみちびく稀有(けう)な人物。生前は大軍を率(ひき)いた司令官で英雄なり。彼は、他がために己の身を捧げた恩人であり、闇の中で唯一の光であった友人である。ここにその五体を弔(とむら)う」というような意味の文が刻まれている。

 「手も足も心臓さえも、こうして抜かりなく描きこんであるからね」石碑の裏に刻まれた絵をそっと指でなぞりながら、松之助が語りかけるように言った。
 「白闍卿。いい名前でしょう? あたしと松之助さんでつけたのよ。ほら、あなた、白骨だったし、地獄の門へつづく道を案内していたから」楓がそう言って、くすくすと笑った。
 ちなみに、闍(じゃ)という漢字には城門の意味があって、卿(きょう)は貴人を敬(うやま)っていうときに使われるものである。

 「あたしもね、いまは、慈音天真童女じゃないの。また会ったときは、楓って呼んでね。きっと、会えるわ。あたしにはそういう不思議な力があるのだから」
 「白闍卿……。あなたのおかげで、私たちはこうして生きていますよ。なにもかも、あなたのおかげで」松之助は、もう一度、しゃがみ込むと手をあわせた。
 「……」楓もおなじようにして、その隣で目を閉じると、心の中でありがとうを伝えている。
 松之助は、そんな彼女の横顔をみつめていた。

 楓は、ほたると七助のいる寺子屋でお世話になっていた。他に行く当てもないので、そのまま居座るような形になっていたのだった。
 あの後で、七助は、ご丁寧にも楓とちょうど同じくらいの重さになるように、数個の漬物石を棺桶に入れて埋葬をしていた。それで、世間的には本当に彼女は死んだことになっている。
 いまの楓は、名前はおなじだけれども吉原の楓とは、まったくの別人。田舎の里からやってきた七助の遠い親戚の娘であった。

 「あのときは、ひどいことを言ってしまったね。せっかく、戻ってきてくれたというのに、私は抱きしめもしないで突き放してしまった。でも、事のなりゆきを考えたら、どうにも仕方がなかったんだよ。もしも、あのとき、私がやさしく接していたら……、楓さんは、きっと私を拒(こば)むことができなかった。それじゃ、ほんとうの自由とはいえないだろう」松之助が重い口を開いた。
 「松之助さんを拒む?」
 「あのとき、地獄の壁に片足をとられてしまったあなたを見たとき……。あのときから、私は、ずっと、楓さん、あなたのことが好きなんですよ」
 「松之助さん……」
 「だけど、私は、まじめなだけが取り柄のつまらない男で、いきなりあなたを奪うことなんてできないから」
 「……」
 「楓さん、こんな私でよかったら、八服屋の養女になってもらえませんか?」
 「ええっ、どういうこと? 又吉兄貴の養女に?」七助の影響で、彼女まで、兄貴と呼ぶようになっていた。
 「そうしたら、私はあなたを妻にもらえるように、又吉さんにお願いをしたいと思っています」
 「うれしいわ。あたしも松之助さんがほんとうに好き! あこがれの光源氏だと思っていたくらい!! だけど、あたしたち、もう夫婦(めおと)になるお約束を、いま、ここですればいいんじゃないのかしら?」
 「いや、楓さんにはまず八服屋さんの養女になってもらって、その後、私たちはちゃんとした許嫁(いいなずけ)という間柄になります。それ相応の状態になったら、きちんとよい日にちをみつけて、しっかりと結納(ゆいのう)も交わしたい。それから、楓さん、あなたのためにあつらえた、上等な色打掛(いろうちかけ)の着物をきて、今度こそ本物の生きた馬に乗って、私のところへ正式に嫁いできてください」
 「いろいろ……、やることがあるのね。わかったわ。八服屋さんで、立派に女将修行をしてから参ります!」
 「ち、ちがうよ! そういう意味じゃないよ、ぜんぜん女将なんてつとまらなくてもいいんだ。どうも、うちは父の代から、家風(かふう)が変わっていてね。亡くなった私の母上などは、用心棒のくノ一(女の忍者)を連れて、あちこち全国を旅してまわったほどさ」
 「まさか!」
 「それが、ほんとうなんだよ! いままで、母上の尻にひかれっぱなしで、まったく情けない父上だとばかり思っていたけれど、私も楓さんと出会ったおかげで、ようやく、そうじゃないことに気づかされました。この際、あなたが三味線の道に生きるというのなら、私はそれをこころから応援したいと思っているほどですよ」
 「ありがと、松之助さん。でもね、あたし、そりゃ、お三味線が手放せないでしょうけれど、その道に生るってことはないと思うわ」
 しばらく、ふたりは、おたがいに見つめあっていた。

 ふいに、お線香の煙がすうーっとのびてきて、松之助と楓の顔にかかったから、ふたりはむせて咳(せ)き込んでしまった。
 「――」なにも言わない供養塔。白闍卿と刻まれた文字。
 ちょっと、老いぼれ髑髏(どくろ)の、おばけな提灯(ちょうちん)の前で、若いふたりのじゃれあいがすぎたようである。
 これには、松之助も楓も、石碑を見返して……思わず、笑ってしまった。

  この世はうつくしい。
  そして、どんなに恵まれていてもかまわない。
  まるで夢のような話しだけれど、松之助と楓にとっては、それがいま目の前にある現実なのであった。


 以上が、「松之助の臨死体験~死人の花嫁~」である。めでたし、めでたし。

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