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現代リベラリズム② | 価値の多元性

前回の記事では、現代リベラリズムの全体像を簡潔に書こうと思ったが存外に長くなってしまった。改めて簡潔にまとめると以下のとおり。

個人の自律
↓ ゆえに、
価値の多元性、価値対立という状況が生じうる
↓ そして、
その価値対立の解決策としてリベラリズムが考えられる

リベラリズムによる解決のポイントは「公と私の区別」にある
↓ つまり、
私的な問題(価値や善の構想の優劣・妥当性)と公的な問題(万人が合意できる正義に適った社会制度とは何か)を明確に区別して考える
↓ その上で、
私的な問題には介入せず「価値の多元性」を前提とした上で「異なる価値を有する万人が合意可能な社会制度」について考える

今回はリベラリズムの議論の前提となる「価値の多元性」について、もう少し掘り下げて考えてみる。

1.問題意識

アメリカ社会の深刻な「分断」に関する報道を見るにつけ、異なる意見・価値を持つ人々が相争う社会ではなく「皆が同じ価値を持ち、意見対立や価値対立など争いが生じない社会」の方が望ましいように思えてくる。

だが、果たしてそうだろうか。対立のない「一元的価値」が支配する社会の方が望ましいのだろうか。はたまた、異なる価値を有する人々は互いに「共生」することはできず、同じ価値観を有する者同士で「棲み分け」するしかないのだろうか。


なぜ「価値の多元性」が生じるのか
そもそもなぜ「価値の多元性」や「意見の複数性」という状況が生じるのだろうか。

前回は「個人が自律的で理性的に思考するからこそ価値の多元性という状況が生じうる」と書いたが、この点をもう少し掘り下げて考えてみたい。

2.ハンナ・アレント『人間の条件』

アメリカ大統領選の開票が続いていた2020年11月8日、哲学者の國分功一郎氏が以下のようにtweetをしていた。

多くの報道は「社会の分断」や「意見の不一致」を否定的なニュアンスで伝えるが、そもそも「意見の不一致」は政治の出発点であり、政治の条件ですらある、と。


ハンナ・アレント『人間の条件』
この國分先生のtweetはハンナ・アレントの議論を想起させる。アレントはその著書『人間の条件』で次のように述べる。


(活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人の間で行われる唯一の活動力であり、)多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。

〜この多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。
 ーハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫,1994年 p.20
多数性が人間活動の条件であるというのは、私たちが人間であるという点ですべて同一でありながら、だれ一人として、過去に生きた他人、現に生きている他人、将来生きるであろう他人と、けっして同一ではないからである。
 ーハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫,1994年 p.21


価値や意見の「多元性/複数性」がなぜ生まれるか。アレントによれば、この世界に存在するのが「一人の人間man」ではなく「多数の人間men」であるという事実に由来する。

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対して、一人しか存在しない「神の世界」においては対立が生じ得ず、政治も存在し得ない(アレントも同様のことを言っていた)。

神の世界には神一人しかおらず、意見が対立する「他者」が存在しないのであるから、政治そのものが消滅するのである。ゆえにリベラリズムといった政治哲学も必要なくなる。

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※神のアイコンが見つからずキリストっぽいアイコンになってしまった。

3.中世ヨーロッパ世界

「多数の人間が存在する」という事実こそが人間に与えられた条件であるが、歴史を遡れば、多数の人間が存在する社会においても「一元的な価値」が支配する中世という時代があった。


中世という時代
中世においては「人はいかに生きるべきか」という個人的な道徳の問題から「外交において何をすべきか」といった政治的・社会的な問題までのあらゆることについて「どうすべきか/どうするのが善いのか」は神(ローマ教皇庁や教会)が解答を用意していた。

政治的には国王や貴族・諸侯が乱立し多層的な秩序が成立する一方で、価値体系としてはキリスト教的世界観のもと一元的な価値が志向されていたのが中世という時代であった。


神の命令理論(Divine command theory)
神の命令理論とは、価値や規範は人間の理性的な思考や科学的な事実に求められるのではなく、宗教的な事実に還元できるとする考え方(実在論)。

神の命令理論によれば、「道徳的に正しい」とは「神によって命じられていること」、「道徳的に間違い」とは「神によって禁じられていること」を意味する。

価値や規範の根拠を神に求めることで明解な回答が与えられ、それ以上の説明は要しない(=「なぜそれが正しいのか」について人間の側に挙証責任はない)。

上位の権威によって価値体系が規定されるがゆえに「価値の多元性」は生じ得ず、キリスト教的世界観に基づく一元的な価値に収斂していく。


目的論的自然観
それぞれの存在は形而上学的存在(神/超越者)によって一定の構想のもとに創造されたものであり、その存在(被造物)の背後には神の意図・目的が摂理(自然法)として反映されている、という自然観。

存在に予め内在している目的を現実化することが「善い生き方」であり、神の目的に沿って価値が序列化される。このような自然観は古代ギリシアのアリストテレスから中世のローマ・カトリックにおいて支配的な考え方であった。


現代という時代:一元的価値の不在
しかし、ニーチェが宣言したように「神は死んだ」。その存在に価値や規範を付与していた上位の権威は解体され、意見対立や価値対立などの問題についても、その優劣や妥当性を判断する絶対的な基準はもはや存在しない。

M.ウェーバーの言うように、現代における「神々の争い」を調停する超越的な裁定者を我々は持たないのである(脱魔術化された世界)。

4.暫定的な回答

そもそもなぜ「価値の多元性」という状況が生じるのか、という最初の問いに対してこれまでの議論を整理して自分なりの暫定的な回答をまとめると以下になる。

①「人間の多数性/複数性」という人間に与えられた条件
②多様な価値を調停する「一元的価値の不在」という現代の条件

この条件の下で、自律的な個人が理性的に思考するからこそ「価値の多元性」という状況が生じうる。

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次回は英国の哲学者、アイザイア・バーリンの議論を参照し、もう少し「価値の多元性」について考えてみたいと思います。

本日の一曲
neil young / heart of gold



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