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ショートショート 蟻の母

 今夜は台風が来る、というので洗濯物を早々にしまいこむ。空は暗いがまだ降り出してはいない。風が強い分早く乾いたかもしれない。
 降り出さないうちに犬を散歩させて、夕飯の買い物。少し余分に買う。電気が止まってもいいようにと肉まんを手に取って、やめる。娘達がいたら喜んだだろうが、夫はあまりこういうのは好きではないから。

 買ってきたものを冷倉庫に入れて、雨戸をしめる。部屋に閉じこもりきりの夫にお茶をだす。「台風がくるぞ」と言われる。「そうですね」と返す。今日は話した方だと思う。

 風呂に湯をはる。風呂場の片隅に、蟻をみつけた。よくみると、長い列だ。古い我が家のあちこちにある隙間や、木の穴の中に、蟻達が避難してきている。
 たぶん、あそこ。
 と、風呂桶と壁の目地の間を見る。案の定、するすると蟻が入っていく。前に、ふと風呂のお湯をかけてみて、一斉に中から蟻が噴き出して、心底驚いたことがあった場所だ。今日はやめておく。かわいそうだから。

 風呂の壁から、窓の隙間、庭に続く蟻の行列を眺める。時折蟻が持っている白いのは、きっと赤ちゃんだろう。全部運びおおせるんだろうか。女王蟻はどうするんだろう。確か、ものすごくお腹が大きかったはずだ。自力で歩けるんだろうか。気になってスマートフォンで調べてみる。あった。

 女王蟻は巣の蟻の全ての母親であるが、蟻達が新しい巣に移る時、母親を連れていくかは任意である。もう卵を産まないと判断された女王蟻は蟻達に見捨てられ、巣に置き去りにされる。

 着信音がして、スマートフォンを落としかける。娘からだ。あわてて出る。

「もしもし?」
「母さん? さやかです」
「うん」
「台風、そっちどう?」
「まだ。今夜だって。そっちは?」
「こっちも。父さんは?」
「……相変わらず」
「そう」
「うん」
「気をつけてね」
「そっちも」
 電話が切れた。

 娘は、アパートの5階だ。きっと心配ないだろう。
「おおい」
 と声がして、あわてて風呂場の窓をしめる。早く夕食にしないと、夫がまた怒鳴る。自立したあの子が、遠くに住んだのは、賢い選択だ。

 蟻達の母親は、運んでもらえるだろうかと、ふと思う。

 嵐が、ひどくないといい。

ショートショート No.473

課題「文体の舵をとれ」第4章④問一

「恐れを知らぬ波乗りねこ」
for Steering the Craft

introduction
エッセイ ガラスの浮き球

1−①ー1 名古屋の化け猫
1−①ー2 この場所
2−② 18時
3ー③−1壁の向こう
3−③ー2 時間切れ
3−③ー追加1 大須の化け猫(名古屋の化け猫、方言抜き)
4ー④−1 走って走って
4ー④ー2 蟻の母

※アーシュラ・K・ル=グウィンの「文体の舵をとれ」をもとに、ショートショートの文体練習をしています。