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正しい日本語とは何なのか?

昨晩息子と話していると、
息子がおもむろにランドセルから
採点されたテストを取り出した。

「パパ、今回はケアレスミスが目立って
何個か三角をもらってしもたんや」

別に私は息子のテストの点数を責めたりは
しないタイプなのだが、
息子的には満点でない理由を私に
伝えておきたかったらしい。

何だかこういうところは自分に似ているなと
思いながら
息子の話を聞いていると、
息子はどこが間違っていたのかを説明し始めた。

ある意味これは息子にとって復習の機会になるので
私はそれをフムフムと言いながら聞いていたのだが
国語のテストで三角をもらった場所を見て
私の頭の中に疑問が生じた。

その問題は自分のクラスの学級新聞ならば
どんな記事を載せたいと思うか、
内容とその理由を書けというもの。

実質答えがあってないような問題である。

そこに息子は自分なりの答えを書いたのだが、
その中で「食う」という書き方をしてしまったのを
先生に三角をつけられており、
消しゴムで「食べる」と修正されていた。

確かに言わんとすることはわからないではない。

「食う」という言葉はあまり丁寧ではないので、
文章として書く分には望ましい表現ではないと
言えなくないだろう。

だが、その表現の仕方は本人の自由ではないだろうか。

もしかすると「食う」と「食べる」では
厳密にいうと意味が違うのではないか、
そう思い調べてみると面白いことが分かった。

実は元々日本語では「食う」の方が一般的な
言葉であり、「食べる」はそれをへりくだった表現にした
いわゆる謙譲語的な使い方にしたものだったのだ。

”歳を食う” ”気に食わない” ”蓼食う虫も好き好き”
これらの慣用句には当たり前のように「食う」が
使われているのはまさに「食う」の方が
一般的だったからである。

だが、今では元来謙譲語的であった「食べる」が
一般的になったことで、「食う」が俗語的な
少し上品ではない表現になってしまったようである。

私がこの三角に対して持った違和感は
まさにこれだったのか。

そう思い納得しかけたのだが、
先ほど私がこの回答に対して持った疑問は
何一つ解決していないことに気が付いた。

なぜ文書にするときには丁寧な表現でないと
いけないのか。
この疑問に対する答えにはなっていないのである。

義務教育で教える国語は
「正しい日本語」であるべきである。
つまり、この前提に立つならば
「正しい日本語=丁寧な日本語」でなくてはならない。

だが、言葉は日々変化していくものだと
私は思っている。

先ほど書いたようにかつての日本ならば
「食う」は一般的な用法だったので、
息子の書いた答案は正しい日本語として
三角をもらうことはなかったであろう。

高校時代にクラスの女子が「めっちゃゴメン」と
友達に言っているのを聞いた国語教師の担任が
「めっちゃ」というのは前向きな言葉にしか
つかないと思ってたのに、今では「ゴメン」という
ネガティブな言葉にも使うようになったのかと
関心していたことが印象に残っている。

それぐらい短い期間で言葉は変化をしているのだ。

結局この記事で私は何が言いたかったかというと
「正しい日本語」というのは常に変化し続けるので
私達自身が常にアップデートし続けないと
いけないと言うことである。

ちなみに今日はこの内容で記事を書こうと決めて
フォローしている方々の記事を読んでいると
日本語教師をされているうのっちさんの記事が
偶然「正しい日本語」について書かれていた。

こんな偶然もあるものなのかと驚きながら
記事を拝読したのだが、
この記事を読んでいてに私達親が使う言葉が
子供にとって「正しい日本語」の基準に
なってしまっているのではないかと感じた。

もしかすると私が何気なく「食うか?」などと
息子に言ってしまっているのが
息子の答案に出ているのではないか。
何だか私自身も反省させられる気がした
水曜日の夜であった。

ちなみに、冷蔵庫に先日買ってきた
パイナップルが入っていたので、
子供たちに食べるかどうかを聞こうと思ったが
「パイナップルあるけど、食べる?」と
私が言い方を意識したのは言うまでもない。

このパイナップルでも面白い気づきがあったので
その話はまた後日書こうと思う。

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