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【小説】死ンダ君モ愛オシイ 第5話

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広川ひろかわさん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
 エレベーターから降りて、オフィスまでの廊下を歩いていると、木橋きはし美沙みさが少し恥ずかしそうに挨拶をしてきた。その顔を見て、例の差し入れのことを思い出す。すっかり忘れていた。あんな魚の頭を放置していたら悪臭が漂うだろうに、今朝まで特に気にならなかった。気味が悪くて冷蔵庫にも入れていない。魚の頭を処分して、マスカットだけでも冷蔵庫に入れておくべきだったか? いや、でも生臭さは洗っても消えなさそうだし、何より食べる気にはなれない。木橋には悪いが、家に帰ったらまとめて処分しよう。

 オフィスの横の自販機で缶コーヒーを買う。ブラックのボトル缶。カフェでは夏でもホットのエスプレッソ、缶なら冬でもアイス派だ。但し、屋内に限る。

「昨日はなんか、ごめんな」
 背後から声を掛けられ、振り向くと佐倉さくらが大きなファイルを抱え、気まずそうに立っていた。昨夜のことを言っているのだろう。たしかに少々飲み過ぎだったようだが、特に迷惑は掛けられていない。
「いや、楽しかったよ」
「え、そうか?」
 佐倉は意外そうな顔をして一矢いちやをじろじろと見ていたが、すぐに安心したように微笑んだ。
「まあ、ならよかったよ。また行こうぜ。奈津美なつみも久しぶりにお前に会えて、嬉しそうだった」
「ああ、そうだな」
 佐倉に背を向け、オフィスに入ろうとすると、再び呼び止められた。
「あ、広川」
 駆け寄ってくる佐倉と、すれ違いざまに「おはようございます」と挨拶をしていく同僚ふたり。邪魔になるので、一矢は端に避けて佐倉に向き合う。
「あのさ、今週中に静流しずるを紹介したいと思うんだけど、お前の予定は?」
「静流って?」
「昨日話しただろ。カウンセラーの大原おおはら静流」
「ああ……」
 すっかり忘れていた。そんな話をした気もする。改めて「紹介」なんて言われると、やはり気が進まない。佐倉は一矢が「どこかおかしい」と思っているから、カウンセラーの友達を紹介しようとしているわけで、別にどこもおかしくなどないし、断れるものなら断りたい。酒の席でなんだか言いくるめられてしまったようなところもあるが……まあ、それでも一旦は承諾してしまったのだから仕方ないか。
「別にいつでもいいけど……」
「なんだよ、先週までいつ誘っても断ってきたくせに」
「え、断っていいのか? ぜひ断らせていただきたいのだが」
「あー嘘、嘘! 冗談だって。じゃあ、あいつに連絡しておくわ」
 佐倉はポン、と一矢の肩を叩いて、廊下の方へ去っていった。「おはよう」と誰かに声をかけているのが遠くに聞こえる。あいつは誰に対しても面倒見がよく、親切で、この会社が上手くいっているのもあいつの人望によるものだ。お節介が煩わしくなる時もあるが、今はもう、佐倉はそういう奴なのだと半ば諦めている。他人にあまり関心を持てない自分とは正反対な性格で、理解できないところが多い。なのになぜこんなに長く付き合いが続いているのか謎だ。恐らく、理解はできなくても相性は悪くないのだろう。

「あの……広川さん」
 一矢が送られてきたロゴのデザインをチェックしていると、木橋がおずおずと声を掛けてきた。ちらっと振り向き返事だけすると、一矢は画面に目を戻した。どうも、このデザイン、気になるな……前にどこかで見た気が……。
「これ、そこに落ちていたんですけど、広川さんのですか?」
「え?」
 仕方なく、木橋の方に目をると、右手になにかを乗せている。落とし物? なんだこれ。よく見えないので顔を近づけると、そいつと目が合った。咄嗟とっさに変な声をあげてけ反る一矢。木橋が少し驚いて不思議そうに一矢を見ている。その手の上にはドロドロになった肉まんのような塊があり、大きな目玉がこちらを睨んでいた。
「え……? これが落ちてたの?」
「あ、はい! 広川さんのかと思ったんですけど、違いましたか……すみません」
「いや……違うっていうか……え、どういうこと?」
「え?」
 困惑と動揺を隠せない一矢に、木橋は首を傾げる。木橋の反応を見て、自分の見間違いなのかと自信がなくなった一矢は、もう一度木橋の手の上のものを見てみた。間違いない、ほら! 瞬きしてる! これが落とし物? しかも俺のだと思ったって? 揶揄からかってんのか? それとも、珍しいものが手に入ったから遠回しに自慢しに来たとか?
「……いや、俺のではない。他をあたってくれ」
 はあ……忙しいのに変なものを見せられて気が散ってしまった。一矢は気を取り直して、画面に向かう。そうだ、このデザインが気になっていたんだった。急ぎの仕事なのに。
「あっ……お邪魔してすみませんでした」
 木橋がぺこりと頭を下げた気配を感じながら、一矢は画面を睨んでいた。全てのチェックを午前中に終えなければならないのだ。このデザイン、どっかで見たと思うんだけど。どこで見たんだっけなぁ……。データを纏めてあるフォルダを開く。
「あ、ごめん、それ俺の! ありがとう、木橋さん」
「は?」
 遠くで聞こえた佐倉の声に、思わず振り向いてしまった。さっきのあれが? 佐倉のだったのか……。落とすか? あんなものを。そして拾うか? まあ、一応拾うか。そして落とし主を探すかもしれない。よかったな、見つかって。……はあ。今のは忘れよう。一矢は再びPCの画面に目を戻す。しかしあれは……なんだったのだろう。目があるドロドロの肉まん……食べ物なのか生き物なのか。あー……集中できない。

 午前の仕事があまり進まず、一矢はビルの一階にあるコンビニでサンドイッチと野菜ジュースを買って、昼食をささっと済ませることにした。コンビニの袋を持ってエレベーターを上がってくると、廊下で再び木橋に会った。またこいつか。「お疲れ様です」と頭を下げられたので、「お疲れ」と声を掛ける。すれ違ってから、「またこいつか」っていうのは酷かったな、と少し反省をした。なにも悪いことはされていない。それどころか、親切に落とし物を届けてくれようとしただけだ。そう思い直したのだが――。

「あの……広川さん」
「……はい」
 自分の席でサンドイッチを頬張っていたら、おずおずとしたあの声。さすがに「またお前?」と思ってしまう。少し顔を赤らめて、恥ずかしそうに身を縮めている。
「お昼ごはん、それだけなんですか?」
「え? まあ、うん」
 手に持ったサンドイッチを眺めてそう答えながら、それを口に放り込む。もぐもぐしながら「それがなに?」と一矢は顔で訴えた。
「もしよかったら、あの……」
 一矢はハッとした。まさかなにかをくれる気だろうか。気持ちはありがたいが、こいつが持ってくるものは絶対まともじゃない。ましてや、昼食として受け取ってしまったら、ここで食べなければならなくなる。
「いや、大丈夫! ありがとう、大丈夫だから」
「え? ああ……そうですか、すみません」
 明らかに残念そうな木橋を見て、少し申し訳なく思った。「もしよかったら」の後を聞きもせず断ってしまった。胸が痛む。
「ああ、ごめんね。ちょっと、最近食欲なくて」
「あ、ああ! そうですよね、すみません。私、気が付かなくて……すみません」
「いやいや……」
 焦って何度も頭を下げる木橋に一矢は戸惑う。恐らく恋人を亡くしたせいで食欲がないのだと思わせてしまったのだろう。本当は食欲もあるし、そういうことを言いたかった訳ではなかったのだが、まあ、でも、その方が都合がいいか。
「なにか、お手伝いできることがあったら、いつでも言ってください。私にできること、そんなにないかもしれないけど……でも、お力になりたいので」
「ああ、ありがとう」
 いい子なんだよなぁ。変なものさえ持ってこなければ。……いや、でも魚マスカットの差し入れはともかく、さっきの目玉肉まんは佐倉の落とし物だったのか。よくわからなくなってきた。魚マスカットはたまたま実家から変なものが大量に送られてきただけかもしれないし、まだ決めつけるのはよくないかもしれない。一矢が微笑むと、木橋は顔を赤くして高速で頭を一度下げて、逃げるように去っていった。はあ。仕事するか。

「お前、まだ帰んないの?」
 佐倉の声に、顔を上げる。気づけば午後8時半を回っていた。
「ああ、そろそろ帰るよ」
 急に家の様子が心配になってきた。なにも起きていなければいいけれど。PCの開いていた画面を閉じて、電源を落とす。デスク周りを軽く片付ける一矢の隣で、帰り支度の済んでいる佐倉はスマホを眺めていた。当たり前のように一矢を待っているが、高校生じゃあるまいし、一緒に帰らなくてもいいだろうと思う。最近おかしいのは自分じゃなくて佐倉の方じゃないか? 変な落とし物してるし。
「なんだよ?」
 一矢がじろじろ見ていると、視線に気づき佐倉が振り向く。
「いや、帰ろうか」

 無言で歩いていても全然気まずくないのに、エレベーターだと妙に気まずいのはなぜだろう。今までもそうだっただろうか。いや、いつも佐倉がなにか喋っていた。そうか、この気まずさは佐倉が発しているのか。いつになったら、今まで通り自然に話せるようになるだろう。
 外に出て、駅に向かう道。歩いて10分もかからないのに、仲良く一緒に帰るなんてどうかしている。そんなことを考えながら隣の佐倉をちらっと見た瞬間、背後で「わん」と声が聞こえた。振り向くと、豚くらいの大きさのコオロギが、リードを付けて散歩していた。
「やっば!」
 思わず声を上げ、佐倉の腕を掴んで走る。前にもこんなことがあったような。佐倉は走りながら、不審そうに背後を振り向いている。
「見るな!」
「ええ……?」

 ここまで来れば大丈夫だろう。しかし、あんなものをペットにするなんて流石に趣味が悪すぎる。吐き気がしてきた。おえ。
「大丈夫か?」
 心配そうな佐倉の声。
「いや、流石にあれはやばいな」
「あれって?」
「ああ、見てないのか。よかった」
「え?」
「おえっ」
「おい……」
 佐倉が背中を優しくさする。なんとなく母親を思い出しながら数回嘔吐えずき、大きく深呼吸をしてから体を起こした。まだ佐倉は背中を摩っている。
「ああ、ごめん。大丈夫」
「ほんとかよ……」
 顔をしかめて、不安そうな顔をしている佐倉に「大丈夫」ともう一度言った。

「お前……気をつけて帰れよ」
 駅の改札を抜けてから、佐倉が振り向く。前にもこんなこと、言っていたな。
「お前もな」
 そう言ってから、妙な気分になった。どこに行くんだよって話だ。家に帰るだけなのに、なぜこんな……。まあ、しかし実際なにが起こるかわからないからな。佐倉も大変な思いをしているのだろう。

 遅くなってしまったから、夕飯は牛丼をテイクアウトした。マンションのロビーを抜けると、エレベーターの無事を確認してから、乗り込む。体をねじ込んでくる仮面ライダーも、今日はいなかった。鍵を回して玄関のドアを開け、中の様子をうかがうと、驚くほど静かだった。安堵の溜息をつき、明かりをつけて「ただいま」と呟く。

「オカエリ」

 荷物を置き、手を洗って、とりあえず飯……の前にしおりさんの様子を見る。ただ美しいだけの、普通の金魚だった。朝、餌をやったから大丈夫だろう。テーブルに置いたビニールの袋から、牛丼と、小さなパックを三つ取り出す。ひとつはサラダ。もうひとつはとろろ。そして、生卵。トッピングのとろろと卵は、加えるタイミングが大事だ。まずは普通にそのまま牛丼を頬張る。昼食を少ししか食べなかったから、思った以上に腹が減っていた。大きく二口程食べてから、とろろを加える。それも二口くらい食べてから、卵を投入だ。どろどろに混ぜてやる。ずるずるっと、もう牛丼を食べているとは思えない音を立ててすすってから、この絶品で下品な食べ方も、アズサから教わったのだと思い出していた。

 食事を終え、容器を軽く洗ってからゴミ箱に捨てる。そして思い出した。魚マスカット。臭いは、しない。キッチンの隅の足元に置いてある、あの袋。どうしよう、見るのが怖い。そもそも、どうやって処分すればいいのだろう。ああ、普通に生ゴミか。袋に纏めてぶち込んで、きつく縛ればいいのだ。マスクをした方がいいかもしれない。ビニールの手袋も一応するか。手に付着したら、臭いが取れなくなりそうだ。トイレも一応行っておこう。コンタクトも外した方がいいかも。いや、その前に着替えだろ。
 諸々の準備を終え、恐る恐る紙袋に近寄り、覗いてみる。陰になって、よく見えない。そろそろと屈んでみると、袋の中から黒い手が飛び出した。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 叫んで尻餅をつき、後ずさる。倒れた紙袋から黒い手がこちらに伸びてくる。慌てて一矢はゴミ袋を掴み、動いている手に無理やり被せた。はぁはぁと息を切らしながら、必死にゴミ袋の中に黒い手を押し込む。動いているのがなんとも気持ち悪く、泣きそうになりながら震える手でなんとかきつく縛って、放り投げた。床でゴミ袋がびたびたと動いている。気持ち悪い。おえ。きっも! なんだよこれ! きも過ぎだろ! おえっ。魚マスカット進化すんなよ! 動くのは反則だろ! どうすればいい? 叩けば大人しくなるのか? なにか叩くもの……畜生!
 一矢はスリッパを履いた足で、動いているゴミ袋を踏みつけた。生き物を踏みつけているような嫌な感触にぞっとしながら、何度も踏みつける。声にならない叫びをあげながら、何度も踏みつけた。ゴミ袋の中身も、なにかを叫んでいるようだった。聞きたくないし、見たくもないから、耳を塞ぎ、目をきつく閉じて、何度も踏みつけた。

 何者かの叫びが響く冷たい部屋に、甘い、黒砂糖のような香りが漂っていた。




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