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「HSPであること」に固執する人はHSPではないのか

HSPについて色々調べている中で、下記の記事を読み、ちょっと表現に違和感があるというか、ちょっと引っかかった部分があったので、吐き出させてください。

一部引用して反論しますが、記事の内容自体を否定・中傷する意図は全くありません。

この記事の前半は、「内向型人間だからHSP」など、ありがちな誤解について語ったものです。その点に関しては全く同じ意見です。ただ、後半の言い回しに少し引っかかる部分がありました。

それをあたかも自分の価値を高めてくれる肩書きのように利用しては優越感に浸ろうとするよりも、その能力を活かすとか、自分で自分を救ってあげる努力をすることの方が、よほど重要と私は思います。

はじめ、HSPだと気付いてすぐのとき、この文を読んで「あ、私ちょっと優越感に浸ろうとしてるかもしれない」と自らを省みました。

優越感に浸ろうとしている理由は、すぐわかりました。
過去、理解されなかったことに対する怒りとして、どす黒い感情が出てきていたから。

あまりにも理解されなかった苦しみと自分に対する抑圧が強すぎて、知らず知らず憎しみを育てていたんです。

でも、その憎しみ自体は悪いことではなく、怒りは誰にでもある感情だから、全然いいと思っています。

ただ、その怒りを消化しないと、いつまでも苦しいままです。まずは自分で自分を認めてあげることが大事かなと思います。

先程の記述に関して私が引っかかった部分は「それをあたかも自分の価値を高めてくれる肩書きのように利用しては優越感に浸ろうとするよりも」というところ。

優越感に浸ろうとすること自体は悪いことではなく、浸っている自分に気づくことが大事。そこには否定も肯定もありません。

私は「よりも」という言葉に少し否定のニュアンスが含まれていると感じ、引っかかってしまいました。

ですので私の言葉で言い換えるならば、優越感に浸ろうとする自分に気づけてから初めて「その能力を活かすとか、自分で自分を救ってあげる努力」が出来るようになるのかなと思いました。

決して、優越感に浸ろうとすること自体は悪いことじゃないと思います。
それで他者を無自覚に攻撃するのは、あまりよくないだけで。

「いや別にHSPということに関して優越感とか感じない」って人もいると思います。そういう方はもうすでに、自分を活かしたり、救うことができているか、あるいはとても優しいんだと思います。

そして、冒頭の記事に戻りますが、もうひとつ私が一番引っかかったのはこの一文。

それから、もしもご自分がHSPじゃなくなることにがっかりされるのであれば、それ自体がHSPじゃないという証拠なんですよ。

「HSPじゃなくなることにがっかりする人=HSPではない」という言葉にすごく違和感を覚えました。

なお私は「HSPじゃなくなることにがっかりする人」について「HSPであることにこだわる・固執している人」という解釈をしました。この記事の筆者ケイさんが異なる意図で書かれていた場合は申し訳ありません。

私が何故違和感を覚えたかというと私自身「HSPであること」にはじめは少しこだわっていたからです。

以前、心の病、病名にとらわれることのあやうさでも綴ったとおり、私自身、あまりに自己肯定感が低く、どこかに所属したり、自分をラベリングすることで安心を得ようとする弱さがありました。

ですので、私のように自己肯定感が低い人は、自信のなさ故に本当にHSPであったとしても、自分が苦しいことを認めてよいかわからず、HSPであることに縋りたくなる人もいると思うんですよね。

HSPの人は「共感力が高いから自分を客観視するのも上手い」という記述はそこかしこで見かけるのでおそらく程度の差はあれ本当だと思います。

ですが、逆に過度にストレスを感じると、HSPの共感力は機能が低下するともどこかで読みました。これは感覚器が鈍くなる、というわけではなく、感じていることに気づかなくなる・あるいは抑え込んでしまうということだと私は解釈しています。

少なくとも私の場合はそうでした。だから、原因不明のストレスに常に苛まれているのに、その原因がわからないという日々が長期間続いていました。

そういう人は、自分が「HSPであること」でしっくり来た場合、与えられたアイデンティティのように感じてしまうことは、無理もないと思うんです。

今は上記のように思える私も、下記の記事を読むまで「本当は自分はHSP/HSSじゃないのかもしれない」と心のどこかで疑っていました。

新しい場所に行く頻度は高い?低い?とか、刺激がないとすぐに飽きるタイプ?とか、本に載っている診断や文章へのぴったり感で結論づけていってください。自分について、まわりと自分の思う像が違っても、信じていいのは自分のほうですよ^^

この「信じていいのは自分のほう」だと言う言葉にどれだけ救われたことか。

程度の差は人それぞれで、本人が「辛い」と感じていることが一番大事だと、私も思います。っていうかそう思いたい。だって感じすぎて辛いんだもん。

「自分を信じていい」と他人から言われなければ、自分に許可が出せない人間もいるんですよ。と言いたい。

ですから、あえてはっきり反論させていただくなら「HSPじゃなくなることにがっかりする人はHSPではないという証拠にはならない」と思います。

で。もしも、自分がHSPであることにこだわったり、優越感を感じたり、平凡な人をディスったりファイティングポーズを取ってしまうなら、まずそうする自分を消化してあげた方がいいんじゃないかなと思います。

こだわることや、すがることがすべて悪いってわけじゃなくて、「こだわっている理由」を知ると見えるものがあると思う。

この、すぐ人にアドバイスしたくなるの自分の悪いくせだな〜〜〜って思うんですが、基本的にお節介焼きでウザがられる類の人間なので「なんか言ってるわ〜」くらいに流しといていただけると幸いです。

無秩序型愛着とHSP/HSS

さて少し話は変わるのですが、愛着障害・母子愛着という言葉はご存知でしょうか。

中でも、虐待を受けたり機能不全家族の元で育ったり、幼い頃に親が入れ替わる・離別するということを経験した人は「無秩序型愛着」と呼ばれる行動パターンを示すという研究があります。

私はおそらくこのパターンに当てはまると思っています。で、これがHSP/HSSと非常に重なる部分があるらしいんですね。先天的要因のHSP/HSSと、無秩序型愛着は、実はある点から見ると似たような心の動きを示すそうです。

ただし、無秩序型愛着とされる人は様々な神経症等を発症するのに対して、先天的要因としてHSP/HSSと思しき人は必ずしも全員が神経症になる訳ではない。

詳しいことは以下の記事を読んでいただきたい(すごく長いけどめちゃくちゃ参考になったので気になる方はぜひ)。

ただ、結局のところ、自分の脳がどのような形をしているか調べない限り自分を苦しめている(いた)ものが、どちらなのかはわからないと思います。

診断基準や他者の体験談を読んで自分が「そうである」と自覚するしかない。

ただ、私自身は、自分がどちらであるのか、どちらでもあるのか、あるいはどちらでもないのか。もはや「どうでもいい」とさえ思っています。

ここでいう「どうでもいい」は投げやりではなくポジティブなものです。

私にとって重要なのは、HSP/HSSという概念を知ったことで自分が今まで苦しかった原因について「病ではない」「特性であり変えることのできないもの」と認めるが出来たことでした。

それによって自己否定のループから(ほぼ)解放された今、HSPにとらわれているつもりはないです。

最近、口を開けばHSP/HSSの話ばっかりしている

何故こんなことを書いたのかというと、非常に情けないことに、自分は「HSP/HSSに固執してない」ということを訴えたかっただけなのかもしれません。

ここまで読んでくれた方には申し訳ないです。
ですが、もう少しお付き合いいただけると幸いです。

実は、うちは私だけでなく旦那もHSPだということがわかりました。

ですので、私はお互いの違和感の正体がわかったことに喜ぶあまり、テンション上がりすぎて、旦那には口を開けば「HSPあるある」について話していました。

それが旦那からは「狂信的」にも見える、と言われたのもあって、思わずカッとなってしまったのもあります。

確かに多弁的で、少し「躁状態」っぽくも見えるかもしれないです。実際今、感覚が鋭敏になりすぎて、意識の手綱を握れていない自覚はあります。神経が高ぶり、HSSの側面も強く出てきているように思います。

でも、嘘のように思われるかもしれませんが、意識のおよそ2割ほどは常に冷静で、自分の感情の流れを俯瞰しているんです。

私は自分に「HSP/HSS」というレッテル貼りがしたい訳でも、覚えたての言葉を使うのが楽しい訳でもありません。

ただあまりにも、当てはまる事が多すぎて、答えあわせの様で楽しいのと、自分を受け入れられるきっかけができたことがただただ純粋に嬉しいだけなんです。要は浮かれているんだと思います。

「お母さん見て!聞いて!私こんなんだったよ!」っていうのをやってる子供みたいな状態ですね。子供の頃できなかったからね…。

私にとってのHSPは、今までの疑問を解決するきっかけで、HSPが絶対的に優位だとかそういうことを言うつもりは毛頭ないです。

ただ、これまで他者からの不理解に悩まされ、理不尽な気持ちを味わって来た身としては、無神経な人と関わらない・自分が無神経に人を傷つけないための防衛手段として役立てたい。

あるいは同じ悩みを持つ仲間を探したり、これからの人生を歩むにあたっての助けとして役立てたいとは思います。

それは、固執しているとは違う、と言えると思います。

っていうか「HSP」という言葉をまだ知ってから一週間も経ってないんですよ。対して自分を押さえつけて否定し続けたのは25年以上。少しくらい浮かれたっていいじゃないかと。

私がHSPだろうとなかろうと、私以外の何者でもなく、私が敏感に感じ取っている事は、私にとっては紛れもない事実なのだし。

それは誰に否定されても私だけが肯定する宝物のような事実です。

でもそう思えるようになったのは、「自分の感覚を信じていい」と言ってくれた人や、ブログ記事に出会えたから。私一人では、与えられた価値観に因われてしまい、そう思えなかったと思う。

っていうか別に、自覚があるなら優越感に浸っても良いと思う。

今まで虐げられてきたり、劣等感に苛まれていたならなおさら。
もっと自分すごい!!私は価値がある!!って褒めてあげればいいと思うの。そうすることで前に進める事もあると思うから。

だからこの記事における私の結論は、もう一回言うけど「「HSPであること」に固執してる人はHSPではないのか」はNOです!!!

でも固執しているだけだといいことはあんまりないから、ゆくゆくはいい感じに消化していければいいよね。


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