人の感情を揺さぶってしまう人
普通に生きてるだけで人の感情を揺さぶる人というのはいる。
かくいう私もそうなのかもしれない、と最近思い始めてる。
人間関係がスムーズに行かない事の方が多い。
嫌われる人からはとことん嫌われる。
反対に、好かれる人からはすごく好かれる。
8:2の法則というのがある。
私の場合、8割に嫌われる場所があれば、残り2割は味方になってくれる。反対に、8割の人はすごく信頼してくれるけど、残り2割には目の敵にされる……みたいな。
割合的には前者の方が多かった。そう言うと信じてもらえないんだけど、ほんとうにそうだった。
最近はリアルの人付き合いしてないからわかんねーっす。
なんていうか、何かにつけて振り幅がデカい。
以前こんな記事を書いた。
要約すると、「本当にいいものとは、好き嫌いがハッキリと分かれるものなんだよ」という言葉にものすごく衝撃を受けたという話。
この言葉を聞いた時の私はまだ小6だったけど、この胡散臭いおっさんの放った言葉に強く強く憧れた。
そんなふうに生きられたらかっこいいな、って思った。もちろん、誰からも好かれたい、愛されたい、嫌われるのが怖いって葛藤もある。
だから、誰しもがこの言葉にうなずくわけではないと思うんだよね。
この言葉において、いいもの、という評価基準が個人の好悪である以上は、主観で語るしかない。
そうなると「本当にいいもの」の定義って人それぞれだ。
好き嫌いがはっきり分かれるほどあくの強いものが好きな人もいれば、大衆的なものが好きな人もいるだろうしね。
人間関係でも、好きな人とだけ楽しくやれればいいって人もいれば、みんなで仲良くしたいって人もいるだろう。
けど、少なくとも私の中では、この言葉を初めて聞いた20年近く前から、この定義はあまり揺らがない。
「好き嫌いが分かれるもの」が「いいもの」と評価されるかどうかはさておき、「強烈な個性と才能を秘めたもの」なことは確かだとは思うから。そして私はそういうものに魅力を感じる傾向が強い。
でも、過去を振り返ったときに、そもそも私が「好き嫌いがハッキリと分かれる」性質だったのか……?と、あるとき思ってしまった。
自意識過剰なような気もするけど……。
自分で自分が才能あると言いたいわけでなく、もっと平たい表現をするなら「手に余るもの」みたいな感じかな。
少なくとも、自分が「手に余る人間」であるのは確かな気がする。
どういうところが手に余るかというと、人の感情を刺激しやすい特性があるんじゃないかと薄々感じ始めてる。
こんな記事も書いたっけ。
私だけが特別と言いたいわけではなくてね。
「こいつなんか鼻につくな」
「この人なんか惹かれるな」
「なんかこの人に言われるとイライラする」
「なんかこの人の言うことは納得できる」
誰にとっても、そんな人っていると思う。
私にもいる。
これは外からの視点。
でも、視点をその人中心に変えたときに、その人の行動はさておき、人の感情を揺さぶってしまう、ってことはあると思うの。
そしてその割合もまた、人によって違うと思うのね。
良くも悪くも何やっても目立つというか、普通に生きてるだけなのに、やたら好かれたり、反対に嫌われたり。
その傾向が極端になれば「カリスマ」と呼ばれるような地位に付いたり、あるいは組織においては浮いてしまったりするのだと思う。
カリスマが色んな人から魅力的に映るのは、色んな人のポジティブな感情を動かすから。見たいものを見せてくれるから。
逆に動かすのがマイナスだったり、目を背けたい感情であれば、その人は嫌われたりするんじゃないかな。
カリスマであれ嫌われ者であれ、その人が何か動くことで、影響を与えるというのは、その人にそういう性質があるからなんだなと私は思う。
人類総発信者時代、個人の発言が重んじられるようになってきたとはいえ、まだまだネットでもメディアでも、重要なのは「何を言うか」より「誰が言うか」だ。身近な人間関係ならなおさら。
そして、手のひら返しって言葉があるように、人の感情は些細なきっかけで「反転」する。だから芸能人は、いいニュースも悪いニュースも盛り上がるでしょ。
評価は水モノだし、時代は移ろうもの。
カリスマも嫌われ者も、個人レベルにまで視点を落とせば、本質ってそんなに変わらないんじゃないかな。
「憎まれっ子世にはばかる」って言うじゃない。
だから、訳もなく嫌われる人、不遇な人も、その特性を上手く使えてないとか、時代や環境に合ってない、という可能性もあるんじゃないかなと思うよ。
輝かしい人生を送ってる人も、輝かしい光のせいで強い影をどこかに落としているだろうしね。
見えているものだけが全てじゃない。
芸能人まで行くとかなり極端な例だけど、生きづらさをかんじてる人の中にも、普通に生きてるだけなのに良くも悪くも人の感情を揺さぶってしまう、みたいな人はいると思う。
そして私も、自分にとって当たり前だと思ってたことがそうじゃなかったり、自然にやることで感情を揺さぶる事が多いみたいで。
まっすぐ社会に馴染めない、何かと嫌われる自分に嫌気が差して、地味に静かに波風立てず生きていきたいと切望した。
でもどうやらそんな風には生きられないらしいと最近わかってきた。
正直認めたくなかったし、今でもこんな自覚があるなんて言うのは恥ずかしい。心のどこかで「そんなことないだろ」と疑う自分もいる。
でも直感的にそんな気がしてしまうし、それを裏付ける出来事が数々起こる。良くも悪くも。
そういえば以前、身近な人から「お前は刃物みたいだ」とか「油断してると突然ゼロ距離で爆発する爆弾」とかいう物騒な喩えをされたことがある。(悪い意味ではない)
思わず笑ってしまったし「どんな人間だ!?」って思うけど、人に迷惑ばっかかけて生きてるし、救った人より傷つけた人のほうが多いんじゃないか。
どうせ影響を与えてしまうならせめて、いい影響を与えるために、自分の心を磨かなくっちゃな、と思うんだ。
刃物も爆弾も、どっちも人を傷つける危険なもの。でも同時に、人間の生活にはなくてはならないものだ。
刃物は、あらゆる用途に使用出来る。命を絶つことも道を切り開くこともできる。
爆弾も、人の暮らしを壊すが、人の手では壊せない固く大きな壁も壊す。空に上げれば花火だ。
どっちも使いこなせれば役に立つ。
使いこなせなきゃただのはた迷惑なやつなことには変わらないんだけど。笑
いやうん、なんでもいいんだけどさ。
結局何が言いたいかって言うと。
人って適材適所だなあとしみじみ思う。
というか、そう思わないとやってらんない。
過去の自分を肯定できない。
でもやっぱりさ。
ちゃんと自分を生かせれば、嫌われ者も魅力的な人に変わる可能性があるってことだと思うんだ。
もちろん、自分にとっての適材適所は何なのかは知る必要はあると思う。
それを求めて、考えて、知って、泣いて、選んで、動いて、楽しんで……そういうのが人生なのかなって思う。
かつて求めたものになれなかったとしても。
目指そうとした道程で得るものはあるはずだし、その葛藤を乗り越えた人はどんな人でも魅力的なはずだよ。
そうやって過去の自分をなんとか励ます言葉が、
誰かの心に届きますように。
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