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言語化できていても、気持ちの整理がついてるとは限らない

辛い経験を言語化するというのは、しんどい。とても労力のいることだ。

そういう理由もあるから、カウンセラーやセラピストはよく「話したくなかったら無理に話さなくていいですよ」と言うのだろう。そして、やはり「話すのが苦しいから」と、話さない選択をする人もいる。

だからこそ「辛い経験を言語化できるようになる」というのはある程度「乗り越えた」指標とされることもあるが、そうではないこともある。

それはたとえば、話し手が「辛い経験を言葉にすること」の負荷に鈍感……もとい、気付いていない、もしくはそういった感情に蓋をしている場合だ。

無防備に、無自覚に傷を晒していた

皆が皆、蓋をしているわけではないと思うが、少なくとも私の場合はそう。そして、割と冷静に分析できてしまうので、「この人はもう気持ちの整理がついているのだな」と判断されることが多く、そこに踏み込まれやすい。

つまり、まだ治っていない傷を、無防備に晒していることと同じだ。

しかし、私がそんなふうに傷を晒しているとはなかなか気付かれることはない。私の言葉から、何かしらを感じてくれる人はいるが、私の行為の本質に気づく人の数はそう多くはない。あるいは気付いていても言わないか。

そりゃそうだ。本人だってろくに気付いていないし、何のために晒すのかすら曖昧なまま、晒さずにはいられないから晒している。何か本質的なものを「隠す」ためにあえて晒しているのかもしれない。

この「晒しながら隠す」という行為が、生き抜くために身に着けた術であり、自分を守るためにずっとしてきたことなら、隠す行為が巧くなっても仕方ないと思う。

自らの傲慢さを知る

少し前までは「乗り越えられている」と思っていた。しかし、こうして文章を書き、人前に自分の言葉を晒し、返ってくる反応と、それによって起こる自身の感情の機微を観察、分析していると、やはり乗り越えられていないのだな、と感じることが多い。

私は、「私」を必死に納得させるために言葉を駆使しているだけで、その実心の奥底では満たされない「わたし」の感情をうまく解放してあげられてない、という状態だ。過去に書きながら解放できたものもあるが、そういう機会はなかなか少ない。

自己分析視点が強すぎて、自分の気持ちが置き去り。
大人になりすぎた思考と、子供のままの未熟な心。

そんなちぐはぐな人間が私だ。そのちぐはぐさを、少しずつ是正しようとしている。置き去りの気持ちを取りに行こうとしてる。

愛着の問題に気づいてから

仕事をやめた頃、愛着障害について知って「本来子供の頃に満たされるべきだったものが満たされないから今苦しいんだ」という事を理解した。そしてトラウマについて学び、過去を紐解き、どうすれば満たされるかを頭では理解できても、心では理解できていなかった。

この「どうすれば満たされるか」が心で理解出来る人、要するに言語化する必要のない人には、この感覚は多分わからないことなんだと思う。以前フォロワーさんのnoteでも見たけど、ここには「言語が違う」レベルの差があるように思う。

たとえば、何かをしようと思うとき、ある人には階段の一段分くらいの段差しかないように感じられることを、わたしは谷底から遠い空を見上げるようなふうに感じられることがある。

この辺りを理解されずに「ここまで上がってこい。たった一段じゃないか」と言われたのを「これはどう見ても一段じゃない。怖い」と思いながらも、「怖いけど、出来なかったら見捨てられる。見捨てられては生きていけないから、生きるためには一段のふりをするしかない」と、自分にとっての断崖絶壁を、他者が軽やかに超える一段かのように取り繕って(裏では必死に努力して)生きてきたのがこれまで。

そして、この「一段分」の重みを、発達の仕組みや身体の仕組みを理解することで、学ぼうとした。外側から「一段の高さとはどれくらいなのか」「何故、感じ方がそこまで違うのか」と必死に理解しようとした。誰に理解されなくとも、自分で理解すれば、報われる、満たされると信じてきた。

そのおかげで、理解は深くなった。

自己分析、俯瞰視点の弊害

自己分析、内省、俯瞰視点……そういうものは、こうしてnoteで書き始めるまで、意図して身につけるものだと知らなかった。

私のこの俯瞰視点、分析のルーツは、被害妄想を矯正するために中学の頃に認知行動療法をやったことと、思春期に芝居の世界に携わったことに起因する。認知行動療法は、事実に対する視点の切り替えを訓練する試みで、演者のスキルアップには自己の客観視と俯瞰が求められるからだ。

多角的な解釈、両側面での観測、予測。核心への到達。そして生来の、自分に対して都合の悪い解釈でも受け止めようとする生真面目さ。これのおかげで、愛着の問題に気づくこともできた。これは自分の利点だと思うけど、弊害もある。

落ちるのがひどくなると、ネガティヴ解釈が無限に広がって、どんどん落ちていくのだ。感情、感覚が伴わない言語化は、無限に裏返る……というより転がり続ける。そして自分にとって痛い真実を刻み込むことに抵抗がないということは、自分で自分を呪うという事でもある。

だから分析ができるからといってスムーズに行くわけではない。そして他人の事ではないから、自分が正しいという判断もなかなかしにくい。

過去の再演、現実での再選択

それで今は、分析、つまり「気づき」に基づいて、満たされない想いや過去の失敗、自分の感覚をあえて野放しにして、過去の失敗も成功も再演し、その結果を受け止めて行動を再選択する、ということをやっている。

縛られ、洗脳されていた過去の自分ではなく、ここまで生き抜いてきた今の自分がどう対処するのか。

だからこそ、タイトルの通り「言語化できているけど、気持ちの整理がついているとは限らない」。ここでいう気持ちというのは感情、本心。気持ちの整理とはすなわち、潜在意識と、顕在意識の一致。頭と心と体に筋が通っているということ。

潜在意識で求めているものを、自分でもわかっていない場合の方が多いから、そこを紐解いている段階。そして紐解いて気付いても、すぐに処理できるわけじゃないし、コントロールを失うこともある。

伝えなきゃいけない、という強迫観念

このnoteを書いた理由は、文字だけでは多分そういうのは伝わらないと思うから、書いておきたかった。でも、これは本当は伝えようとしなくてもいいはずだし、100%伝わるということはありえないということはわかっている。冒頭に書いたように傷を晒していることにほかならない。

けれど、そうせずにはいられなかった。

そもそもこの「全て伝えなきゃいけない」という強迫観念が、わたしの病理というか、何かしらのトラウマに起因しているんだろうな、とも思う。きっと、伝える力はもう十分備わっているのだろうね。

無理に伝えようとするときより、伝わらなくていいや、と思ったときのほうがいい文章書けることが多いから。

「伝えなきゃいけない」を「正確に伝えたい」に昇華して、他者との(あるいは自分との)距離感を保つ、不安を解消するというのがやはり課題。

その不安や恐怖を解消して、「こっちへおいで」と差し出された手を取って、自分の持っているものを駆使して、生きたい方が壁でも、足場を固めて、足を鍛えて、蹴り出して、軽やかに越えていけるようになりたい。

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