見出し画像

『ピルバグ』


【前書き】
 皆さん、こんにちは。早河遼です。
 本作は大学のサークルで出している部誌の2023年度5月号に掲載してもらった作品です。今回も他作品同様に改稿なしでの掲載となります。

 この作品を制作するに至ったきっかけは大学で開催されたクラブ体験会の時。うちのサークルでは執筆体験のようなものを実施してたのですが、終盤で1年生の数が減り暇になったので、他サークルの友人も呼んで遊び感覚で創作大会をしてました。この時に名目上で出していたお題が「ダンゴムシ」だったわけです。

 結局、時間の関係で完成に至らず、それでも未完成のまま放置するのも勿体ないと思い、今回部誌用に執筆することにしました。アイデアも出てなかったので、ちょうどいいかなぁと。

 本作に課した目標は「普遍的なストーリー構成」です。複雑な要素が無くそれでいて絶妙なリアリティを内包しているような、単純明快な物語を目指しました。結果的に展開が少し単調になりすぎた気がしますが……まあ要研究と言った感じかな。

 因みに余談ですが、冒頭の昔話は事実を基に書いています。
(決してダンゴムシが苦手なわけではない)



 これは、僕が幼稚園生だった頃の出来事。

 園庭の外側にある高原。その麓の辺りで鬼ごっこをしてた最中に、茂みの中から大きな石を見つけた。ごつごつとしていて、丸まった成猫程の大きさをした立派な石だった。

 それを見つけた僕は、鬼が近くにいないか確認してから座り込み、両手で掴んだ。触れた理由は特にない。強いて言うなら幼稚園生特有の好奇心が身体を動かしたからだろう。

 石は予想に反して簡単に持ち上がった。近くの草が微かに揺れて、底についた砂利が地面に落ちていく。ちょうど膝の辺りまで上がったところで何か気配を感じて、そっと下を覗き込んだ。

 その瞬間、背中の裏側を嫌な感覚がなぞった。

 石の下にいたのは、大量のダンゴムシだった。自分達を守るものが不意に無くなり、焦ったように砂の上をもぞもぞと動いていた。阿鼻叫喚な光景を目の当たりにしたことで全身に悪寒が駆け巡る。

 気色悪さに身体が硬直する中、ふと嫌な予感がした。
 もしや、この石の裏にもダンゴムシが?

 そう思った途端、瞬発的に石を投げ捨て、後ろに飛び退いた。遅れて染み込む嫌悪感。指の内側で蠢く妙な痺れが、意識を現実へと引き戻す。

 そうして幼い僕は、考えるより先にその場から逃げ出した。普段は特段虫が嫌いなわけではなく、むしろ園庭でアリを見つけたら指の上に乗せるぐらいの耐性があった。ゆえにあの光景を見て逃げ出した理由が、当時の自分には理解できなかった。

 この日を境に、僕はダンゴムシに対して一定の苦手意識を持つようになった。何の面白みのないつまらない話だろうけど、これはただの序章に過ぎない。

 本題に入ろう。これから僕が過去に遭遇した、奇妙な体験について語ることとしよう。
 


 僕が小学生だった頃の出来事だ。

 その日はいつものように友達と裏門を出て、アスファルトの敷かれた遊歩道を真っ直ぐと歩いていた。夕陽が木々の合間を通り抜け、行く先を赤く染める。それすらも目に入らないほど僕達は雑談に夢中になっていた。

 数メートル進んだ先には、鯨の遊具などが置かれた児童公園がある。普段から閑散とした園内はいつも寂しそうな表情をしており、基本的に大人はおろか子供が立ち入ることもほぼなかった。

 ただ一人だけ、例外を除いて。

「おい、見ろよ」

 公園の入口を通過しようとしたところで、友人の一人が園内のベンチを指差す。蔑みを含んだ目が橙色にギラリと瞬いた。

「ダンゴムシおじさんだ。相変わらずきたねぇ服着てんなぁ」

 そう囃し立てると、同調するように別の友人も笑う。

「うえ、ホントだ。くさそー。ダンゴムシウイルスがこっちまで飛んできそうだ!」

「おえっ、ばっちいばっちい! 早く逃げるぞぉ!」

 叫びながら走り去る二人の背中を、僕は慌てて追いかけた。チャリン、と背後で音が鳴った気がしたが、無視して走り続ける。

 その最中、僕は公園の柵の向こうに目を向けた。悲壮感溢れる猫背の黒い男が、地面の一点を凝視している。憐れみを感じつつも、その容姿からトラウマを刺激させられて不意に悪寒が走った。

 ダンゴムシおじさん──中年の男はそう勝手に渾名を付けられていた。

 ぼさぼさの黒髪に赤いチェックのシャツ。灰色の緩いズボンに、季節問わず羽織っている黒い大きめのジャンバー。いつも背中が曲がっている小太りな彼は、まさにダンゴムシそのものだった。

 彼の服装はいつも変わらない。その上、同じ時間帯、同じ姿勢で定位置に腰かけている。遠目から見ても解る不気味でみすぼらしい姿から、学校の男子の間ではよく笑いのネタに使われていた。

 そんな光景を見ても、僕はおじさんを笑えなかった。でも、恐怖めいた感情は自分の中にあった。

 その根底にはやはり、幼稚園の頃の嫌な思い出が関係していた。石を持ち上げた先でダンゴムシの群れがうようよと蠢く。あの気色悪さがどうもおじさんと結びついてしまい、肋骨の辺りで嫌な感触が行き来する。

 だから僕は、他の男子達とは違う理由であの男から逃げたかった。早くこの感触から解放されたかった。ここに留まっていたら、おじさんの服の中から虫の大群が押し寄せて来るかもしれない。そんな不安もあった。

 肺がひりつく中で、ふと気になってもう一度公園の方に目を向ける。ダンゴムシおじさんがちらとこちらを見た気がしたが、勘違いだろうと思うことにした。
 

 
 友達と別れた僕は、ランドセルの持ち手をぎゅっと握って自宅へと向かった、背の低い団地に囲まれたこの道は、周囲の薄暗さも相まって少し心細くなる。

 遊歩道の木々が葉を揺らし、上空では二羽のカラスが鳴いている。誰もいないはずなのに、やけに周囲から目線を感じて胸が騒めいた。歩を進める速度も段々と速くなっていく。

 やっとの思いで自宅に行き着き、早足で扉の前に向かう。明かりは付いていない。恐らく両親がまだ仕事から帰っていないのだろうと頭の片隅で考えた。

 取っ手に手をかけて引いてみるものの、案の定扉は開かない。仕方なく、僕はランドセルをお腹側に背負い直し、中を探った。しかし「うん?」と違和感を覚え、もう一度探り終えたところで血の気が引いていった。

 どっ、どっ、と心臓が脳を揺らす。家の鍵が見当たらない。どこかに落としてしまったのだ。

 慌てて今までの状況を整理する。少なくとも学校ではまだランドセルに付いていた。帰りの会の時に目に入ったから間違いない。となると、紛失したのは通学路のどこかか。

 そこまで思考を巡らせたところで、一つ記憶が蘇ってくる。公園から逃げている最中に、チャリン、と音が鳴ったこと。きっと公園の周辺で鍵を落としたのだ、とすぐに確信する。

 深く考えるより先に、僕は公園の方に向かって走り出す。道中にある街灯や近所の家の明かりは、未だに光を灯していなかった。

 息を切らす中、二つの事柄が脳裏を掠める。一つはダンゴムシおじさんのこと。もう一つは、帰りの会で先生が話していたことだ。

 ──最近、ここ周辺での不審者の目撃情報が多く寄せられているそうです。皆さんも出来るだけ、一人で夜に出歩くのは控えてくださいね。
 
 

 程なくして、僕は公園の前に到着した。そこまで時間は経っていないはずなのに、視界は真っ暗で枯れ葉一つ見分けるのにも苦労する。まるで知らぬうちに異世界に迷い込んだかのようだった。

 せめて光が出る物を持ってくれば良かった。そう後悔しながらも、悩む時間も惜しくて捜索を始める。当時はスマホとかいう文明の利器は無かったし、仮にあったとしても両親は持たせてくれなかったと思う。

 腰を屈めながら、枯れ葉の隙間に目を凝らす。カサッ、カサッ、と暗闇で静かに鳴る音が胸を締め付けてきた。途端に心細くなり、それでもこの恐怖から逃れたくて地面に意識を集中させる。

 一歩足を踏み込む度に、目線を細かく動かす。そうして些細な変化を見つけたら、すぐに手で枯れ葉の山を漁ってみた。しかし、お菓子の包み紙や煙草の吸い殻が湧いてくるだけで鍵らしき物は一つも見つからない。僅かにあった気力が段々と擦り減っていくのを感じる。

 公園の外を一周回ったところで、僕は顔を上げた。

 日が落ちて間もないあの空は、星の瞬きすら映し出してくれない。たまらなく心細くて、喉の奥が熱くなった。

 どうしよう。このままだと家に帰れない。

 いや、今日のうちは両親の帰りを待てばいいだろう。ただ、もし家の鍵を泥棒が拾っていたらどうしよう。自分の失態で家のお金を盗まれてしまう。その人が強盗だったら家族に危険が及ぶんじゃないか。そんな不安ばかりが胸の中に積もっていく。

 諦めたくない。だけどいくら探しても見つからない。

 母さんと父さんに謝るほかないか。そう落胆し、鼻を啜った。恐怖はいつの間にか不安にすり替わり、両肩に錘がのしかかる。

 ごめん、僕は本当に悪い子だ。

「どうしたん……ですか?」

 背後からかかる、隙間風の如く掠れた声。

 肩を震わせ、その場から飛び退いた。驚くあまり声も出せない。笛の音のような呼吸をしながら、声の主をまじまじと見つめた。

 チェックのシャツ。緩めのズボン。黒いジャンバー。見覚えのある服装と、自分が警戒するあの縮こまった姿が綺麗に合致して、嫌な寒気が全身に広がった。

 情報が混濁する頭の中で、先生の警告が木霊する。不審者。ダンゴムシおじさん。逃げなきゃ。何処かに連れて行かれる。頭では解ってるのに、何故か足が固まって動かない……!

 硬直し立ち尽くしていると、僕の目の前におじさんの手が迫ってきた。もう駄目だ。そう覚悟して目を瞑る。

 が、いつまで経っても何も起きない。

 お互いの呼吸と、微かな風の音だけが耳元を流れていくだけだった。

 不思議に思い、僕は目を開ける。接近してきた手はすぐ目の前で開かれていた。皺と土にまみれた、大きな手の平。その上で、何か小さな物体が銀色に光ったのを認識する。

 僕ははっと目を見開いた。一瞬だけ疑いかけたけど、間違いない。おじさんが差し出したのは、僕が紛失し探していた鍵そのものだった。

「やっぱり。その反応から察するに……君の物だったんだね」

 掠れた声で、おじさんはそう言った。不思議だった。砂嵐のように不明瞭な声音から、温かく優しい何かを感じ取ってしまう。

「帰ろうとした時、ずっと気になってたんだ。こんな暗い中、必死になって枯れ葉の中を漁ってたから……見つかって、良かったね」

 やけにのんびりとした口調だ。そんなどうでもいいことが引っかかり、僕は目線を上げた。

 おじさんは僕が思っていた以上に背が高く、そして柔らかく穏やかな表情をしていた。顎に伸びた無精髭でさえも、今では愛着が湧いてくる。そんな意識の変化が、自分のことながら不思議でならなかった。
 

 
 ──暗いから近くまで送ってあげるよ。

 その厚意に甘えることにした僕は、団地までの道をゆっくりと進んだ。街灯の明かりが順番に灯されるのを見て、胸にじんわりと温かいものが染み渡る。

 ふと横に目を向ける。並んで歩くおじさんは海老のように反っていた。上から照らす光には目を向けず、延々と地面のタイルを追っている。その眼差し、様相がどこか悲しげで思わず胸がぎゅっと痛んだ。

 この人は一体、何を抱え込んでいるんだろう。どうしていつも、そんな悲しい目をするんだろうか。

「おじさんはさ」

 そう問いかけた声が、夜の闇へと溶けていく。不安に思いながらも、どうにか喉から言葉を絞り出した。

「おじさんはさ、どうしていつもあの公園にいるの?」

「ああ……流石に不思議に思われるか。まあ、無理もないよね」

 自分に言い聞かせるように彼がそう呟くと、ふう、と重苦しい溜息をついた。緊張のせいか、胸の痛みや重圧感が一段と増した気がした。

「実はね。おじさん、独りぼっちなんだ。もともと妻や娘がいたんだけど、色々あって離れ離れになってしまって……途方に暮れてたんだ」

 独りぼっち。その言葉に思わず身構えてしまう。

 さっき鍵を探していた時。間違いなく僕は独りぼっちだったし、心細かった。誰にも相談できなくて、悪い人が襲ってきても誰からも護ってもらえない。孤独の苦痛というものを、あの時の僕は一身に受けていた。

 その苦痛を、このおじさんがずっと味わい続けているんだとしたら? 不安で仕方ない時間を、延々と繰り返しているんだとしたら? そう考えると、途端にさっきまでの自分の行いが恥ずかしく思えてくる。

「……大変、だったんですね」

「うん。まあ、自業自得なんだけどね」

 街灯にたかる蠅を見ながら、おじさんは頷いた。

「本当ならおじさん、二人を護ってあげなきゃいけなかったんだ。たくさん働いて、たくさん稼いであげなきゃいけなかった。なんだけど……ボクはどうしようもなくバカだったから、護るどころか二人を傷つけてしまったんだ」

 一陣の風が、彼の縮れた髪を乱す。

「前にも子供が一人で泣いてた時があってね。ちょうど君ぐらいの歳の女の子で、助けてあげようとしたんだ。けど、家に送り返そうとしたらその子のお母さんが警察に通報して……女の子もグルだったみたいで、すぐ捕まったよ。それで釈放された時にはもう、妻も娘も仕事も全部無くなってたよ」

 服装は今よりマシだったのになあ──そうおじさんは自嘲した。

「それで当てもなく彷徨って、気づいたらここに辿り着いていたんだ。お金も無いから身だしなみを整える暇もなかったなあ。……君たちには怖い思いをさせてしまったね」

「えっ、それって……」

「ひひ、さあどうだろうね。まあ、たまたま聞こえちゃっただけだから、気にする必要はないよ」

 気まずくなった僕は、つい目線を落としてしまう。

 公園からしばらく歩き、やがて団地の駐車場へと辿り着いた。歩道では青い自販機が佇んでおり、ふと上げた両目を容赦なく眩ませてくる。

「せっかくだし、何か買ってあげるよ」

 おじさんは懐から財布を取り出すと、僕の返答を待たずに小銭を入れた。つまらない昔話に付き合ってくれたお礼だと思ってくれ──そう付け加えられると逆に断りにくくなり、渋々ココアを注文する。

 間もなく、ガタン、と大きな音が二度響き渡る。おじさんから受け取った缶は絶妙な温度で、手の神経まで深く染み渡るほどだった。

「あれ? おじさん……」

 僕が問いかけると、おじさんは缶コーヒーの封を開けながら首を傾げる。

「お金ないんじゃ……なかったっけ?」

「うん? ああ、それは気にしないでよ」

 そう答えて、彼は夜空へと向かう湯気を眺める。

「実はおじさん、もうおしまいにしようと思うんだ。いつまでも公園のベンチで現実逃避する日常なんて」

「えっ?」

 口に近づけようとした缶が、止まった。
 どくん、と心臓が高く跳ね上がる。

「それって……」

「まあ要するに、いつまでも過去に縋るのはやめようってことさ。そんなことしても周りの人に気味悪がられるだけだから。……こんな人生を辞めるためなら、ココア一つぐらいタダみたいなものだよ」

 恐る恐る、おじさんの顔を覗き込む。

 覗き込んで、思わず絶句してしまった。

 白の混じる縮れた髪。その影に隠れた両目が、どこまでも深い闇の色をしていた。触れた途端に引きずり込まれそうで、それでも奥に本当の想いが隠れてるのではと希望を持ってしまう、深い暗黒だった。

 ああ、そうか──この時ようやく気づいた。
 この人は多分、他人の闇を吸収してあげてるんだ。

 昔、女の子とその母親に嵌められた時も。奥さんと娘さんに家出された時も。僕やクラスメイトが「ダンゴムシおじさんだ」と冷やかした時も。おじさんは決して相手を咎めることをしなかった。むしろ、自業自得だと自分のことを卑下しているんだ、と。

 ぎゅっと、両手で缶を握った。手の平に広がる痛いぐらいの熱も、もはや自分への罰として受け入れた。

 こんなところで終わりにしないでほしい。おじさんの人生は、こんな簡単に終わるべきものじゃない。

 だって、おじさんは──。

「やめたいなんて、言わないでください」

 思わず口から漏れた言葉に、おじさんの驚くような表情が向けられた。

「終わりにしたいだなんて、言わないでください。悲しくなるじゃないですか。少なくとも僕は、こんなところで終わってほしくないです。いや、終わるべきじゃないです。だって──」

 詰まりかけた言葉を、何とか口にした。

「だって、おじさんは誰よりも優しいんですから」

 そうだ、おじさんは優しすぎるのだ。

 つい夕方まで自らを非難していた子供に優しくする。子供に騙された苦い記憶があるはずなのに、悔いもせず自分から首を突っ込んでくる。

 初めて話して間もなかった自分でも分かる。罠にかかっても、罠にかかったと思わないような、馬鹿がつく程のお人好し。

 それは間違いなく彼の美点だ。だけど、自分を傷つけてまですることじゃない。だから──。

「だから、もっと自分を大事にしてあげてください」

 絞り出すように、僕は言った。それでも自分がしてきたことの罪悪感に耐え切れず、缶のタブへと目を逸らしてしまう。

 そうして沈黙が続き、喉が詰まる感触をココアで流し込もうとしたその時。すぐ横から、いひひひ、と引き笑いが聞こえてきた。

「……そんなこと言われるのは初めてだ」

 一段と柔らかくなった声音にはっとして、僕は振り返る。暗闇に満ちたおじさんの目に、僅かながら光が灯されていた。

「心配かけちゃってごめんね。でも安心してほしい。おじさんは決して死にたいなんて言ってるわけじゃない。過去の思い出に甘えるのはもう辞めよう、そう言いたかったんだ」

「それって、つまり?」

「まあ、自殺するにしてもそんな勇気、おじさんには無いしね。ちゃんと故郷に帰って新しい仕事を見つける。子供にここまで言われたんだから、実行してみせないと」

 どうやら僕は、どこかで勘違いしていたらしい。そう実感した途端、みるみる顔が熱くなり、また俯いてしまう。強く両手で握った缶は、もうだいぶ冷めてきていた。

「でも、嬉しかったよ。昔、辛かった時に娘が応援してくれたみたいで……元気出た」

 カラン、とコーヒーの缶が自販機横のゴミ箱に捨てられる。それがお別れの合図だと自覚したのは、ココアの最後の一口を飲み干した後だった。

「今からもう町を出るよ。君と話せて本当に良かった。今度はもう少し綺麗な格好で会えたらいいね」

 それじゃあ──そう言い残して、おじさんは踵を返した。相変わらず反った背中からは、もう悲壮感など消え失せていた。

 ジャンバーの中には、きっと虫の群れではなく慈愛の種が詰まっているのだろう。後ろ姿を見つめながら僕は勝手に妄想した。

 
 
 翌朝。いつもなら母に叩き起こされる中、その日は何故か自力で起きられた。

 目覚めが良く、気怠さもまるで感じない。うんと伸びをし、居間へと足を運んだ。コーンスープの甘く香ばしい匂いが鼻孔をくすぐってくる。

 おぼろげな頭の中で、昨晩のことを思い出す。両親の帰りが普段より遅かったのもあって、特に咎められることはなかった。勿論おじさんのことも、鍵を落としたことも二人には話していない。これは内密にした方がいい。僕の中の冷静な部分がそう提案してきたからだ。

「あら珍しい。今日は早いのね」

 席に座り、トーストを齧ってると母が意外そうに声をかけてきた。咀嚼しながら頷くと「毎日早く起きてくれれば助かるのに」と悪態をつかれる。

 僕の向かい側に座り、母はカフェラテの入ったカップに口を付ける。

「あ、そうそう。さっき隣の家と話してたんだけどね」

 耳を傾けながら、コーンスープをすくう。こう話を切り出す時は大体長くなる。適当に聞き流すか、なんて頭の片隅で考えた。

 だから、咄嗟に反応できなかった。母の口から出る話題があまりにも想定外だったから、上手く受け止め切れなかった。

 一瞬だけ聞き間違いかと思った。全てを理解し切った後も、夢を見ているのか、母が嘘をついてるのかと疑った。それぐらい受け入れがたくて、逃避したい内容だったのだ。

 もっと、周囲に気を配れば良かった。
 いや、もう避けられぬ事態だったのかもしれない。

 カップをテーブルに置いた母は、こう言った。

「近所で噂になってるんですって。昨日の夜、あなたぐらいの子が怪しいおじさんに連れて行かれそうになったって」

 まろやかな黄色い汁が、ぽちゃん、と落ちるのと同時に僕の意識は危うく遠ざかりそうになった。
 

 
 学校の授業を終えた僕は、あの児童公園へと急いで向かう。いるはずがない、そう頭で解っていても何もせずにはいられなかった。ここから今すぐ逃げて、と教えてあげたかった。

 混乱する脳内で母の言葉がくっきりと浮かび上がる。

 噂によると、不審者の姿を見かけたのは日没の後、駐車場沿いにある自動販売機の近くらしい。そこで小太りの男がジュースか何かを買い与え、子供に近づこうと図っていた。目撃者は二人の動向を観察し、念の為警察にも通報したのだという。

 木々に囲まれた遊歩道を駆け抜け、ようやく公園の入口へと足を踏み入れる。鯨や船の遊具が息切れの僕を出迎え、いつもと変わらない閑散とした光景が視界に広がった。ただ一つ、明確な違和感をはっきりと残して。

 いつも先客がいるはずのベンチに、おじさんはいなかった。

 存在していた名残を残すかのように黒い上着が背もたれにかかっただけで、他には何もない。代わりに演出好きな斜陽が、去った演者を強調しようとベンチに降り注いでいた。

 おじさんは無事、この町から出られただろうか。

 でも、ここにジャンバーを放置するとは考えにくい。誰かから逃げようとして、慌てて忘れて行ったのだろうか。もしかしたら、もう警察に捕まっているのかもしれない。

 僕のせいだ。あの時、おじさんと必要以上に関わったから、危険な目に遭わせてしまった。

 拳を握る力が強くなった。捕まって処罰を受けるべきなのは僕の方なのに。おじさんが話していた女の子とやってることが変わらない。僕は本当に最低な人間だ。

 そんな罪悪感から、数年経った今でも解放されることはない。あの日、臆病だと装いつつ涙が流さなかった卑劣な自分を、僕は一生許すことはないだろう。

 ただ、不可解な点があった。仮におじさんが捕まっているとしたら、もっと大々的に取り上げられて噂程度じゃ済まなかったはずだ。しかも濡れ衣とはいえ彼には前科がある。こんな郊外の狭い町一つに留まらず、テレビで報道される可能性もあるではないか。

 側から見たら言い訳に聞こえるかもしれない。けど、僕は弁解のためだけにこのことを述べたわけじゃない。あくまでこれから伝えることの、辻褄合わせに過ぎないのだから。

 話を戻そう。僕はあの日、目の前に広がる現状を信じ切れなくて、ベンチへと歩み寄った。

 そこで、確信のない気配を感じ取った。全身の毛が粟立ち、急激に血の気が引いていく。過去のトラウマが何故か想起させられて、一瞬だけ足が止まった。

 あの上着に触れてはいけない。ここで引き返して、全部忘れるべきだ。脳内で警鐘が鳴り響き、不意に胸が詰まった。

 だと言うのに、好奇心が全てに打ち勝ってしまった。

 さっきよりもゆっくりとした歩調で進み、ベンチの目の前に辿り着く。そして、背もたれから座板に落ちかけている黒いジャンバーを……思い切り剥がした。

 その先に広がる光景に、息が止まった。

 気配の正体は、ダンゴムシの群れだった。自分達を護るものが不意に無くなり、焦ったようにベンチの上をもぞもぞと動き回っていた。

 わっ、と必要以上に大きく叫んで尻餅を突く。

 どういうこと? わけがわからないよ!

 捨て台詞のようにそう言い残して、僕は公園を後にした。あの光景の異様さは何だったのか、今になっても理解できない。ただもし仮に非現実的な物言いを許してもらえるのなら、一つだけ心当たりがある。

 おじさんの正体は、ダンゴムシだ。

 ダンゴムシが集まって人間に化けていた。そう違いない。たとえ周囲の人間に馬鹿にされようと、撤回などしてやるものか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?