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第七回「本場のクリスマスを知っていますか?」


2017年11月 ヴェネツィア

 ヒロキがヴェネツィア市の「観光マナーについての何本かの観光ビデオ」を監修することは、八月の段階で既にプレスリリースされていた。『映画学マスターコースの学生が数々の名作映画のオマージュを元に観光マナー映画をつくる。監修は日本の映画監督の林 弘樹氏が担当!』といったような内容の記事だったと思う。

 担当教授のロベルタからは「事後承諾になったったけど良いよね?ヒロキよろしくね」というノリでオファーがあり、僕も「もちろんいいですよー」とばかりに軽々しく引き受けていた。ロベルタとのこういうやりとりは、その後何度もある訳なのだが、決まってヘビーで刺激的な展開になる……。でも、フットワークと強靭な実行力が彼女の魅力だと分かっているヒロキが、もちろん断われるはずもなかった。

 10月27日。結局、十二本の企画のうち八本を撮ることになった。それぞれ四十五秒以内で、全体を一つの鎖の様に繋げていくチェインムービー方式に決めた。またそれとは別に、学生たちが企画した短編映画の企画が四本走っていて、それらも併せてこれからの二か月ちょっとの期間で撮り切らねばならなかった。自分が撮るならまだしも、不慣れな学生たちが果たしてやりきれるだろうか。そう思い、ヒロキは映画づくりのマニュアルとルールづくりを始めた。

 しかし、ルールを作れば作るほど、彼らは言うことを聞かなくなった。納得しなければ何もしないのがイタリア人の特徴であり、分業が大の苦手らしいことが次第に分かってきた。

 そんなある日、パドヴァにあるロベルタの家でのランチをしていた時のこと。彼女は突然こんなことを僕に言ったのだ。「来月から私、二週間くらい仕事で日本に行って来ることになったから、ヒロキよろしくね!」と。ヒロキは頬張っていたラザーニャを吹き出しそうになり、一瞬何が起きたのか分からなくなった。ただ、これはいよいよ大変なことになったぞと彼のの緊急アラームは激しく点滅し始めた。

まずい、もはや祈るしか手立てはないのか…。


 ヴェネツィアの秋で最も重要なイベントと云えば「マドンナ・デッラ・サルーテ祭」である。この日は全てのヴェネツィア人が祈りを捧げ、羊の燻製を使ったスープを食す。起源は一六三〇年だというから四百年以上も続くものになる。隣のファビオに「当時イタリア全土を襲ったペスト(黒死病)の大流行で、ヴェネツィア人の三分の一が亡くなった程だと聞いた。その終焉を神様に感謝して建てられた教会、それが「救済の聖母マリア聖堂(通称サルーテ教会)」なのだと云う。(余談だが、イタリアでは乾杯の時にサルーテ(健康)と発声する)

「その日は独りでいてはいけないよ。ヒロキも教会でお祈りをしたら、うちのディナーに来なさい」

 ファビオは何度も念を押すように言った。昔、学校で習い、本で読んだペストの黒い歴史。それらが僕の目の前に突如現れたような気がした。



 11月27日、祭の当日。「秋空は鈍色にして 黒馬の瞳のひかり 水涸れて落つる百合花   あゝこころうつろなるかな」とは中原中也の詩であるが、まさにそんな曇天の日であった。この日もヒロキは一日中ヴェネツィアのまちを歩き、迷いながら次の撮影の作戦を練っていた。既に行っていた先週までのロケの第一シーズンは半ば失敗に終わったのではないかと感じ、足取りは重かった。通訳の助っ人として来てくれた女子学生も、何を言っても聞かない映画コースの学生たちに愛想をつかし、次第に来なくなっていた。現状を見るに、鈍色なのは空ではなく、僕の心がうつろなるところにあった。

 自らがやりたい短編制作には無類の情熱をかけているのに対し、マスターの課題である観光ムービーのロケの準備には、かなりの穴が目についた。それに気づいたのは監修としてではなくあくまで「立ち合い」のアドバイザーとして参加した短編の現場でのことである。自己主張が強く周りの意見を聞かない、女の子のボスであるジュリア、いつも彼女に付いてまわり意見するビルジニア、トスカーナのお嬢様育ちのコリンナ、そして気分によってコロコロ言うことが変わるイラリア、その彼女らがそれぞれの作品の現場では実に辛抱強く、描きたいことに対して諦めずに向き合っている姿に驚いたのだ。今まで経験もなく、知識も技術もない彼女らが取り組むには難解と思えた物語であったが、その世界に自ら足を踏み入れ、ちゃんともがいていた。僕は行ける日だけ都合よくロケに参加し、それを眺めているだけだった。

 この時期のヴェネツィアは連日朝には霧が立ち込め、実によく冷たい雨が降った。夜遅くまで撮影すると身体が芯まで冷える。日本でなら安く手軽に暖かいうどんやスープを摂ることも出来るが、ここではそういう訳にもいかない。彼らは時折バールで小さなカフェを飲み、手持ちの少ないお金でクロワッサンをかじり、寒さを凌いだ。どんな画を撮りたいのかを熱心に語り、会話は尽きることがなかった。(話題の中心はどうやら、ツイン・ピークスの新作シリーズの話が主だった様だ)話の半分も内容は分からなかったが、僕にはそういう風に見えた。


 サルーテ教会の周りは多くの人で賑わっていた。嘗てはカナル・グランデと呼ばれる大運河に船を並べて渡っていけるようにしていたらしいが、今ではこの祭りの数日間、いかだを並べて渡っていくことが出来た。道にはロウソク売りが出ていて、大きな一メートル位のそれを買う人も見られたが、どちらかと云えば二・三ユーロの小さなロウソクが飛ぶように売れていたように思う。

 市民だけでなく遠方から来る人も多いのだろう。人々は健康を祈りに来ているというよりも、今を生きている実感に溢れ、それを大いに満喫しようという雰囲気が感じられた。

 いつしかヒロキもまた長い列の輪に吸いこまれていたが、全然足は進まなくなっていた。前にいた家族が親しげに「中に入ればこの日だけ特別に鑑賞できる名作があるのに」と引き留めてくれたが、急用を思い出したのだとその場を後にした。

今の状況を打開する為に祈りでも捧げようとしていた自分が情けなく思え、場違いだと感じたからだった。


 船には乗らず、屋台が立ち並ぶ道を歩いて帰る。日本の祭り同様、子供向けのおもちゃを売る店や、食べ物を売る出店なども多く出ていた。違いを挙げるならば、ここヴェネツィアの出店で売る食べ物は全てが甘いものだということであろうか。

 サン・マルコ広場までは自分ひとりだけが人々の流れに逆流している様で歩きにくかったが、それも次第に落ち着くはずである。運河沿いのまっすぐな道を通らず、カッレ・デラ・マドンナの橋から路地の奥深くへ入っていくのが、いつものヒロキの道だった。朝から歩き通しで足は既に棒になり、急にお腹がすいていることにも気が付いた。そう思うと今になって、屋台の円盤型の揚げたパンの様なものが恋しくなった。甘く香ばしく、カロリー高そうなアレの匂いが視界に色となって滲み込んできていた。

 でも、今更来た道を戻る訳にはいかないし、こんな所に留まってマッチ売りの少女になる訳にもいかないんだ。そういえばファビオが言っていたじゃないか。「今日はくれぐれも独りでいてはいけないよ」って。

 さあ、帰らねば、我が家のあるサンテレナへ。一歩一歩足を前に出し、ススメ、ススムノダ!歩みを進める為には、いったん戻らねばならないのだ。

「二人のロベルタ」

 ところで、少しややこしい説明になるがファビオの奥さんはロベルタという。大学のロベルタ教授とは別の人で、この人もまた学校の先生をしていたりする。「二人のベロニカ」という映画があったが「二人のロベルタ」が僕の側にはいた。その「隣のロベルタ」が僕のことを待ってくれていた。アパートに着くやいなや、玄関をノックする音がして、彼女がドアから顔を出した。「ヒロキ、どこにいってたの?早くいらっしゃいな」と手を引かれた。温かいスープと、僕が好きだと知っているペンネをロベルタが、その脇でファビオが上等なプロセッコをどんどん注いでくれた。僕はあっという間にほろ酔い状態になった。

 未だに分からない洗濯機の使い方を聞いてみると「すぐに教えましょう」と僕の部屋に向かった。機械に詳しいファビオが例の如く懇切丁寧にマニュアルを元に指導してくれていると、後ろからロベルタの大きな声がした。

「ヒロキ、あなたカフェはどうしているの?」

「えっ、カフェは元々キッチンに置いてあったこのインスタントのネスカフェを………」

 言い切る前に、ロベルタは天をあおいだ。「マンマ・ミーア!」と。直ぐに棚の奥からマキネッタと呼ばれるエスプレッソメーカーを取り出して、

「ヒロキごめんなさいね。ファビオがとっくに伝えているものだと思ってたんだけど…。今日から、ちゃんとした上等なカフェを飲みましょう」

 そうして実際に美味しいエスプレッソの入れ方をレクチャーしてくれた。二人であーでもない、こーでもないとツッコミを入れながらである。ファビオとロベルタ、二人とも学校の先生だから教えるのは上手い。しかしながら一緒にやると漫才のようであり、微笑ましいものがあった。タイプの全く違う二人はそれほどに仲が良く、親切な、僕にとって心から有難い存在だった。

「それにしてもファビオったら本当に嫌になっちゃうわ。でもヒロキ、これで明日からはバッチリね!ここはイタリアなんだから、そしてヒロキ、あなたもヴェネツィア人なんだから……」

ロベルタは腰を上げ、ファビオも手を振りながら去っていった。

「ヒロキ!明日の朝、良かったら一緒に走らないかい?」

と再び顔を出してファビオが言う。

「ノー、グラッツェ」そう伝えると、横からロベルタが笑いながら、

「ヒロキは私と一緒にカフェしましょうね」と言うので

「チェルト(もちろん)」

と即答した。今度こそ玄関のドアが閉まり、僕はまたひとりになった。が、もう独りではなかった。台所のテーブルにはロベルタが置いていったであろう手作りのティラミスの大皿が置かれていた。


 サルーテ祭が終わると天気は良くなったが、気温は日毎に下がっていく。もう冬ですよと伝えるように、庭の木に棲む鳥が毎朝「ジジジジジ」と少しその声を高くして鳴いた。僕は時々大学に顔を出したが、相変わらず自分の研究室には近づかなかった。ラボでマスターの子たちとたわいもない会話をし、サンタ・マルゲリータ広場でピッツァをかじった。第二フェーズのロケに向けて新たに映画祭スタッフでもあるヤコポを助監督に任命した。準備のやりとりは全てイタリア語で行うように変えた。僕の語学力が足りない時だけ、ヤコポに意図を伝えてもらうようにした。ヤコポは片言の日本語が出来たし、いつか日本で映画の仕事をしたいと夢見る監督志望のいい奴だった。


 ヒロキはその頃、短編撮影を覗くか役所周りをするかだけで、アパートに帰るとネットでドラマや映画を見続けていた。イタリア語疲れもあり、出来れば日本語で観れるものを欲していたのだ。その中で最もハマっていたのがあの「ラスト・タイクーン」アマゾンプライムのオリジナルドラマだった。このスコット・フィッツジェラルドの未完の遺作を、まさかネットで観られる日が来るとは……、と本当にビックリした。舞台は白黒からカラーに変わる頃のハリウッド。主役のモンロー・スターがまぶしかった。

 ヒロキは来る日も来る日も成果の出ない役所周り(家族招聘の手続き)と、寒い中でのロケの「単なる立ち合い」で疲労しきっていた。その反動が、この夜な夜な続くネットドラマ鑑賞へと繋がっていた。世界大戦が激化する中、無敵のモンローの栄光にも陰りが出てくる。最愛の妻の死から立ち直ろうとする彼に、予期せぬ裏切りが起きる。自らの剛腕が招く仲間の死、そしてドイツからの圧力。外国人である彼がたった一人で過ごすクリスマス。いつしかヒロキはこのドラマの世界にはまり、共鳴していく感覚を覚えていた。「これは僕だ」と…。

 

 映画クラスのトマソが監督する短編撮影の時のことだ。内容は、学生運動盛んな時代の舞台俳優たちの友情と恋の物語。裏切る側と裏切られる側との葛藤を描く予定だ。テーマも重く、きめ細かい演出が求められる作品である。学生の自主制作でこれをトマソがどう描くかに興味があった。案の定、トマソがやりたいことを実現するには機材も技術もおぼつかない様子だったが、時間と手間を(それなりにお金も)かけて準備がされていることはすぐに分かった。彼らはいつ、これらを準備していたのだろう。

 主演の男女の大切な場面。ヒロキは思わずトマソに話しかけた。

「もう少し芝居を固めてから撮るといい。この場面では何を一番描きたいんだい?」

 たどたどしいイタリア語でゆっくりと問いかけた。トマソもヒロキに合わせてゆっくりと思いを返してくる。それぞれ作業していたスタッフが次第に手を止め始め、耳を澄ましているのを感じた。細かいニュアンスは互いになかなか伝わらず、やりとりは何度も何度も続いた。役者たちにも入ってもらい、少しずつ芝居を作りながら。僕の持ちうる語彙を総動員し、時に辞書を引きながら、自ら演技にも参加して伝えた。

 どれくらいやりとりをしていたんだろう。途中何度か、やはり伝わらないんではないかと諦めかけた。でも、「もうそういうことをしてはならないのだ」と諦めるのを止めた。それに呼応するかの様にスタッフも、撮影照明のセッティングを何度も変えてくる。それでも機材は足りなかったし、技量も追いつかないのは百も承知の上でのことだった。ただ、今までと彼らの姿勢が明らかに違っていることは感じた。トマソだけではない、そこに居る二十数名のメンバー全員の目が生きていた。彼らは納得すれば、どこまでも素直だった。僕の目に映る「時間も守れず、自己主張も甚だしい彼ら」は、実はしっかりとした「個と自由を持っている奴ら」だった。そして、芸術というものに対して、一様に従順でもあった。

 僕が良く知る「映画人」たちがそこにはいた。世間では一見ダメ人間とも見受けられる、愛すべき偉大な才能を持った映画人が……。そういう人たちを僕は愛おしいと感じる。人として、尊敬すら覚えてしまうのだ。まだ、映画の道を歩んで半年そこそこの若者たちにドキリとさせられた。同時に、ようやく共にモノづくりをし始められたのかもしれないなと思った。

 

 マスターに来ている彼らも、実はそもそも何の繋がりもなく、それぞれ独立した人生と目的を抱いて、今ここにいるのだ。その一見独立してバラバラに見えていた点が、ある同一の中心によって結ばれた時、新しいハタラキが生まれてくることを僕は知っていた。それが自然界の大いなる仕組みであり、映画づくりのプロセスそのものだった。ここイタリアで、ゼロを踏む為にやって来たというのに、危うく今まで培ってきたカードで戦おうとしていたことに気が付いてしまった。

 帰り道、スタッフのダミアン達と近くのバーカロ「レレ」でスピリッツを呑んだ。喉がとても乾いていて、続けざまに二杯目を飲み干して早々に別れた。少し夜風に当たりたかったので、ザッテレまで歩いてから船に乗ることにした。

 サルーテ祭を境に一日一日まちにはクリスマスムードが漂っている。通りではイルミネーションの設置作業を各所で見かけるし、広場で演奏するミュージシャンの姿を見てもそれは分かった。ヴェネツィア共和国時代に建てられた数々の荘厳な教会からは、労いと慈悲を与えてくれるような気が感じられた。クリスチャンではない自分に、クリスマスというものがどれだけ大切なものなのかが理解出来ているかは別として、それでも何かを感じられることが自分にもあり、それは確かにここにあるのだという感覚だった。

 美術館の名画の数々、その多くは宗教画であり、少し前までのヒロキには、どこか心の底から感動出来ないことへの後ろめたさがあった。その歴史と時代をつくってきた文化を本当の意味で分かり合えないような心持ちは、外国人として時に強い孤独感を覚えるものだったが、そういうものも少しずつ溶け始めていた。

 

 僕にはファビオたちが待つ「家」があり、サンテレナの地域の人達も、会えばいつも話をして、何かをくれた。今は日本にいるロベルタ教授が無条件で僕を呼んでくれた大学があり、マエストロと呼んで慕ってくれる学生たちもいるのだ。


 そして、ここにも映画があった。

 その中心によって、同一円上に結ばれていく軌道が、僕にとっての新しい物語を描いてくれるに違いなかった。


 まだ十ヵ月がここに立っていられる。クリスマスまでもあと数週間ある。ゆっくり彼らと、僕の新しい家族たちと共に食卓を囲み、ツリーを飾り、ワインを沢山呑もう。ヴェネツィア仕込みのイタリア語で愛を語ろう。そうだ、それでいい、何故なら僕は今や、ヴェネツィア人なのだから……。

帰る船に揺られながら、そう思った。


一九九三年「北の国から恋は始まる」に続く


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