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『知らない』-天災も人災も知らずに大人になりました-

1994年生まれの27歳。18歳まで奈良県で暮らし、2013年の大学進学を機に関東・茨城県在住に。つくばで7年暮らし、現在は水戸暮らし2年目。

本当に幸せなことに、ここまでの人生で何かしらの災害によって避難所生活をしたり、心から怖い思いをしたりという経験がまったくないまま、ここまで生きてきた。

関西の大災害といえば1995年の阪神淡路大震災があったけれど、僕自身は1歳になる前のことで当然記憶にはない。

いま2011年の東日本大震災の被災地のひとつある茨城県に住んでいるが、その時の自分は奈良県の高校1年生だった。学校から帰ってテレビをつけると、燃え盛る天然ガスのタンクのニュース映像が流れていて、初めて震災があったことを知った。原発のニュースを見て、放射線が自分の住んでいる街まで飛んでくるかも、というあらぬ心配を家族とした記憶が残っているくらいだ。

災害大国の日本なだけあって、地震に津波、台風、噴火と生きてきた27年の間に各地で災害が起きているが、どれ一つとして自分の身に直接降りかかったものや、家族や大事な人の安否が気になって仕方ないという事態にあった記憶がない。

こちらのサイトで2000年以降の国内の災害について、ピックアップされているが、どれも災害が起きたことは知っているが、その被害やそこからの復興の光景については「知らない」ものばかりだ。

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大学院生の頃、近所の古書店で一冊の本を手に取った。東日本大震災から6年が経ったタイミングで、あの時失ってしまった人やものへの手紙を募り、それを一冊にまとめた『悲愛』という本。

概要を見て「読まねば」と思った。大学1年生だった2013年の夏にサッカー部の遠征で石巻にいった時、津波で全壊した小学校の跡地を部員で訪れたことを思い出した。胸に来るものがあったけれど、それでもその頃の自分にとって「実感」と呼べるにはまだ遠くて、自分ごとになりきらなかった。

『悲愛』に収められた手紙に、たとえ何年経っても終わることのない喪失感を見せられた。自分が『知らない』と言うことを知った。

時は経って、今年の春。東日本大震災から10年という節目の年に、水戸の芸術館で『3.11とアーティスト:10年目の想像』という展示が開催された。

本展では「想像力の喚起」という芸術の本質に改めて着目し、東日本大震災がもはや「過去」となりつつある今、あの厄災と私たちをつなぎ直し、あのとき幼かった世代へ、10年目の私たちへ、そして後世へと語り継ごうとする作品群を紹介します。
(引用元:https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5111.html


結果として、1度では咀嚼しきれなかったので2度足を運んだ。特に印象に残っているのは、上記の動画内4:02から紹介されているプロジェクトと作品群、「二重のまち/交代地のうたを編む」(小森はるか+瀬尾夏美)で、プロジェクトのメンバーが現地の人の語りを聞き、それを自分自身で「語りなおす」という過程がそのまま作品になっている。

『知らない』と『聞く』と『語る』の営みの連なりについて考えた。

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日頃から子どもたちと関わる仕事をしているので、今年の3月11日も子ども達とサッカーして過ごして、その時に3月11日が何の日か知っているか尋ねてみた。

「今日は3月11日なんだけど、何の日か知ってる?」
「知ってる!大きい地震と津波があった日!」
「みんなは生まれてた?覚えてる?」
「テレビで見ただけー!」
「じゃあ、あんまり『知らない』っていう人も多いかな?」

小学生だから、10年前は生まれていないかものすごく幼くて、被災地にいたとしても記憶がない子がほとんどだ。彼らの『知らない』と僕の『知らない』は同じなのだと思っている。

「実はコーチはあの時高校生だったんだけど、関西に住んでいたからテレビでしか東日本大震災は知らないんだ。だから、コーチもみんなと同じなんだよ」
「震災のことを知らないコーチやみんなは、どうしたらその時のことを知れるかな」
「調べる!」「お父さんお母さんに聞いてみる!」

子どもたちには、その時どんな被害があったのかもそうだけれど、誰かの深い悲しみや、そこからどうやって立ち直ろうとしてきたのかということ、そして誰がどのように手を差し伸べたのかということ、その時の記憶をずっと胸に抱えている人がいること、そんなことを知る機会があればいいなと思う。

知ることは想像力を生み、想像力は思いやりを生む。水戸芸術館の展示概要では、こう綴られている。

東日本大震災が露わにした問題の一つは、私たちの「想像力の欠如」だったからです。しかし、ものごとを想像する/させることは、そもそも芸術の重要な仕事の一つではなかったでしょうか。
(引用元:https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5111.html

『知らない』僕は、折に触れて『知る』ことと『語る』ことを大事にしたいと思っている。想像するしかないから、そのために『知る』のだ。

知らない記憶をたずねる。
10年前の、誰かの記憶を。

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人災といえば少しぼかした言い方になるけれど、8月が来るたびに戦争と平和については考えてしまう。

去年の8月に書いたnoteで原爆と広島について触れた。戦争について当然『知らない』僕らは、戦争と平和について知っておきたいし、子どもたちと一緒に考えたり感じたりしたいと思っている。

平和に「感謝」している場合ではない。「感謝」するだけでいいのかだろうか。安寧な生活はただ誰かから与えられるものでいいのだろうか。与えられるだけのものは、いつ奪われても文句は言えないのではないか。

それは、自分たちで主体となって作り、維持するものでありたい。先人がつくった平和に感謝しながらも、しゃんとつなぎ手でありたい。

その感覚を、子どもたちと一緒に考える機会があると良いなと思う。そういうことをちゃんと話す機会があるといいと思う。

自分自身、戦争を身近に感じてこなかった上に、幸運なことに震災などの被害も受けてこなかったから、いっそう意識しておきたい。気を抜くと過ぎ去ってしまう。

今年の夏はちゃんと、8月6日の前に「明日は何の日か知ってる?」と子どもたちに話すことができた。みんなで楽しく遊んだ日の帰り際のことだったから、もしかしたら空気が読めていないのかもしれないけれど、これは僕の信条であって譲れないところもあった。

この夏に読んだ記事で印象深いものがある。子どもたちに話す直前にこのことに触れられたのは良かったと思っている。


8月6日の「原爆の日」に、五輪の選手に黙とうを呼び掛けるのはどうなんだろうという記事。

私は通算25年間カナダに住んでいるが、高校留学した際には「日本人なら広島・長崎の体験を伝えることが大事」という感覚を持っていた。しかし、留学先で日本とそれ以外の国での戦争の記憶のとらえ方の違いに直面した。フィリピン、シンガポール、インドネシアなどの友人たちから、戦争中の日本軍の残虐行為について聞かされたのだ。
日本の学校で全く教わっていなかったこともあり大変なショックだった。当時の自分の戦争についての理解は、日本が受けた被害に限定されており、大変浅く偏ったものであったことを突きつけられたのである。
海外で原爆展を行い、アジアや欧米の友人たちと歴史を語るにつけ、日本人が広島・長崎や空襲を語るときは、原爆に至るまでに日本が70年余にわたりアジアの同胞に対し残酷な支配・強制動員・殺戮を行ったことや、連合軍捕虜を虐待した歴史を念頭に置かなければいけないと思うようになった。

どんな物事にも両面性があり、その一方しか知らないまま語ることは想像力や思いやりの欠如に繋がるのだと、改めて感じた。

「戦争と平和について考えてしまう」と書いてはみたものの、いま世界で起きている平和でない事態について、どれだけ知っているだろうか。

やっぱり自分は『知らない』ことばかりだと気付かされる。

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大災害も戦争も知らないままに大人になってしまった。本当に幸せなことなのだけど、『知らない』ことが生む暴力性というか、想像力の欠如が怖い。

いま関わっている子どもたちと同じように、その時を『知らない』僕は、その一つ先へ思いを馳せるためにも、『語り』に触れていく必要があると思っている。

そして、喪失から立ち上がろうとしてきた人々のことを、どうにかしてもっと知りたいとも思う。

終戦から76年。
阪神淡路大震災から25年。
東日本大震災から10年が経った年の備忘録。

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