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子どもたちとちゃんと話しておきたいと思うこと


今日は8月15日。終戦の日。

別のことを書く予定だったのだけど、今日が8月15日だっていうのに、全くそこに触れずに生活をすることを自分の中で見過ごせなかった。みんなに「そうあるべきだ」という話でなくて、自分が自分を見過ごせなかっただけ。


正直に言って戦争や平和について考えることが少ない人生で、それでも印象に残っているのは、小学生の頃の夏休みの途中にあった全校登校日。その日は毎年、広島の原爆や沖縄の地上戦に関する資料を視聴して、感想文なんかを書いていた記憶がある。子どもながらに関心をもって、それなりに心を痛めたりしていたと思う。

小学6年生の修学旅行は広島だった。平和記念公園、資料館、原爆ドームの見学をした記憶がある。おぼろげながら被爆者の方のお話を聞いたような記憶もある。原爆の子の像に学校でつくった折り鶴も捧げた。

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その後は…

時は流れて、2年前の夏になる。インターンシップで四国へ行った際に足を伸ばして広島にも滞在し、その時ゲストハウスで出会った人と一緒に平和記念公園と資料館に行った。24歳にして人生で2度目だった。


言葉が全く出なかったのを強く覚えている。どうしてもっと早く、また来なかったのだろうと思った。これを見て、何を考えていいのかわからなかった。12歳の自分に見えていたものと、それは全く違って見えた気がした。


そんなことを思い返したきっかけが、田中泰延さんが寄稿したこの文章を読んだことだ。

戦後75年経った2020年の夏に広島を訪問した話。平和記念資料館をまわる間、「言葉が出てこない」と書かれていて、2年前の自分もそうだったと思いだしたのだ。

(縁あってこのnoteにたどり着いた方には、ぜひ読んでもらいたい文章。)


2年前に思ったのは、数年に1度は必ず、あの感覚に出会いなおさなければならないということ。

あの感覚は”キズ”だと思った。田中泰延さんの文章では、「恥」と書かれていた。当時広島にいた田中さんのお父さんが、原爆のことは語らなかったことも含めて、「恥」。それをいま、見ているだけの自分たちの側にも「恥」が生じる。

もしかしたらそれに近い感覚を僕も受けていて、あの時のことを僕は「心に”キズ”を負った」としたのだと思う。

”キズ”があるから、滲みるのだ。

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小学生の頃、なんとなくできたその”キズ”は戦争や平和に強い関心を持たない間にすっかり癒えてしまっていたのかもしれない。

学校教育で言えば、どうして高校生の頃、平和学習のような時間がなかったのだろう。「いや、あったよ」と同級生に言われたらどうしようと思ったが、あったとすればどうして記憶にないのだろう。

それくらいの年代の子たちにこそ、”キズ”が必要な気もする。僕が広島へ行った12歳と24歳のちょうど間、18歳は高校3年生だ。その時にもう一度、あの資料館に、原爆ドームに訪れていたら、僕はその後の数年間、この8月上旬に何を思っていただろうか。


先に紹介した田中さんの文章は8月6日に公開されている。広島に原爆が落ちた日。落とされた日。

存在は知っていて、ただサーバーが落ちていたこともあって「後で」と思っていたら、読むのが昨日になってしまった。

読み終えて、「しまった。」と思った。


いま小学生とサッカーをしていて、ちょうど1週間のお盆休みに入っている。

8月6日も8月9日も、当日、もしくは前日に子どもたちと活動をしていた。一言、話題に出すだけでも良かった。関心を持たせるチャンスがあったのに逃してしまっていた。

子ども達「と」そういう話をできる大人でいたいと思った。そう思わせてくれたのは先の田中さんの文章で、それがまた自分の心にある”キズ”を思い出させてくれた。恥ずかしながら、それがなければ今、こうは思っていないと思う。

その証拠に、8月9日は気づかないうちに過ぎ去ってしまっていて、その早朝に僕はnoteを更新したりしている。いま、8月15日だからこういう話をしようと思っているのとは意識が全然違う。長崎の話は、学校の平和学習でもあまり学ぶ機会がなかったこともある。


いま関わる子たちに、学校でそういった夏休みの平和学習の機会があるのかはわからないけれど、その感度を高めることは僕ら周囲の大人みんなでできること。自分自身の感度を高めることにもなる。

数年おきでもいいから、子どもたちと広島や長崎に訪れて、「いっしょに”キズ”を負う」機会を持つのもいい。実際に被害にあった被爆者が近い将来一人もいなくなる、語り部がいなくなるといった問題は、知ってはいるが身近に感じる環境にはなかった。僕は実体験はもちろん、直接体験を聞いた記憶すらない。

だからせめて、いっしょに心に”キズ”を負うくらいはしたいと思った。

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子どもの頃、戦争の悲惨さを訴える映像を観たあとの感想文で、いまの当たり前の生活や平和に「感謝しよう」というようなことを書いた気もする。そういうことが求められていたのかもしれない。

いま思うとこれは少し、少し違うかもしれない。

田中さんの文章にこうある。

資料館で私たちは、被害にあった個々人の名前を知り、顔と向かい合う。しかしそこで語られる原爆は、まるで「天災」のようなのだ。1945年8月6日、凄惨なことがあった。ややもすると、自然災害について語っているようにも感じられる。

むろん、広島の街で敵と交戦することなく日常生活を送っていた「無辜の」人々にとってそれは「天災」と何も変わることがないのかもしれない。
しかし、原爆は「落ちた」のではない。人間が人間に対して「落とした」のだ。

いま住む茨城県は2011年の東日本大震災の被災地だが、その被害と復興が1945年8月以降の広島や長崎と、性質が同じものであるはずがない。


『この世界の片隅に』のこうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』では、被爆者がこう語っているシーンがあるという。

『わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ』


その「死ねばいい」が、資料館でみた、あの遺産たちを生んだのだ。 

平和に「感謝」している場合ではない。「感謝」するだけでいいのかだろうか。安寧な生活はただ誰かから与えられるものでいいのだろうか。与えられるだけのものは、いつ奪われても文句は言えないのではないか。

それは、自分たちで主体となって作り、維持するものでありたい。先人がつくった平和に感謝しながらも、しゃんとつなぎ手でありたい。

その感覚を、子どもたちと一緒に考える機会があると良いなと思う。そういうことをちゃんと話す機会があるといいと思う。

自分自身、戦争を身近に感じてこなかった上に、幸運なことに震災などの被害も受けてこなかったから、いっそう意識しておきたい。気を抜くと過ぎ去ってしまう。


次の夏は、いや、このオフ明けにでも少し話せるといいかもしれない。

いつか、2年前の夏に自分が心におった”キズ”も、一緒に感じられるといい。



2020年8月15日





・・・

あとがき


「見過ごせなかった」と冒頭に書きましたが、葛藤はありました。

こういう話を自分のnoteでちゃんと書くべきか。

公開された記事は、棚に並べた商品のようにも感じるし、そこにこの記事があることを想像した時に、違和感があるような気もしました。

ただ、その違和感を特別感に変えられないかなと、表紙やタイトルなど少しでも工夫はしたつもりです。

教育やスポーツで子ども達と関わる人にも届けば嬉しいなと思って、ただ、「平和」とか「戦争」というワードが入るだけで話題として関心が”弱く”なる気もどこかでして。

それ自体いったいどうなんだ、というのもあるんですが、それが現実かもしれないです。

僕も8月9日は考えを巡らせることもなく気づいたら終わってしまっていたし、紹介した田中さんの記事も、田中さんが書いてなかったらクリックしてなかったかもしれない。


ただ運よく、2年前の8月に12年ぶりに訪れた広島でのことを思い出せて、その感じたことをスルーはできないなと思ったし、

長崎のこと、やっぱり全国的には印象が薄くなってしまいがちな気もして。

広島とか、長崎とか、沖縄とか、ショッキングな出来事として知識を持っているそれぞれのことをどれもないがしろにしない日として、8月15日というのはちょうどいいなということで、朝起きてから一心不乱に、構成も考えずに書き切りました。


世界平和ってきっと、まずは自分の周りからだなあと思っています。


僕は「地域づくり」とか「場づくり」をこれからしたいんですけど、それって究極的には世界平和を目指す営みだと思っていて、そこにある多様性をどれだけ受け入れたり、認め合ったりして、そこで暮らしていけるか、そこで時間を過ごせるかってことだと思うんです。

ちゃんと、平和をどう作って維持するかということ話せるようになっておきたいなと思います。 

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