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レジェンドにのみ許されること

カタツムリ。夏に向けて準備中の紫陽花。クモもいますよ。
雨上がりの葉っぱの裏は混み合います。

『の』の三連続ご法度令。
文章を書いたりし始めると、一度はこれにぶち当たる。『の』の三連続というのは、例えば、「鳩子の頭の上の毬栗いがぐりは」のように『の』が三回続くことだ。私も一作目の小説でしっかりやっている。「丘の上の梅の木陰」というのがそれで、「丘の上にある梅の木陰」とでもするのがよかったのかもしれないが、そうするといまいち流れがよくない。なんか、もたつく。だとしても、とにかく『の』が三回続くのはよろしくないらしい。間延びして、ごちゃごちゃと散らかった印象を与える上に稚拙だから工夫が必要、とのことだ。
 
さようでございますか。
ならば芥川さんにもそう教えてあげて下さい。
なんなら、添削して差し上げてはいかがでしょうか。

芥川龍之介さんは、『杜子春』という作品の冒頭の一節で「土耳古トルコの女の金の耳環みみわや」と書いている。まぎれもない『の』の三連続である。小説ではないが、先日の『鳩子、ラッパーになるの巻』にもご登場いただいた宮沢賢治さんの『雨ニモマケズ』という詩の中にも「野原の松の林の影の小さな茅葺かやぶきの小屋にいて」という一文がある。これなど三連続どころではないにも関わらず、一切文句を言われない。言わせない、いや、誰も何も言えないのかもしれない。作品に引き付けられて、読者は『の』の三連続に気づきもしないか、むしろ『の』が三連続してるのにすごい! になってしまうのかもしれない。過去には指摘した人もいたのかもしれないが、今は見当たらない。消された? いや、そんな怖いことではないんだろうが、結果的にレジェンドに軍配が上がった。有無を言わさない圧倒的な説得力というのはこういうことを言うのだろう。これがレジェンドがレジェンドたる所以だ。
 
「鳩子よ、ならばなぜお前は芥川さんの『の』の三連続に気づいたのだ?」
「ぎくっ」
「作品に引き込まれなかったとでも言うのか?」
「それはその・・・・・・、ちょうど『の』の三連続の記事を読んだのもありましたし、それに『の』の三連続が比較的冒頭に出てきたっていうのもありまして・・・・・・」
「さようか。ならばよかろう」
 
と、一体誰との会話かは全くもって不明であるが、物書きなんてのはいつでもどこでも物語が始まるものだ。気にしてはいけない。
つまるところ、不用意なレジェンド批評は止めておいた方が賢明だということだ。
 
さて、この『の』の三連続を、草葉の陰の葉っぱの裏のカタツムリの殻ほどの掘っ建て小屋さえ持たぬ物書きモドキの私がやらかしたらどうだろう。前述したように、実際私もしっかりやっているわけであるが、結果から言うと誰にも気づかれていない。気づかれていたのかもしれないが、何も言われていない。それもこれも草葉の陰にいるお陰だ。レジェンドとの違いがあるとすればここだ。レジェンドは目立つ。しかし目立ったとしても許される。それどころか、さほど粗探しさえされない。むしろ賞賛される。なぜならレジェンドだからだ。理由はなんであれ、結果的に無傷であるという点のみにおいては両者とも同じだ。一緒にしちゃだめなんでしょうがね。
 
そもそも、この『の』の三連続ご法度令はいつ発布され、言い出しっぺは誰なのか。レジェンドの仕業だとは思いたくはない。レジェンドはそんなヤボではないと信じたい。どこぞのお偉い学者先生か、祀り上げられた大御所、あるいは文鎮みたいにずっしり重い重鎮と呼ばれる存在だろうか? いや、それも違うはずだ。もしかして学校教育か? どこの誰かは存ぜぬが、こうやって型にはめて、どんどん物事をつまらなくして何になるというのだろう。要は、文中に『の』ばかり続くと読みづらくなるということで、それはよくわかるが、これが功を奏することもある。「野原の松の林の影の小さな茅葺の小屋にいて」などは詩ではあるが、その好例であろう。『の』がリズム感を生み出し、読み手の視点がすっと野原の松の林の影の小さな茅葺の小屋にフォーカスされ、それと同時に、その周りの寂れた情景をも思い浮かべさせ、引きで見た状態にもなる。昨今しきりに話題になる「メタバース」やら「没入感」やらの世界を文字だけやってのけているのである。こうなると『の』の三連続はありとなる。

さりとて、一日に玄米四合しごうも食べられぬし、欲もあれば、いかることもあるが、賑やかすだけのヒョロヒョロの冷笑なぞをいつまでも模倣するのではなく、宮沢賢治が言うところのいつも静かに笑っているような、そういうものに私もなりたい。『の』が何連続しようとどうでもいいことだ。それが本質ではないのだから。

余談ではあるが、少し前に夏目漱石さんの『吾輩は猫である』についてちょちょっと書いた。とあるライターさんの記事に『僕』、『私』等の一人称で始まる小説はあまりよくないとあり、私は『吾輩は猫である』を引き合いに出してぶーぶー言った。その際、そのライターさんがなぜそう書いたのかまで書かなかったのはフェアじゃなかったと思う。単に書き忘れただけではあるが。曰く、テンプレートだからありきたり、とのことだった。世の中にはテンプレート推奨派もいれば反対派もいるというわけだ。あの後よくよく考えたところ、違う景色も見えてきた。これはもしかすると、『吾輩は猫である』が名作と呼ばれ、あとに続こう、オマージュ、あるいはパロディと称して模した作品が量産されたことで、いつしかよくある形式になり、テンプレ呼ばわりされるようになってしまったのではないか。夏目さんが書く以前にもそういう小説はあったかもしれないが、じゃあ一体何が違うのかというと、目立ち具合とやり尽くされた感だろうと思う。夏目さんが書いた時はそれが斬新だった。ゆえに目立った。それで皆が真似し過ぎてテンプレになった。それだけのことだったのかもしれない。真相は定かではないが、これはこれでレジェンド旋風かもしれない。
 
たかが『の』の数ごときでこんなあり様かと、葬られた数多あまたの『の』を数えながら、雲に座って眺める芥川さんの隣の宮沢さんの悲嘆はいかばかりのものであろうか。レジェンドを心配させてはいけない。私はレジェンドでもないのに今後もしっかり『の』の三連続をやろうと思う。これはトリビュートなんだから、文句があるなら直接芥川さんか宮沢さんににお願い申し上げます。 

たぶんこんな雲の上に座ってます。

潜っても 潜っても 青い海(種田山頭火風)