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自己決定ができる「私」:安楽死の可能性

「安楽死をしてもいい」社会は、「死んでもいい」社会につながる。社会的弱者や障害者は、いずれは「死んでもいい」という風潮の社会に繋がることを懸念する。

こういう意見の記事を最近良く見る。

私は、安楽死を「私が」したいと思う。それと同じくらい、「生きたい」と思っている「私ではない他の」方々の権利と主張を全力で支持したい、と思う。

言い換えれば、「私が安楽死をしたい」という言説は、「社会が安楽死を推奨していい」言説には絶対なりえないし「私」ではない「他人」が、「安楽死をすればいい/してほしい」というロジックには、絶対なりえない

二元論ではない。良い悪いではない。二者択一ではない。むしろ、個々人がどのように社会で存在したいか、ということに尽きると思う。

それが、自分で自分を決定する、自己決定権が担保された社会だと思う。

生のオプションが溢れる世の中:安楽死をしたい私にとっても守りたい社会

延命治療、医療技術の発展による病気治癒率の上昇、テクノロジーの進化による暮らしやすさの向上。

こうしたことは、老若に関わらず、障害者・健常者に関わらず、平等に「社会」を生きられる権利を、正常に行使できることを可能にした。

素晴らしいと思う。そして、こうした技術により、「私」個人も、愛する家族の命が助かったこともあった。なので、口先ではなく、「私」が「安楽死をしたい」という意思を持っていることにも関わらず、本当に心から、素晴らしいことだと思っているし、こういう世の中に生きていることに、感謝をしている。

従って、「安楽死をしたい」=「生もしくは生のオプションを否定している」にはなり得ない。そして、「生きたい」と思っている人、それを願う家族(他でもない私だ)のためにも、この社会に築かれた生のオプションは、一日本国民として、全力で守りたい。

念のため;私はスイスに行って安楽死をしようと考えているので、「安楽死をしたい」とは思っているが、「日本社会」を「安楽死が認められる社会に変えたい」とは思ってない。

本当は日本国民なので、日本で出来れば便利だしお金もかからないな、と思うが、私は主義主張のぶつかり合いがすごく苦手だ。*○○主義は正反対の意見であっても、双方度々合理的ではないため、議論が難しいと良く思う。

従って、大体金額がどれくらいかかるか、具体的にどうすればいいか・安楽死がどのように行われるのか、ウェブサイトで調べられたこと、実際コンタクトも取れたことを以て、スイスで出来るのであれば、スイスでいい、と結論づけた。

昨今は、「生きていること至上主義」が根強くある。それは心から尊重する。恐らく先の大戦から、今の私には想像もしないような毎日の飢え、死の恐怖、病気の恐怖、殺される恐怖と戦ったことから、上の世代の方々の教訓に根差しているのだと思う。「自分の子供には決してこんなことを味わってほしくない、子供らしく生きてほしい」と願う、私の祖父母世代の心からの祈りだ。そして、私は、その継承者で、(安楽死をしたいからと言って)「命を心から大切にする」姿勢に、一切変わりはない。*むしろ命を大切にしているからこそ、「私」は、安楽死という選択肢を選んだ。

日本人だと安楽死の歯止めがきかない?

しばしば見るのが、「日本人は、自殺すると天国に行けない教えがあるキリスト教徒ではないから、一回安楽死OKにしたら歯止めがかからないのではないか」という意見。

統計上、文化庁が公表しているデータによれば、人口の48.1%は仏教徒だと回答している。私の理解では、仏教の教えの四苦のうちの一つが「死」であり、死は不可避である、と説かれているという。*因みに、四苦のうちのもう一つは「生」だ。仏教の教えは、生と死を同等に同じ「苦しみ」として扱っている。美しい思想だと思う。

同じデータの46.5%は自分が神道系信仰者だ、と回答している。私は日本書紀や古事記、旧事本紀、風土記など、神道の元となる日本の古典が大好きで、本当に頻繁に読んでいる。(おそらく、右翼と呼ばれる街頭演説をされている方よりも、天皇史に詳しいという意味で、彼らより愛国者だと思う)。こうした日本の古典でも、イザナギの根の国のお話に代表されるような、黄泉の国を恐れる思想(穢れを嫌う)が存在する。神道も死を忌むべきとしている。

日本の人口の94.6%が、仏教徒か神道系信者であると言う。であれば尚更、この二つの宗教の教えを見ても、死に対するブレーキに十分なりえる。「本当の」仏教徒か神道系信者であれば、死と向き合う練習=生を大切にする練習が出来ているはずで、「キリスト教じゃないから、安楽死システムを導入したら歯止めが聞かない」という意見は、合理的ではない。

ここで問題なのは、「安楽死が誰でも彼でも簡単にできる社会」の前提だ。

恐らく、ここでこういう合理的ではない意見を発する人は、「自己決定」の根幹を無視している。「自分で自分が決定」できない状態で、「安楽死が誰でも彼でも簡単にできる社会」を導入することは、このご意見を持つ人が言う通りの結果になるだろう。即ち、「歯止めが聞かない」で、安楽死が簡単に出来てしまう状態だ。

そして、この議論は、上記の通り、「日本人」であることとも、「仏教徒や神道系信者」であることとも、なんの関係もないと合理的に考えられると思う。

善意でも親切でも:「苦しむその人」の自己決定を無視した助言は刃

「安楽死を推奨する方は、難病の方の生きる希望を奪うのではないか」とか、「一生懸命治療をしている患者さんに、安楽死を認める論調が高まるのは可哀そうだ」という意見も良く耳にする。

ここも丁寧に議論が必要だと思う。

そして、私はこの二つの意見に対しても、「自己決定権」がキーになると思う。「生きたい」と思う人は、「周りが「生きたほうがいい」と言っている・言っているように感じるから」生きたいのだろうか?そして、「死にたい」と思う人は、「周りが「死んだほうがいい」と言っている・言っているように感じるから」死にたいのだろうか?もちろんそういう人もいるかもしれない。

私には20代後半の時、ガンで亡くなった友達がいる。彼女は美人で本当にキラキラしていて、仕事を頑張っていて、プロフェッショナルな女性だった。食事中に体調を崩し、そのまま病院に運ばれた。余命半年のガンだと宣告された。最初は、ショックだったものの、彼女の家族や友人たちに支えられ、ガンを治すと決めた。精力的に放射線治療などを受けた。発覚後は、とても元気でガンなんかあるのかな、と思う程だった。でも本当に、見つかってから7か月後、彼女は死んでしまった。

私は、この時、「生きよう」と強い意思を持っている彼女に、「心から生きてほしい」と思っていた。補足すると、当時この時点でも安楽死を知っていて、安楽死をする、という決断を「私」はしていた。しかし、この彼女に対して、「安楽死のこと教えてあげよう」とさえ思いもしなかった。

理由は簡単だ。彼女は「生きたい」と言っていて、私の大切な友達だ。そして、「生きる権利」がある。そして、「生きる」ために、「放射線治療」という苦しい「生のオプション」を選んでいる。私は、もしこの時、誰か知らない人が来て、「安楽死っていうオプションもあるんだよ」と「善意」と「親切心」であっても言う人がいたら、本当にその人に怒っていたと思う。彼女を「侮辱しないで!」と言ったと思う。

そして、「私が安楽死したい」という権利は、この時点で、「生きたい」と願っている彼女に、敢えて話すべき話題でもない。私はそんなこと脳裏にも浮かばなかった。それは、「生きたい」という「生きる意思」を滾らせている彼女には、不要な話題だ。

私は、彼女の生を心から応援した。それは、ガンという死が見え隠れする病を前に、「彼女が彼女(自己)自身で、決定」した尊い選択だからだ。

同じように、私にはもう一人大切な人を失くした印象的な経験がある。私の祖母だ。

彼女は、ガンで病みぬいて、弱みなんか見せたこともないのに、「死にたい」と呟いたことがある。私は彼女に「死なないで」と言った。そして、彼女は悲しそうな顔をしていた

お祖母ちゃんが、「死にたい」という、お祖母ちゃんが肉体と自分自身と対話して下した「自己決定」を、「お祖母ちゃんは大事なの、死なないで!」という善意の言葉で、スルーした。

上記を見ると、私の態度は、一貫して「生きること賛成派」だ。そして、それは世間的にも良いのだろう。でも反応は大学の友人とお祖母ちゃんで全然違った。片や、大学の友人には、私の応援は響き、片やお祖母ちゃんには響かなかった。それは、「私」が大学の友人の自己決定を尊重したのに、お祖母ちゃんの自己決定を否定したからだ。

もし、「私」が生きたいのに、「死ね」と言われれば傷つくように、「私」が死にたいのに、「生きろ」と言われれば傷つく

そして、「難病の方で治療に励んでいる中、安楽死の議論が高まったら可哀そう」という議論では、「その方の自己決定権は?」という視点をぜひ、医療機関の方には大事にしてもらいたい。

恐らく、私の大学時代の友人は闘病治療を行っている時に、新聞やニュースで安楽死の話題がやっていたとしても、彼女はなんとも思わなかったと思う。なぜなら、治療を乗り越えて、生き残ることに彼女は必死だったから。彼女は「自分で」「自分が」生き残ることを心から強く信じていたから。

恐らくここで見えてくるのは、むしろ「メンタルヘルスの問題」だと思う。

自己決定を可能にするためのメンタルヘルス

私は、「死にたい」という言葉を発する人は、二種類いると思う。一つは、私のお祖母ちゃんみたいに、身体が痛くて仕方がない、治らないのであれば解放されたい、という人。そしてもう一つは、本当は「生きたい」人。

私は、前者・後者両方の種類の人達に同様の自己決定権が与えられていると思う。ただ、後者の人について、社会に安楽死を導入する際に、併せて丁寧に考えなければならないことがあると思う。

それは、「本当に「あなたが」決定している、「あなたが」したいことですか?」という視点だ。私自身、長い間自分で選択しているつもりで、自分で選択していなかった。多くの「他人が思っていそうな価値」に重きを置いて、選択を行ってきた。それは、私に大きな「生きにくさ」を齎した。

私の大学時代の友人のように、「自分で自分が生き抜くことを信じて治療に励む」場合、自己決定が成り立っている傾向があると思う。周りや他の誰でもない、「自分」が納得して決めていることから、その決定は、揺らぎにくいと思う。*勿論体調によって、くじけることはあると思うし、その場合の「死のオプション」も「生のオプション」と同様に用意されても良いと思う。

良く見かけた論調の「安楽死の導入は、一生懸命生きようとしている難病患者の希望を奪う」というものは、「これを言っている人」の目線だ。そして、もし、その難病患者さんが、「これを言っている人」の目線に立って、「これを言っている人」の納得に呼応して、「生きたい」と思う場合、その人は簡単に、「安楽死をしたい」と言っている別の人の目線に立って、「死にたい」と思ってしまうかもしれない。*「これを言っている人」の目線の通りになると思う。

この自己決定のプロセス自体には「安楽死」の論点はない。むしろ、その人が(他の誰でもない)自分を以て、自分の「WANT(したいこと)」と「WILL(意思)」を把握して、自分と対話をしているか、ということが論点になる。

健常者・障害者・難病を患っている患者(上記で上げた種類1に該当しない人)に関わらず、自己決定をする習慣のない人々にとって、論点は、「生きたい」にも関わらず、なぜ「死にたい」のかという点に集約される。お金がない、とか、家族がいない、自分は人と違う、若しくは発達障害(ADHDや自閉症など)で生きにくい、など理由は多々ある。そして、私が感じるのは、その根幹は「孤独」なのだと思う。

京都の嘱託殺人のニュースの後、同じ病気の患者さんが「(嘱託した)彼女の孤独を誰かが埋めてあげることが大切」だったという趣旨の発言をしていた。

それ自体はその通りだと私も思う。この患者さんが仰る通り、「彼女」の孤独が「誰か」がいることで、肉体の痛みも含めて癒され、「生きたい」と思える活力になるのであれば、それが一番だ。

ただ、「孤独」というものは表面的ではなく、深層的だ。私は、祖母とのやり取りで、「家族がいても孤独になりうる」ことを経験した。

加えて、ALSは進行するほど呼吸障害や痛みが酷くなる、という記事を読んだ。京都の件の「彼女」の「身体の痛み」も、「彼女」の「孤独の所以」も、「彼女」が「彼女によって」定義できるような社会を「私」は望む。

「孤独」などの、「生きたい」のに「死にたい」理由を「自分」で定義する重要性。「自分」で把握して、「自分」と対話をして、見つけていく重要性。こういう重要性を心に握りしめて、自分や他者と付き合っていると、不思議と「死にたい」は「生きたい」にまた戻ってくると思う。

何故なら、自分と新たに出会うことは、他者に自分が新たに開かれることで、「孤独」からの解放に繋がると思うからだ。私は、「私」と対話するように、「私」を愛するようにしか、他者と関われなかった。「私」が「私」とゾンザイに対話している時は、「私」の他者との関わりは陳腐だったし、軽薄だった

苦しんで、もがいて、見つけた「私」との関わり方は、「他者」との心地の良い関わりに連れて行ってくれた。

「死にたい」、「自分が生まれて来なければよかった」という裏には、「生きたい」、「自分は生まれて来て良かったと思いたい」という欲求があるのだと思う。安楽死の議論をする際に、こういったメンタルヘルスの問題も並行して議論することは有益だと思う。*安易に安楽死(安易な自殺の代替手段)に走る、という現象を減らせると考える。

安楽死の議論は、まず他でもない「自分」が「自分」とする議論だ。「死にたい」の裏にある「生きたい」を他の誰でもない「自分」が補足して、認めると、安楽死をしなくても、生きていたいと思えるようになる可能性に、辿り着くこともあるかもしれない。勿論、人によっては、「死ぬ」という結論を合理的に導くかもしれない。

安楽死が導入される社会は、健全な「自己決定権」に基づいて行使されうる社会だと思う。そしてそのためには、一人一人の確固たる「私」である「人間」の「意思」が、必要条件になると思う。*「人間」の「意思」が曖昧になる、認知症についての考えも今後書いていきたい。

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