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【偶像の黄昏】信じたいものを探した先には、ミイラしかいなかった

言葉は自由で、生きている。

「私」は、無意識に、自由で、生きている「誰か」の言葉を切り取って、「私」が信じたいように解釈する。「私」の心が助かりたいように、受け取る。

この瞬間に、言葉は、「偶像崇拝者」がしたように、「私」にミイラにされてしまうのかもしれない。

生きていた言葉たちが、「私」によって概念にされて、「私」の手から逃れられなくなった。

「それで「私」の心が救われるならいい」

これもきっと真実。

でも、私は、相手の言葉を「生きた自由な言葉」として、私の言葉と共存してもらいたい、と思う。

不自由にした言葉はいずれ飽きる

ニーチェさんの言葉;

"Tout ce que les philosophes ont manié depuis des milliers d’années c’était des idées-momies, rien de réel ne sortait vivant de leurs mains. Ils tuent, ils empaillent lorsqu’ils adorent, messieurs les idolâtres des idées, — ils mettent tout en danger de mort lorsqu’ils adorent"
("哲学者が何千年もの間扱ってきたものは、「ミイラの概念」だ。リアルなものは何一つとして、これら「哲学者」の手から生きて脱出することはなかった。いつでも偶像崇拝者たちは、自らが崇める概念を、殺し、詰め物(ミイラ)にする;彼らは崇めるもの全てを、死の危険に追いやっている"―フリードリヒ ニーチェ・偶像の黄昏(Le crépuscule des idoles/ traduit par Henri Albert―)*日本語訳 by Hatoka Nezumi

「信じたい」ものを探していた時、手がかりとなる言葉が自由であることは、私にとって厄介だった。

なぜなら、誰かが発した「良さそうな・感動しそうな」言葉が「自由である」状態は、「背景」、「その人物」、「時代」、「国や文化」など、まどろっこしい要素が付き纏っている。即ち、「今」、「この時代」、「日本」にいる「私」にとっては、こうした要素は不要だったのだ。

「信じたいものを探している」私にとって、「今」、「この時代」、「日本」にいる「私」が吸収しやすい内容にとどめておかれた「言葉」が手っ取り早く、分かりやすかった。

でも不思議と、こうして「簡単に」手に入れた「良さそうな・感動しそうな」言葉は、不思議と飽きる。

まるで、言葉が「私の鏡」になったみたいだった。私のモノマネをするようにしか響かなくなる。

すると、私は、「もっと感動的」で「もっと良さそうな」言葉を探したくなった。同じように、「いい!」と新たな言葉を見つけても、結局飽きてしまう。そして探す。その繰り返し。私は、言葉をコレクションしていた。

私は信じたいものを探していた。にもかかわらず、その手掛かりとなる言葉を、「私」の限られた要素の解釈で満たして「不自由」な状態にすると、結局、いいと思った言葉は全て陳腐になった。

「私」が「私」を信じるように、「信じた」ものは、きっと揺るがない

私は、きっと、「私」を信じられないことを埋め合わせるように、信じたいものを探していた。

だから、その手掛かりとなる、私によって不自由にした「言葉」に飽きていた。

それは、他でもない、私が私に飽きていたんだと思う。私は、長い間私を信じてあげることができなかった。

私によって不自由になった「言葉」は、私が私を信じない過程で、作られたミイラだった。自分を信じていない状態で編み上げた、「誰か」の不自由な言葉は、あくまで、「私」が信じていない、「私」の言葉にしかならない。

換言すると、私が私を自由に、無条件に信じていたら、信じたいものを探す必要もなく、手がかりとなる言葉を不自由にする必要もなかったのかな、と思う。

自分を信じられないことを埋め合わせるように、何かを信じることは、何の解決にもならなかった。自分を愛せないことを埋め合わせるように、誰かにすがることは、何の関係も生まないように

「信じたい」ものを見つけようとして、多くの言葉をミイラ化してきた私。

何十年もかかったけど、『自分を信じる』ことを見つけられた。自分を信じたら、人々の「言葉をミイラ化」してすがる必要がなくなった。

これは、「私」が偉くなった、とか「私」が成長した、とか、すごいのだ、ということを言いたいわけではない。

むしろ、偉くなくても、成長しなくても、すごくなくても、自分を信じていいんだ、と単純に思えるようになったことが、私にとって財産になった。

すると、「私」の深淵が目に見えるように感じられた。
私なら大丈夫、と思えるようになった。そして、きっと他者の深淵にも触れられると思った。私にとっての本当の静謐の中で。

私は、これが本当に他者と交わる、ということだと思う。

Facebookでの友達の人数でもない、Twitterのフォロワー数でもない。それは、数っていう記号ではなくて、まず自分を信じるという、視点。

また、一つ、怖いものがなくなった瞬間だった。自分に出会うように、他者に出会える。私ならきっと大丈夫、と思える瞬間。

ミイラの彼方には、包帯が取れて、装飾品も全部取れた、「ただの幸せな私」がいた。

(....)Popular. I know about popular. It's not about who you are or your fancy car, you are only ever who you were. (人気者になるってこと。それがどういうことか僕は知ってる。それは君が何者かってことでも、君の持ってる素敵な車でもない。それは、君がどういう人間だったかってことだけ)

(....)Popular I know about popular and all that you have to do, is to be true to you, that's all you ever need to know. (人気者になるってこと。それがどういうことか僕はしっている。君に必要なこと、それは君が自分に正直でいること。これが全て)*意訳 by Hatoka Nezumi


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