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今日も静岡茶屋でお待ちしています vol.1 春恋し・はるの茶


静岡駅北口から北西に歩いて15分ほどの『茶町』には、全国の荒茶の1割が取引されている『静岡茶市場』があり、その茶市場を囲むようにお茶屋が軒を連ねます。その茶町の細い路地の一角にたたずむ静岡茶屋。店主の薫が今日もお茶とともにみなさまをお待ちしています。

  *

萌は足元のハイヒールを見つめながら、携帯からこぼれる上司の声を聞いた。「頑張った」「次がある」とねぎらう上司の声にも失望の色が隠しきれない。

(もう消えたい……)

萌は静岡市内の小さなデザイン会社に勤める2年目のデザイナーだ。今回は半年かけて準備してきた大きな案件で先方の手ごたえはかなり良かった。意気揚々取引先まで提案にきたのだったが……。

取引先の担当者の『いいんだけど、なんか平面的なんだよね』という乾いた声を思い出し、何度目かの深いため息をつき、再び足元に目を落とした。半年前にはぴかぴかだったハイヒールの、擦れてはげかけたつま先。この半年、自分なりに精一杯やってきたつもりだ。デザイナーとして足らないものがあることは周りの評価で理解しているつもりだ。でも何が足りないのかまだ掴めない。

取引先のオフィスを出てふらふらと歩いていると、お茶の香りが鼻をくすぐった。

「静岡茶屋」

店頭にある黒地に白抜きののぼりが目に留まる。

(こんなところにお茶屋があったっけ)

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ちょうど店のスタッフらしい若い男性が掃き掃除をしている。すらりとした長身、さらさらした長い髪、涼し気な目元。萌と目が合った。

「あ、お茶飲んでいきます?」

間違いなく初対面なのに、まるで顔なじみのような気安さで声をかけられる。怪しい人には見えない。爽やかな笑顔に誘われて、思わず萌は尋ねた。

「お、お茶飲めるんですか?」

「もちろん! お茶屋なので。あ、僕、店主の薫です」

とっさに断る理由も見つからず、萌は薫と名乗った男性の後について店に入る。白を基調としたシンプルな内装。店内には商品棚にお茶缶が並んでいる。

「どうぞ座って」

勧められるままにカウンターに座る。

「普段、お茶飲みますか?」

萌は首を振った。

「あ、ペットボトルのお茶はよく」

一人暮らしを始めてからというものの、お茶といえばペットボトルだけだ。

「そっか」

薫は茶缶から匙を使って茶葉をすくって、急須にいれた。銀色のポットから大きめの器に湯を移してから、急須にお湯を注ぐ。湯を注ぐ心地よい音が広くない店内に響く。

「ところで、何か落ち込んでいたりします……?」

「えっ」

出会ったばかりの人に心を見透かされたことに、驚きを通り越してぎょっとした。

「さっき、もう消えたいって呟いていたから」

「えっ、声に出ていましたか」

「声に出ていましたかっていうか、結構大きな声でしたけど」

「ひえっ」

(今度こそ本当に消えたい……)

薫はそんな萌を気にする風でもなく、薫が急須から白い磁器に茶を注いでいる。最後の一滴を注ぎ入れて、萌の前にそっと置いた。

「どうぞ」

(こんな風に丁寧に入れてもらったお茶を飲むのはいつ以来だろう)

淹れたてのお茶はいい香りがする。ほんの少し、口に含むと、はじめに青々しい香り、つぎにほんの少しの苦み、さいごにお出汁のようなうま味。とても繊細にさまざまな味が舌の上を通り過ぎる。

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上手く言葉にできずに「美味しい」とだけつぶやくと、薫は優しい笑顔で頷いた。

(茶畑にそよぐ春風みたいな笑顔だな)

お茶の香りと薫の笑顔がカサついた心に沁みこんでくる。

                *

萌はごく簡単に自己紹介とこれまでの経緯を話した。薫はときどき頷きながら、萌が空にした器に、薫は2煎目のお茶をいれてくれた。1煎目とは香りも味も違う。

「ひとつ、お茶の話を。お茶の木は寒くなると動きを止めます。動きを止めていても何もしていないわけではなくて、地中深く張った根からじっくりと栄養を吸い上げ春を待つんです。そして、春の訪れとともにふたたび動き出します。そのとき出てきた新芽にはうま味がのって柔かく美味しいお茶ができます。だから、お茶農家さんはその新芽でその年一番のお茶を作ります。自分も上手くいかないときは『今、自分も栄養を蓄えている段階だ、春になるまでのがまんだ』って思うことにしていたりして……」

「その話、すっごい分かります。今、わたしは真冬なんだろうなぁ。春が恋しい……」

「今、飲んでもらったお茶も浜松市天竜区の、春野というところで今年の春に採れた一番茶なんです。栗崎貴史さんという腕のいいお茶農家さんのお茶です」

そういって薫は自分のスマホの画面を萌に見せた。“春”野だけに、春を連想させるようなピンクの法被の男性が映っている。

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「春野のお茶は日当たりに恵まれた山間の茶畑で作られています。香りがしっかりしていて、飲んだあともずっと口の中に余韻が残るところが僕はすごく好きです」

「お茶の余韻かぁ……」

薫の言葉を聞いて、さっき取引先担当者から言われた言葉を思い出した。『いいんだけど、なんか平面的なんだよね』『こう、匂い立つようなものがないというか』という言葉を思い出した。

(わたしのデザインに足りないのも”余韻”なのかも)

萌はお茶を飲み干して、いきおいよく立ち上がった。
「お茶、ごちそうさまでした。ちょっと出直してきます。そろそろ私にも春がきますように!」


イラスト/yukiko
取材協力/栗崎園

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