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ここから始めるしかないと、受け止めるまでの道程

今朝、「いつだってここから始めるしかない」という私の中に根付いているものの見方の記事を投稿した。

それをあえて書きたくなるぐらいに、グダグダした不調があったわけだが、その感覚の一つが、ツイッターで、幡野広志(@hatanohiroshi)さんと、兄弟児の子との質問箱のやりとりを見ていて、それで箱が開いたなと感じている。

その女の子の吐き出した文章から滲み出る痛みが、なんだかよくわかった。
ここから始めるしかないんだと、そう物事を受け止めるようになる前の私を、その子の中に見た。
以下ツイッターから主なものだけ転載。
(割と分量あり。読まなくても本文的には問題無いです。)




幡野さんの最近のツイートでも、きょうだい児のことについて興味深いことが流れているので、気になるけど、まずは書きたいことを書こうと思う。

私が、この子の言葉を聞いて、なんだか揺れたのは、私も同じように、子供の頃にもがいていたからだ。

私の母は優しい人だったが、下の子の死産を機に、生活を制限する形の信仰を持つようになった。兄は私には優しかったが、家庭内で引きこもり、時折暴れていた。父はその全てに能動的に働いてはくれなかった。機能不全家族と言っていいと思う。その中にいた。

薄々年齢が大きくなっていくにつれて、生活の中で、あ、私は普通の子と違うのだとちゃんとわかる。

そうすると、だんだん気づく。

私はおとぎ話で見たような、漫画で見たような、何も考えないで白い光に包まれたような、女の子が夢見るような、そういう、ただ甘い普通の恋愛や結婚はできない。生き方はできないのだと。

カルトや引きこもりという言葉が話題になりはじめた時代だった。
そのレッテルが貼られるということを後ろめたく思った。けれど子供の私にそれらの問題はどうできるものでもない。
また外からのレッテルはなくても、その生活自体も子供に夢を見せるものではなく、難しさがこんこんとある日々だ。

私は他の子と違って何も考えないでいられるハッピーエンドには行けないという現実は、子供ながらに考えれば考えるだけ理解する。

その中で周りの幸せそうな同級生を見れば、私だって、真っ白い幸せみたいなものを信じていたかった。なのになぜという、怒りにも似た感覚を持つ。
弟が死ななければ、母が宗教にハマらなければ。兄がいなければ。
ただ私も未来が明るいと信じたかったのにという悲しみからくる怒り、憎しみ。そして、どうにもならないと理解するだけの頭はあるからこその苦しみ。

そこから沸く、強く激しい感情。
その感情が身近な人を悲しませるいけないことと理性ではわかっている部分。わかっているのに黒い感情を持つ自分への複雑な感情。
一番近しい人たちに黒い感情を持つことへの罪悪感。
どうにもできない自分に対する無力感、憎しみ。

子供向けの正義の味方の熱い熱量を、まっすぐに信じられる友達との温度差を感じる私。けれどそれをどこかで、まっすぐ信じたかったと思っている私。

いろんなことを知っている私は、もうまっすぐに信じることができない私であるという事実。そのただ夢を見ることを、現実に変えた存在への憎しみ。
でもその存在は、夢を現実に変えるぐらい身近にあって、私の人生の一部であり、場合によっては私を愛しているものであるということを知っていること。その重さ。支えていかなくてはいかない未来の先のわからなさ。

大人になった今でもたまにふと思う。

何も考えないで幸せになれるプリンセスになりたかった。
明るく正義をまっすぐに信じて悪を倒す正義の味方になりたかった、と。
そのくやしさ。けど受け入れるしかないもの。

けど、わかってもいる。
ただこれらの感覚は、大小違えど誰だって年月を重ねる中で味わう感覚だということを。質問箱のきょうだい児のあの子や、やや特殊な環境で育った私だけではない。
ただ人より早くに、ただ何も考えず夢を見て信じるということをさせてくれなくさせられた悲しみ・怒りは、それを汲み取ってくれる人がいないとただただ強い。また現実は受け止めることができても、それはやはり一生のものだ。一生つきまとう記号。


私はその感情を、理性でコントロールした。前の記事で書いたみたく。
理由を知って理解することで、納得させて箱に入れるような方法をとった。現実の難しさを、他者と比べてしまうわたしを、削るようにしていって。それでも、恨みに染まりそうになったら立ち止まった。

あの頃はネットもまだそうなかったし、相談する相手も言える誰かもいなかった。またこういう話が人に相談してわかってもらえるとも思わなかった。第三者から見れば、家族の問題。
私はきっと「家族を支えてあげてちょうだいね」と大人から言われる立ち位置にいた。それを知っていた。その雰囲気の中で、助けてほしいということも、暗い感情を吐き出せるなどと思えなかった。

私はグレるほど体力もなかったし、真面目だった。
だからぐれなかった。

どうにもならないことを、考えて、自分の中で咀嚼した。

感情を整理して、仕方ない、今からできることをしよう、今の私なりに素敵なことをしよう。ここから始めるしかないと、落ち込むために何回も何回も思った。考え方を変えることで乗り切った。
多分、そう思えなければ生きてこれなかった。

その力になったのは、今思えば、本や漫画や映画、ゲームなどの物語の主人公の生き方だったと思う。現実に似たような経験が苦しみを持つ人や、苦しみを乗り越えてきた手本にできる人はいなかった。

物語の世界観は現実に当てはめたら私より辛い境遇だ。
そこにある人物が、それでもと乗り越えていく姿に自分を重ねていた。
物語の中なら、極端な物言いも許される、薄暗い怒りを抱えた人物が困難を弾き飛ばす。どうしようもない悲しみを受け入れる過程を何回も読む。
そういうものに自分の感情を重ねることで、多分箱にしまった自分の気持ちも整理していた。そういう考え方もあるのかと、見方の活路を開いたりした。素敵だと思う考え方を染み込ませた。
私は創作物にだいぶ救われたと思っている。

だからこそ、現代の他者に言葉をぶつけることが容易になった環境で、同じ環境を乗り越えている人と出会うことがあるツイッターで、まっすぐ怒りをぶつける若者に心が揺さぶられる。
相談できる匿名の相手がいる、今の可能性を思う。
私の時はできなかったことだ。

彼女のそのまま発露した強い言葉に、ネットというもろ刃の下手すると傷つくその可能性も見えて、ハラハラして見ていた。
それでもぶつかって受け止めてもらえていること相手がいることへの羨ましく思った。
ぶつけてその反応の賛否を投げ返されて、しっかりと最後はちゃんと自分なりに感情を占めて返せる彼女に、ホッとした。良い子だと思った。


ただ、あの強い怒りをそのまま出すことの難しさも感じた。
SNSはオープンだ。怒りをただ語るのは難しさがある。

なんだか、ツイッターをリロードしたら幡野さんのツイッターもそんな話で白熱していた。
その内容に触れるかはわからないけど、怒りの発露する場、については書いてみたいから、一度切って、次に書いてみる。


ひとまず、了


果ノ子
(書いていて、紹介したくなった物語がある。上橋菜穂子さんの小説の精霊の守り人シリーズ。シリーズ的には最後の方の巻の『天と地の守り人』、その中の積荷を守るために盗賊に荷の一部を故意に落として儲けさせるやりとりは、その後の話の展開と合わせて秀逸だ。くすぶる怒りと現実との折り合いをどうつければいいかを心地よい形で教えてくれる表現がたまらない。子供の時に読みたかったと思うシリーズ。)
(あと、ふとした時にまだプリンセスや正義の味方に憧れると書いたが、まあダークヒーローありよね、と思う。知りたくなかったことを知っていることで私たちができることもあるのだと、もう知っている。知っているから掴める、日常的な幸せがあることを大人の私は理解している。ある意味それはそれで強いから素敵だよねぇと思っている。)

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